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肥後国三十三観音所調査報告に見られる天台宗寺院
1.漢字処理の問題
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【例】『妙法蓮華經』序品部分
(*[URL=http://www.biwa.ne.jp/~kanden/data/hokekyo.html])
◇どうような方式を採用するにしてもJIS外文字(外字)を用意する必要がある。
利用するOSをある程度絞る必要があるかも知れないが、それでは、汎用性の問題
が残ってしまう。現在数万字の文字を扱うソフトもあるが、未だ発展途上にある。
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【UNICODE】を採用した例『般若心経』(Nifty-serve FJAMEA)MARO氏提供部分
2.日本語の問題
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国字の扱い 本書では「日本人の造字した文字」、いいかえれば、中国にない文字(偶然、同
字形になってしまったものもある)という範囲で、国字と呼ぶことにする。
国字はその造字法から次のように分類できる。
(一)漢字を合字したもの
@意味を組み合わせたもの(会意の字)
A音を組み合わせたもの(「麿」←麻+呂など)
(二)漢字を省画したもの、くずしたもの
B省画字(略字)
C片仮名・平仮名
(三)漢字の省画したもの、くずしたものを合字したもの
D省画字の合字
E仮名の合字(トモ・トキなど)
とあり、また、『大漢語林』(大修館書店刊)276頁の「国字」の説明によれば、
(1)日本語固有のニュアンスを伴う概念を表すために、中国にはない純日本製
漢字が出現する。
俤(おもかげ)、働(はたらく)、峠(とうげ)、榊(さかき)など
(2)日本製漢字を求める過程で、結果的には中国の漢字とは異なる、それでい
て字体は偶然一致してしまうものも生じる。
偲([日]しのぶ[中]忠告しあう)・咄([日]はなし[中]しかる)
などに分けて考えられるが、国字の典型は地名・姓など固有名詞に表れる。
としている。
ここで特に問題となるのは、組み合わせ文字、略字、片仮名、平仮名、仮名の合字と
いう点であろう。これらを含む原典から、どのような基本テキストを構築するかが、基
礎作業の最重要ポイントとなる。
これらの点は、日本文献のそのほとんど全てが当てはまる問題である。同様に、返り点
についても、その原典の返り点情報を活かすのか、省くのかを考慮に入れて基本テキス
トを作成する必要がある。因みに、大蔵CDの場合は、書籍版と同様の表示モードと、
検索用のモードがあり、テキストも二重に作成されているようである。
基本テキストと同時に1つの方法として、マルチメディア辞典と同様な手法が可能で
はないかと考える。既に「岩波仏教辞典」や「浄土真宗聖典」が電子ブック版として、
一般に公開されている。活字化された文献と原典と絵などを組み合わせて、研究資料と
することも出来るだろう。
例えば、『續天台宗全書』史傳2の『傳教大師利生記』は、原典の木版本には絵もあ
り、また文章は、変体平仮名まじり文ということから、翻刻活字文と合せて見ることも
必要な場合があるかも知れない。
3.情報の公開と配布の問題
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4.インターネットを利用した研究試論
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〔例2〕小川寛大氏(熊本県高校生)
小川氏のホームページ【http://village.infoweb.or.jp/~fwhk4659/】
ここには、『肥後国三十三観音所調査報告』が公開されている。
〔例3〕紀州長保寺(瑞樹
正哲氏)b
肥後国三十三観音所調査報告に見られる天台宗寺院《肥後三十三カ所観音霊場巡礼》
1、円通寺 2、報恩寺 3、4、流長院 5、心光寺 6、三宮観音
7、出町石仏 8、富尾観音堂 9、法成時 10、常福寺 11、威徳院
12、岳林寺 13、石神社 14、千原観 15、禅定寺 16、本覚寺
17、安国寺 18、法蓮寺 19、高観音 20、清水寺 21、春日寺
22、長谷寺 23、天福寺 24、常 寺 25、延命寺 26、蓮台寺
27、無漏寺 28、妙恵寺 29、浄国寺 30、盲観音 31、正法院
32、松林寺 33、峰雲院
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以上が第1頁である。以下、第1番円通寺から順次紹介と調査報告が、観音堂や周辺の
地図と共に記されている。この中から天台宗に関係のあるところを挙げてみる。
