大きな地図はクリックしてね 


両社神社
両社神社 大津市下阪本三丁目鎮座

松ノ馬場通りが旧西近江路と交わる四つ辻は、両社の辻と呼ばれ、通りをはさんで向かいあう酒井神社とともに、まるで松ノ馬場通りの入口を守るかのように鎮座しています。かつては、北に位置する酒井神社に対し、両社神社は南若宮あるいは南両社ともよばれていた。 現在、両社神社はイザナギノミコト・イザナミノミコトの二柱をお祀りしています。
杜伝によれば創建は、元仁年間(1224〜25)、高穴穂神社(禅納さん)の祭神を酒井神社の境内に勧請したことにはじまるという。織田信長の比叡山焼き打ちによって、酒井神社と共に焼亡しまたが、天正三年(1575)に再建され、現在の本殿は元和六年(1620)に、酒井神社の本殿と共に、広島藩主浅野長晟によって建立されました。酒井神社から独立したのはこの時であります。この本殿は、蔓股や虹梁など、細部に若干の違いがあるが、建築様式は酒井神社のものとほぼ同様で、県指定の文化財に指定されています。酒井・両社神社は浅野家の崇敬をうけましたが、浅野幸長が当時の坂本城主長政の子として産まれ、その産土神となったからであります。

幸神神社 大津市下阪本四丁目鎮座

祭神は、天照大神をお祀りしますが、以前は奥玉神・道祖神・船玉神とも称し、日吉大社の境外百八社のひとつで、興成社ともよばれていました。
社伝にも、詳しい由緒は記されていないが、延暦二十年(801)に勧請されたことにはじまると伝えられています。織田信長の比叡山焼き打ちの際に焼亡し、再建され現在に至るという。幸神の「さい」は、「境」や「塞」に通じ、境内の北側を藤ノ木川が流れる集落のはずれに位置していることから考えても、禍いが集落に入るのを防ぐ神であったと思われます。また、鳥居の両側には、江戸時代の鉱物学者木内石亭が寄進した、文化二年(1805)銘の石灯灯籠があります。

厳島神社 大津市下阪本五丁目鎮座

その創建は、延暦年間(782〜806)に、広島県佐伯郡宮島の厳島神社の市杵島姫命をこの地に勧請したことにはじまるといいます。現在もこの神を主祭神としてお祀りしています。広島県の厳島神社が瀬戸内海の海上交通を守護する神として崇敬を集めていたのと同様に、当社も琵琶湖の湖上交通の安全を守ることを願ってここに勧請され、お祀りされていたのであります。
また、この他に境内には弁財天を祀った小祠もある。一説には、竹生島弁財天を分祀したともいわれています。

磯成神社 大津市下阪本六丁目鎮座

磯成神社は、日吉大社の社外百八社のひとつで、創建年代は不詳である。現在は磯成大神を祀るが、もとは、日吉社家の祖霊を祀る神社で、祝部西麻呂の霊がお祀りされていました。社家が坂本に移住して後は、地元の氏神として崇敬を集めるようになりました。この社の周辺は富崎と呼ばれ、中世には馬借・車借が集住する地でもありました。近隣の浜辺に新唐崎とよばれるところがあり、ここには唐崎の松の種子から芽吹いたという松が枝をのばしています。この松は、磯成神社の御旅所の霊松として崇敬されていたといわれています。

若宮神社 大津市下阪本六丁目鎮座

祭神は大山咋神と国常立命を祀る。日吉大社の杜外百八社のひとつである。社伝では、創建は白鳳時代にさかのぼると伝えるが定かではありません。織田信長の延暦寺焼き打ちによって焼失し、一時、栗太郡に遷座していたが、天正年間(1573〜92)に再びこの地に戻ってこられました。
若宮神社は、比叡山から降りてきた道が西近江路と交わる三叉路いわゆる比叡辻に位置しています。毎年四月の山王祭では、七本柳を出発し、唐崎までの船渡御を終えた神輿が、若宮神社を下船場とし、ここから大宮の神輿は真直に日吉大社へ還御します。


