「おまえが中学生のころ”おばあちゃん、お浄土の次の間の生活をさせてあげるよ”というてくれたことが嬉(うれ)しくてのう」
十数年前に八十歳でこの世を去った祖母が、こんなことを事あるごとに涙ぐんで言っていました。私は誰から聞いた言葉なのか、いつ言ったのか、すっかり忘れていました。おそらく、このように言えば、祖母が喜ぶだろうぐらいの思いで言ったのでしょうが、祖母が喜んで私に話してくれた言葉として、ときどきふと、胸にうかんでくるのです。そして日を経るにつれて、私の心の奥へほのぼのとしみ込んできている、忘れ得ぬ言葉のひとつであります。
この世は喜怒哀楽(きどあいらく)のたえまのない世界であり、「地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)が満ちみちている」といわれ、愁憂(しゅうう)せずにはおれない世界です。親鸞聖人も、「三塗の黒闇(さんずのこくあん)」だと言われるように、光を見失った境界(きょうがい)を生きて悪戦苦闘している私どもです。
「地獄」とは苦しむことに意味の見出せない世界です。人間はどのような苦労をしようとも、そのことに意味を感じられたならば堪えることができるばかりか、かえって苦労することに生きがいを感ずるものです。
「餓鬼」とは満足感のない生き方です。現代の日本は物があり余っているようですが、これで十分だとして満足している人が何人いるでしょうか・
「畜生」とは恥を知らず、人間らしい思いやりのない境界です。私たちは、他人の幸せを心の底から喜び、相手の不幸を本当に悲しんだことがあっただろうか。このような、満足を知らない、人間同士の心の暖かいふれあいもなく、しかも、生きることに身のふるいたつような感動もない生き方は、空(むな)しくやりきれない。と思いつつも、どうしたらよいのか見通しのない生きざまを「三塗の黒闇」といわれるのでしょう。つまり、「お先まっくら」で、人生に光が見出せない生きざまのことです。
「極楽」は限りない光の世界であり(光明無量)、かぎりなく寿(いのち)が躍動する世界だ(寿命無量)と教えられています。この世に生きているかぎり、いのちにはかぎりがあり、心はすっきりしないものです。
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無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず。 |
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(「一念多念文意」) |
と親鸞聖人も仰(おお)せられるように、この肉体のあるあいだは、この世は「極楽だ」というわけにはいきません。しかし、聞法に心を傾けるとき、極楽浄土の光が仰(あお)がれるのです。つまり、「次の間」は、本座敷ではありませんが、かすかに光がもれ、物音が聞こえてくるのです。その光は私の生きる方向を照らし出し、その物音は、生きている事実を実感せしめる響きをもっているのです。
本多 恵(さとる)
昭和12年生まれ。静岡別院輪番
東本願寺発行 昭和61年度「法語カレンダー随想集 今日のことば」 より収録 |