第十番 常福寺
(所在) 釜尾町
(諸資料) 天台の古跡であるという観音堂。寺そのものはかなりの昔に廃寺となって
おり、周囲からは観音堂として信仰をあつめている。堂の建物は古く、柱や壁のいたる
ところに参拝者の打ち付けたと思われる木札がたくさん見える。
第十五番 禅定寺
(所在)横手一丁目
(諸資料) 曹洞宗 玉龍山
開基は肥前の戦国大名有馬家の一族という、宣安明言和尚。天正、文禄の頃(1573
〜1596)島原の江東寺より来熊し、立田にあった天台宗の常楽寺という廃寺を再興
しそこを禅刹として居住した。加藤清正の家臣であった並河志摩守は、宣安をあつく崇
信し城下に禅定院という名の寺を建立して宣安をそこの開祖とした。その後、現在の地
に移転し、その時に玉龍山禅定寺と改称した。 この寺の観音堂はたいへんつくりが珍
しいもので、その由来は八世湛然の時、月秋院(並河志摩守法名)の霊屋を普応閣と名
付け、観音堂としたものである。なお、この寺の観音は盗難にあい、紛失してしまった
という。
第二十番 清水寺
(所在) 春日四丁目
(諸資料) 天台宗 霊応山千手院
大同年間(806〜810)、坂上田村麻呂の発願により全国に建立された、音羽山清
水寺の一つではないかと思われる。建立されて後退廃に及び、寛永の頃(1624〜1
644)までは、念仏僧や山伏が堂守として寝起きするような状態であったそうだが、
神護寺二世秀円法印が中興して以来台密の寺となった。この寺の山門は、通潤橋を手が
けた石工たちの手による大変珍しいものであるということで、東京や大阪のほうからも
時々研究者が来たりすることがあるという。 明治初期に廃寺となり、跡地には長谷寺
が移転してきた。そのため現在この寺は長谷寺であるが、一般にその認識は薄くいまだ
に近辺からは清水寺と呼称されている。
第二十二番 長谷寺
(所在) 春日四丁目
(諸資料) 天台宗 清水山
聖武天皇の治世のころ天平年間(729〜749)、行基僧正により開基。和泉国の長
谷寺に擬して建立され、はじめは泊瀬山長谷寺と称し、後に普門山を名乗った。本尊の
観音像は行基の作という。一時退廃の時期があったが、慶長十九年(1614)秀海な
る僧が越後より来て再興し、これを中興開山とする。明治期に入り、廃寺となった霊応
山清水寺の跡地に移り、清水山長谷寺と号した。
第二十五番 延命寺
(所在) 二本木三丁目
(諸資料) 天台宗 遙拝山妙智院
開基の年代などは不明であるが、行基により建立された寺であると伝えられ、本尊の観
音も行基の作という。一時退廃の時期があったが、寛文年間(1661〜1673)、
大阿闍梨実智院快宣が再興し、これを中興開山とする。近代に入って再び荒廃し、現在
では延命寺観音堂としてひっそりと小さな堂があるのみである。
第三十二番 松林寺
(所在) 中唐人町
(諸資料) 天台宗 不動院
承平二年(932)、国中に流行していた悪疫を鎮めんと、国司の藤原保昌が古府中二
本木に草創した寺を始めとし、開山は比叡山僧都快勤というが、保昌が肥後の国司に任
命されるのはそれより後の年代のことであり、実際の建立についての詳細は不明。清正
の城下町造成の際に現地に移された。現在では廃寺となっており、わずかな石碑が往時
をしのばせる。
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以上6箇寺が見出せる。この他にも什物が惠心僧都の関係であったりする所もある。
しかしそれらは、現在天台宗ではない。
さて、この報告によると現存の寺院ばかりでなく、既に廢寺になっているところも記
されている。この廢寺の寺院も含めて、次に少し考察を加えてみたい。
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さて、先の三十三観音報告中の6箇寺について見てみる。
第十番常福寺(所在)釜尾町(諸資料)廢寺,観音堂現存
★常福寺,金浦山,普門院,肥後國宇土郡浦村,正覺院法流[比直末],H,P:18a
★常福寺[廢](社),金甫山,普門院,宇土郡浦村,三宮社社僧・山門末,F,P:534a
第十五番禅定寺(所在)横手一丁目(諸資料)現存曹洞宗玉龍山,元天台宗の常楽寺
★この禅定寺については、江戸以前にあった常樂寺という寺院を禅寺として再興したと
記されている。現資料から得られる現在の常樂寺とは、異なる寺院であると見られる。
○常樂寺,上益城郡益城町大字小池,G
○常樂寺[廢](廢),飯田山,?,益城郡小池村,山門末,F,P:533b
第二十番清水寺(所在)春日四丁目(諸資料)天台宗霊応山千手院,廢寺,現長谷寺
★清水寺,?,?,肥後國飽田郡木間,[東遠國孫末]神護寺末,T,P:126a
★清水寺[廢](廢),靈應山,千手院,飽田郡春日村,熊本神護寺末,F,P:535b
第二十二番長谷寺(所在)春日四丁目(諸資料)天台宗清水山,元泊瀬山長谷寺,普門山