大崎神社 大津市比叡辻一丁目鎮座

大宮川河口付近にある、大崎・供所・磯成社は、いずれも日吉社社家の祖霊を祭神としていました。これは、以前このあたりの富崎(下阪本六丁目)から和田(比叡辻一丁目)付近にかけて、日吉社社家が居を構えており、自らの祖霊を祀っていたことにはじまります。
社家祝部氏は、日吉大宮の祭神である大己貴神が、大和国三輪より大津へ影向され唐崎に上陸された時、唐崎に住み、神を迎えた琴御館宇志丸の末裔とされる。「日吉社神道秘密記』には、「ことごとく社家中の住居この所にあり、成仲宿禰樹下に上がり初、行言生源寺へ上がり初む、上坂本中所々に住う所也」と記されています。社家が上坂本に移った時期は、平安時代末から鎌倉時代にかけてと考えられている。成仲は樹下家の祖、行言は生源寺家の祖となりました。

供所神社 大津市比叡辻一丁目鎮座

日吉大社の社外百八社のひとつに数えられ、祭神は供所大神をお祀りしています。その創建は弘仁二年(811)と伝えられています。現在、地元の氏神として崇敬を集めていますが、もとは、日吉社家の祖霊を祀る社でありました。「日吉社神道秘密記』には、「比叡辻北ノ口小唐崎町供所大明神」として祝部成遠を祀るとあります。供所神社は、日吉大社の神体山を正面に拝する場所にあり、日吉大社を遥拝する祭祀場所が、現在の供所神社として発展したのではないかと考えられています。
社蔵の古文書によると、当社は、織田信長の延暦寺焼き打ちによって焼亡したが、天正年間(1573〜92)に再建され、また慶長九年(1604)に社殿が大破することがあり、片桐主膳正貞隆が再興したとも伝えています。
境内社として、奥成神社、福成神社、大将軍神社があります。

霊符神社 大津市下阪本四丁目鎮座
豊臣秀吉誕生祈願伝説の翁の面の形石をお祀りしている新町の氏神さま。
那波加神社本社 那波加神社 (那波加神社・那波加荒魂神社)  大津市苗鹿一丁目

那波加神社の祭神 天太玉命は太古よりこの地に降臨し、天智天皇7年(668)営社、垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖である於知別命を配祀し、那波加荒魂社は、平城天皇大同2年3月(807)斎部宿祢廣成天太玉命の荒魂社として本社の別宮として創建さたと伝えられています。
醍醐天皇延喜の制(延喜式 神名帳)にもその名を列ね、また天台宗の根本法華経を護る三十番神の29日の神として現在も著名大社の神々に並んで信仰されています。
清和天皇貞観5年(863)には、勘解由次官小槻宿祢今雄の勅を奉して領地の内若干を神領に附し、以て別当法光寺を創建。
社伝に「後醍醐天皇元亨2年(1322)綾小路二品親王弁に法光寺寺務後見定俊僧都の為めに社領及寺領を押領せられ之に依り左大史小槻宿祢千宣上奏せしに同年6月14日勅使春宮大進藤原朝臣を以て其神領を停止せられ、當氏長者(氏の長者は小槻氏)永代管領すべき御宣下あり、同御代建武2年正月28日勅使庭田内蔵頭重資朝臣を以て天下泰平祈願の奉幣あり、正親町天皇永緑4年(1561)延暦寺僧徒の暴威のために社領及寺領を押領せらる、以て元亀2年(1572)兵一癸のために社殿及建物等焼失す。後陽成天皇慶長12年(1608)以降氏子信徒等協力し、社頭を修補し、春秋古式の祭典を再興し、神田を奇附して維持せしにより諸事欠典することなし」との記録があります。

明治9年10月村社に制定
明治28年1月郷社に加列
明治35年5月31日県社に昇格
那波加荒魂神社(上社)
地主・際川神社 灯籠 地主神社・際川神社  大津市際川三丁目

地主神社は、日吉大社の社外百八社のひとつに数えられ、祭神は国常立尊をお祀りしています。
その昔、大火に見舞われた折、神社古文書は焼失しているが、日吉山王審鎮記によると長暦年間(1037〜1040年)の起源といい、天正14(1586)年に再建されたという。
際川神社は、祭神天照皇大御神をお祀りしています。
大東亜戦争(第2次世界大戦)敗戦まで、この際川にあった大津海軍航空部隊の守護としてお祀りされ、敗戦後米軍の進駐をみるにいたって、古老一同がはかり氏神地主神社の境内に丁重に遷し祀り、際川の氏神さまとして現在に至っており、大津海軍航空部隊当時奉納された落下傘の形をした灯籠があります。

戻る
滋賀県大津市下阪本
 酒 井 神 社
kasajima@mx.biwa.ne.jp