今月の法話   2003年2月


                         

 MSNコミュニティ 「 爺さんの独り言 : 法華経と親鸞聖人の信仰 より

公開させて戴いて良いのか解かりませんが話題提供ということでごめんなさい。
投稿者 : 長屋@爺さん  (元のメッセージ) 投稿日時 : 2002/04/21 12:45
今日は「みのぶの集い」のかめさんから、頂いた「初心者のための法華経のあらすじ」を読んで居りました。

妙法蓮華従地湧出品十五を読んで、親鸞聖人の「信心の下支え」に成って居るのは、地湧出の菩薩達では無いかと、思い当たりました。

法華経と言うと自力聖道門の経典の如く思われますが、果たしてそうでしょうか?
日蓮上人に依って、「法華宗と念仏宗」は「犬猿の仲」に成った様に言われますが、「無量寿経」「法華経」共に「大乗仏教」の真髄を語って居る経典だと思います。

親鸞聖人の信仰を下支えして居たのは「現世利益和讃」に、「南無阿弥陀仏をとなうれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげのごとく身にそえり」と述べられて有るが如く、諸々の菩薩・仏に見守られて居ると言う思いで有ったと理解出来ます。

地湧出の菩薩達は、一切衆生「法華経の行者」も「念仏の行者」も共に「同苦同感」して働き掛けて下さる菩薩様と思われます。

宗論・宗我で言い争うは「醜き争い」と言わなくては成りません。
 
「初心者のための法華経のあらすじ」を読み終えて、改めて「聖教を蔑ろにするな・聖道門の聖者を誹っては成らない」と言うお言葉が思いおこされます。

聖人もあらゆる機会に「涅槃経・華厳経」を引用され、「法華経」の思想も取り入れて居られる事が判ります。「余行とか雑行」と言って、三部経以外の聖典を学ぶ事が何故悪いのか不思議で成りません。

「法華経・涅槃経・華厳経」無かりせば、親鸞聖人の現世往生の思想は成り立ち得なかったと、思います。

親鸞聖人と「法華経」との関係について、私が思うには、比叡山に於いて天台教学を学んで居られた聖人が、法華経と身近に居られた事は充分に考えられる事です。

「信証」には「法華経」の御文こそ直接引かれては居りませんが、法華経の中心思想たる「諸法実相」「円融無碍」の趣旨は「信証」を構成する「教・行・信・証」の上に最も重要な思想として、取り込まれて居ると思います。

「現世利益和讃」も、「法華経・勧持品二十八」の四益に、配当される物で、聖人の思想の中には「法華経」の影響が有り、それらが従来の浄土思想を一歩前進させた「現世往生」の思想に成っていると考えられます。
 
「法蔵菩薩に出遇」は、私共に本来備わって居る「仏性」に目覚めたと言う事では無いでしょうか。
教行信証(信巻)に於いて親鸞聖人は「涅槃経」を引用して、
 大慈大悲を名付けて「仏性」とす。何を以ての故に。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うが如し。・・・・仏性はすなわちこれ如来なり、仏性は「大信心」と名づく。
一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに、このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。と、有ります。
 
一切衆生悉有仏性はやがて「草木国士悉皆成仏」と言う思想に発展するものです。
一切衆生と言う中には、「念仏の行者」も有り「法華経の行者」も「禅宗の修行者」も「真言の行者」も総て含まれるのです。
「仏性」一に目覚めた者はすべからく「如来に等し」と成るのです。
皆歓喜地に集う、ご同行なのです、禅宗の人々共「やぁやぁご機嫌様」と挨拶が出来るのです。

「一切の荘厳、応に随いて現ず。微風徐く動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その声を聞けば深法忍を得、不退転に住せん。仏道を成るに至りて、耳根清徹にして、苦患に遭わず。
目にその色を覩、耳にその声を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味いを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもって縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せん。仏道を成るに至るまで、六根清徹にして、もろもろの悩患なし。と、「仏の世界」が見えて来るのです。
 

投稿者 : お坊さん 投稿日時 : 2002/04/22 14:04
こんにちは
法華経についてのコメント読ませて頂きました
親鸞聖人の在世鎌倉時代には、法華経との争いはありません
日蓮聖人は念仏無間・禅天魔・・・・と誹謗しました
法華経の教えは賢者の教えであり末法の時代・・正法・像法・末法の三時思想から今の世の中は
教を聞き行じて悟りを開くことは、凡夫には無理である故に念仏一つで往生するという考えでありました
賢者は法華経をよりどころにすればよいことで、愚者は浄土3部経による念仏で救われていくのであるという立場でありました
比叡山の天台宗では朝に法華経夕べには念仏の勤行が今日でも続いてるところです
歎異抄の第2章「おのおの12カ国の境を超えて身命を顧みずしてたずるきたらしめたもうおんこころざし
ひとえに往生極楽の道をといきかんがためなり しかれば南都北嶺にもゆゆしき学生おおくおわせられ候・・・」と
関東からの弟子をはねつけられました。まさに法然より教えて頂いた念仏より他に無いという力強さを観ずるところです
また、当時も今日も相でしょうが天神ちぎをあげめるひとがおられてそれは、形のうえであり如来の信心を頂いた人は
心動かないと申されております
後の蓮如上人もしかり他のものと、争論あることいかんとご文章にもお書きになってます
日蓮聖人の気性からたのものは全て否定され法華経のみと頂かれたことは、賢者なればこそでしょう
後覚如上人いご学問の争論がありました。それはすでに決着済みであることは承知の事実であります
釈尊の説かれた説法は「対機説法」「応病予薬」とも言われるように人の根機によって法を説かれたことであり
どれが良くてこれが悪いと言うことは、釈尊を否定することに他なりません
杉浦
 
----- 元のメッセージ -----
差出人 : 長屋@爺さん
日時 : 14年4月21日 13:40
宛先 : 路端の花と地蔵さんと。
件名 : 法華経と親鸞聖人の信仰 
投稿者 : hisin 投稿日時 : 2002/06/13 22:26
なかなか鋭いですね。
どんどん思索して下さい。
楽しみにしています。

MSNコミュニティ 「路端の花と地蔵さんと。 より収録
 


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