竪琴が奏でる穏やかな音色に満たされていたエバンス城の大広間に、突如として怒鳴り声にも似た力強い声が沸き起こった。 「勇ましき花婿と、美しき花嫁に乾杯!」 唱和する声とともに杯を打ち鳴らしたのは、城主であり新郎でもあるシグルドの席に集まっていた者たちだった。ある者は彼に祝いの言葉を送り、ある者は彼の銀杯に酒を注ぐ。照れたように笑う彼の隣には、妻となったばかりの女性が寄り添っていた。銀色の婚礼衣装をまとい静かに微笑むディアドラの顔を、ノイッシュは用意された席から眺めていた。 「どうしたんだ、ノイッシュ? まさかディアドラ様に横恋慕してるんじゃないだろうな?」 隣に座るアレクがからかうように声をかけた。ノイッシュは慌てて首を振る。 「違う、そんなことじゃない。お前、いくらめでたい席でも、言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」 「そりゃ、悪かった。まあ、新郎新婦に見とれてないで、お前も飲め」 返事を待たずに、アレクはノイッシュの杯に赤葡萄酒を注ぎ入れた。晩餐の席には、数種類の酒だけでなく、グランベルの宮廷料理と素朴な味付けのヴェルダン料理が並んでいる。ヴェルダン出身の新婦や招待客のために、エバンス城の料理人が腕をふるったのだ。アレクの右隣に座っていたアーダンは、ヴェルダン鳥の香草焼きが気に入ったらしく、酒を注ぎがてら、他の席から料理を分けてもらっている。その光景を目の端に止めながら、ノイッシュとアレクは杯を目の高さに掲げた。 「シグルド様とディアドラ様に」 軽く打ち鳴らした酒杯に、ノイッシュは軽く口をつけただけだったが、アレクは自分の杯をほぼひと息で空にしていた。 「で、お前は何でまた、お二人に見とれてたんだ?」 アレクには、ノイッシュの先ほどの視線が気になったらしい。隠すほどのことではないので、ノイッシュは問われるままに口を開いた。 「シグルド様が、いずれ奥方様を迎えられることは分かっていたが、その日がこんな形で、こんな風に来るとは思わなかった。そう思っただけさ」 「そうだな。シグルド様は、戦争が始まる前は、俺たちと狩りや剣の稽古ばかりしていたものな。俺はてっきり、シグルド様は女には興味がないのかと思って、心配してたんだが」 「失礼だろう、アレク」 ノイッシュは小声でたしなめたが、怒る気にはなれなかった。ノイッシュ自身も、多少なりともシグルドの結婚を気にかけていたのである。 士官学校を卒業したころから、シグルドには幾つかの縁談が舞い込んだが、彼は興味を示さなかったし、彼の父であるバイロンも、子の縁談を政略の材料にするような人ではなかった。彼がレンスターの王子から義父と呼ばれるようになったのも、若い恋人たちが想いを遂げた結果であって、考えがあってのことではない。 一年ほど前に、王都バーハラで開かれた舞踏会の席で、ある貴族の令嬢が、シグルドに露骨に迫ったことがあった。だが、シグルドは令嬢の誘いに気づかなかったばかりか、胸が苦しいという彼女の言葉を、病ゆえのものと思い込んで、近くにいた召使に命じて介抱させたのである。その件以来、シグルドに縁談を持ちかける者は、目に見えて減っていった。 「まあ、何にせよ、これで世継ぎが生まれれば、シアルフィ家は安泰だ。バイロン様にとっても、シグルド様にとっても、ディアドラ様にとっても、めでたいことだな」 言い終えて葡萄酒を口にしたノイッシュの横顔を、アレクが眉を寄せて睨んでいた。 「何をひとごとみたいに言ってるんだ。世継ぎをもうけて家の安泰を図らなければならないのは、お前もシグルド様と同じなんだぞ。シグルド様が結婚するまでは、なんて言い訳は、もう通じなくなったからな」 「別に、言い訳をしたつもりはない。そういう相手がいないだけだ」 ノイッシュは苦笑いを浮かべる。彼は今まで、家臣や親類が結婚を勧めるたびに、主シグルドが妻を持つまではと断ってきた。主君バイロンが伴侶を得るまで、恋人との結婚を先延ばしにした父を見習ったのである。それを伝えると、ほとんどの者が納得して引き下がった。その例外がアレクで、ノイッシュを盛り場に連れ出す口実に、結婚を持ち出した。よい伴侶を得るには、よい出会いがなければならない。そんなアレクの強引な誘いに負けて、ノイッシュは何度か盛り場に足を運んだが、酒場や商店で出会う女たちに、心が動くことはなかった。 「相手がいない、か。探す気があるのかね、お前の場合。