現存,旧清水寺寺領
★長谷寺,熊本市春日町,G
★長谷寺,初瀬山,?,肥後國飽田郡木間村,正覺院法流[比直末],H,P:17b
★長谷寺,普應山,?,飽田郡古町,山門末,F,P:533a
第二十五番延命寺(所在)二本木三丁目(諸資料)天台宗遙拝山妙智院,観音堂現存
★延命寺,遥拜山,妙智院,肥後國飽田郡宮寺村,正覺院法流[比直末],H,P:17b
★延命寺[廢](廢),遥拜山,妙智院,飽田郡宮本村,山門末,F,P:533b
第三十二番松林寺(所在)中唐人町(諸資料)天台宗不動院,廢寺石碑のみ現存
★松林寺,大鶴山,不動院,肥後國飽田郡熊本,正覺院法流[比直末],H,P:17a
★松林寺,大鶴山,不動院,飽田郡古町,山門末,F,P:532b
このように見てくると、禅定寺を除く5箇寺ではあるが、興味深いことが知られる。
先ず、三十三観音の内、現在天台宗として現存する寺院は、実に長谷寺の1箇寺のみ
であること。次に、現在天台宗寺院としてはないが、観音堂が現存しているところがあ
るということ。寺院名まで残っている。更に5箇寺の内4箇寺は比叡山末であること。
東叡山末系清水寺は比叡山末の長谷寺に替り、天台宗寺院として再興されていること。
つまり、寺院の合併改称によって、荒廃から再興への道を進んだと見られるのである。
これは、明治の廃仏毀釈を乗り越える一つの手段であったと考えられるのである。この
ような例は、南總教区三合寺の場合にも見られる。(菅野康純氏『天台学報』31参照)
第2に、肥後国全体として見てみると、これまた寺院本末関係の問題が見い出せる。
先の肥後国の一覧で、『扶桑台宗本末帳』のみに見られる寺院がある。これは幕府に提
出されたであろう『比叡山本末帳』や『東叡山本末帳』に掲載されない寺院があったこ
とを示しており、以前に少しく調査した、門跡寺院との関係やその寺院の独自な性格も
考慮しなければならないということである。(『天台学報』31,32を参照)
例えば、九州三十三観音巡礼第十三番札所である阿蘇山の西巖殿寺が挙げられる。
『扶桑台宗本末帳』によれば東叡山末であることになるが、『東叡山本末帳』には出て
いない。
この西巖殿寺は、一方では「総領寺」と「門葉寺」と言う関係があり、また一方で、
「衆徒」「行者」「講衆」という関係で37箇坊があったようである。しかも承応2年
(1653)に比叡山末から東叡山末となり、「行者」は醍醐三宝院当山派に属したと
記録されている(肥後国誌)。また明治4年(1871)には、延暦寺末に復している
記録がある(阿蘇郡誌)。このような資料がありながら比叡山や東叡山の本末帳には、
その記録が見当たらない。また「阿蘇山衆徒」の長善坊末に当たる大山寺も『扶桑台宗
本末帳』のみしか出ていない。この様な問題については、門跡寺院の記録を見てみるこ
とも必要になる。以前に豊後国六郷満山についての調査でも明らかになったが、この様
な一山の形態をもった寺院は、特にその寺院独自の本末関係と門跡寺院との関係に注意
が必要であった。そこで門跡寺院関係の記録を見てみることにする。
『青蓮院御門跡御末寺・妙法院御門跡御末寺・梶井御門跡御末寺』(叡山文庫蔵)を
見てみると、先ず、「妙法院御門跡」のところに、
天台宗 肥後國藤崎八幡宮執行 神護寺
とある。肥後国については、神護寺のみが挙げられる。この資料では、青蓮院門跡・梶
井門跡と肥後国の寺院についての記録はない。
青蓮院としては、『華頂要略』巻第五十五下(『天台宗全書』16,379頁)には、
肥後國
乾龍寺 池邊寺 鏡社 阿蘇山
肥後國 千栗山
とあり、また同じく、『華頂要略』巻第八十六(青蓮院蔵)には、
肥後國
阿蘇山 乾龍寺 池邊寺 (中略)
本覺寺 號拜三山多聞院 舊青門末寺。今延暦寺末。正覺院之法流云云(中略)
拜三山。村上天皇勅願 天上寺。花山院勅願 顯神院。近衛院勅願
叡高別院西九一社。近衛院重勅號 (中略)
社家。有僧俗
舊者。本覺寺。福正寺。長徳寺之三宮司也。天正年中兩寺[福正・長徳]滅亡。
此外別院二箇寺。善逝寺。護國寺。是者不從社役云云
とある。なお梶井門跡の関係は見当たらない。
先ず、妙法院門跡と藤崎神護寺については、『東叡山本末帳』では「直末御支配」と
あり、『扶桑台宗本末帳』では、「妙法院宮末」とか「輪王寺末」「延暦寺末」などと
記録されている。現在は藤崎八幡宮として現存するが、記録によれば、宮寺として神護
寺・彌勒寺・勝成寺・妙樂寺の4箇寺があったようである。しかし、廃仏により現在は
皆廢寺である。例祭も仏教的な名称は、皆変更されているようである。
次に、青蓮院門跡の方を見てみると、肥前国の寺院が混在している。阿蘇山について
の記録があり、またその他の寺院も僅かながら確認できる。このことからやはり門跡寺
院との関係や神社と関わりが、明治以後の寺院復興と密接に関係があることわかる。
本末関係も宮寺としての機能が実質の寺院は廃仏に追込まれたようである。