まさか、女より男のほうに興味があるとか言うんじゃないだろうな」 ノイッシュは一瞬、言葉を失った。アレクの言葉が酒の席での戯れに過ぎないと分かってはいるが、冗談にしては趣味が悪い。表情を変えることはなかったが、答える声ににじむ怒りは、完全には抑えきれなかった。 「冗談じゃない、そんなわけがあるか。それに、結婚というのは、一生の問題だろう。早ければ早いほど良い、というものでもないんじゃないか?」 騎士の跡取りに生まれた以上、いずれ妻を迎え後継者を得なければならないことは分かっている。ただ、騎士に叙任されて日も浅く、確たる武勲を立てたわけでもない自分が、結婚を急ぐ必要があるとは思えなかった。 「遅かったら、それはそれで問題さ。もっとも、四十、五十にもなって、十五、六の若い娘を嫁にもらうのも、悪くはないかもな」 「それでは夫婦というより、親子だな」 「違いない」 アレクの笑い声につられるように、ノイッシュの口元からも笑みがこぼれる。武芸の腕はほぼ互角だが、恋愛絡みの話題となると、アレクの足元にも及ばないノイッシュだった。 「そうだ。せっかくだから、お前の未来の恋人を占ってやろう。シグルド様にとってのディアドラ様のようなひとが、お前にもちゃんと見つかるか。いつ運命の出会いが訪れるのか」 歌うように言い終えると、アレクは中身が半分ほど残っているノイッシュの杯に、慎重な手つきで葡萄酒の瓶を傾けた。赤い液体が、銅の杯を縁まで満たす。なぜか、邪魔をしてはならないような気がして、ノイッシュはアレクの動きを静かに見守った。 「前に、酒場で会った占い師に教えてもらったんだ。いんちきなんかじゃない、正真正銘の恋占いだぞ。まずは目を閉じて、左手の薬指を杯に入れる」 「そんなことをしたら、酒があふれるぞ」 「いいから、俺の言うとおりにやってみろ。ちゃんと、指は杯の底まで入れて、目も、俺がいいと言うまで開けるなよ」 アレクの言葉に押されるように、ノイッシュは目を閉じ、指を杯に伸ばした。杯を撫でるように、指を静かに縁まで運んでゆく。指先が酒に触れるまで、時間はかからなかった。 「それから、指を杯から抜いて、宙で一度、円を描く。円卓や敷布が汚れるなんて、細かいことは言うなよ」 わずかに開いた口から息を吐き、ノイッシュは指を杯から離した。薬指だけではなく、中指と小指も動いているのが、目を閉じていてもわかる。指が一周して円を描き終えたころ、アレクが合図を出し、ノイッシュは目を開けることができた。 「これでどうやって占うんだ?」 葡萄酒に濡れた指を拭いながら、ノイッシュは尋ねた。ノイッシュの指から落ちた滴が、円卓に掛かった白い布に染み込んでいる。杯の周りには、二つの赤い楕円が描かれていた。 「滴の落ちた場所と大きさを見るんだ。杯は動かすなよ」 ノイッシュの体を半ば押しのけるように、アレクは卓上をのぞきこんだ。彼が丹念に調べている染みが、ノイッシュには汚れにしか見えなかった。 「驚いたな」 顔を起こすなり、アレクは驚きにも呻きにも聞こえる小声で呟いた。辛うじて耳に届いた低い声と、友人の顔つきが、ノイッシュの興味を誘った。 「どうしたんだ?」 「どう説明したものかな。まずは、ここを見てくれ」 アレクが最初に指さしたのは、ノイッシュの手前にある赤い染みだった。杯の足元に描かれた楕円は大きく、葡萄酒を吸いながら更に広がっていた。 「この円の大きさと、杯との距離が、出会いの時期と、その出会いの大きさを表している。円が杯に近ければ近いほど、出会いの時期は近いし、円が大きいということは、その出会いが人生に与える影響も大きい、ということさ」 「つまり?」 「つまり、お前は、近い将来、お前の人生を左右するような女と出会うってことさ。運命のひととでも言うべきかな」 明るく笑うアレクの肘が、ノイッシュの肩を軽く突いた。だが、その手を払いのけもせず、ノイッシュは、もう一つの染みを見ていた。アレクが言う、運命のひととの出会いを意味する染みとは、杯の挟んで向かい側にあるものだ。杯の足元からは離れているが、大きさはほとんど変わらない。その赤さが、不意に血の色を思い起こさせ、ノイッシュを不吉な気分にさせた。 「ならば、こっちの染みは、何を意味してるんだ?」 顔を右に向け、ノイッシュはアレクの気まずそうな表情を見た。問われてはならないことを問われた。そんな表情だった。慌ててノイッシュが言葉を取り消そうとした時、アレクは勢いよくノイッシュの肩に手を回し、彼の耳に顔を近づけた。 |