「これは占いだ。だから、信じる信じないは、お前の自由だ。それをふまえて、俺の話を聞いてくれ」 アレクが真剣な顔をすることは滅多にない。だからこそノイッシュには、アレクが今から言おうとしている事の重大さが感じ取れた。アレクは、決していい加減な男ではない。物事に真剣に取り組んでいる様子を、表に出さないだけなのだ。そんなアレクの性格を知っているのは、ノイッシュとシグルドぐらいだろう。 「分かった」 ノイッシュが頷いたのを確かめると、アレクは小声で説明をはじめた。それによると、もう一つの染みは、出会い、すなわち得るものを意味している杯の足元の染みとは逆に、失うもの、つまり別れを暗示しているのだという。つまり、二つめの染みと大きさと、杯までの距離が、別れの大きさと時期を表していることになるのだ。 「この占いの結果を信じるならば、俺は近い将来、大きな出会いと大きな別れを経験する、ということになるのか?」 「ああ。そういうことになる」 「だが、所詮は占いだ。外れることもあるだろう。俺は信じないからな」 まとわりついた不吉を払うように、ノイッシュは首を振った。占いを信じる性格ではないが、それでも悪い結果を聞かされれば、気分が悪い。 「実はな、俺が前に占った時にも、同じ結果が出たんだ。こんな結果は珍しいと、占い師も驚いていたよ。俺も、正直言って、驚いた。お前で三人目なんだ」 アレクの声には、ノイッシュをからかう様子はない。普段から、占いは良い結果しか信用しないなどと言って、街の占い屋を冷やかしている男の顔とは思えなかった。 「じゃあ何か、お前は、俺とお前ともう一人が、誰か身近な人間と別れることになると、そう言いたいのか? 円卓に落とした酒の滴ぐらいで、そんなことが分かるものか」 二つの染みは、杯に指を浸けたときと、円を描いたときにできたものだ。そんなもので、未来の出会いだの別れだの占えるはずがない。ノイッシュはそう決めつけて話題を打ち切ろうとした。 「めでたい席なんだ。そんな話、もういいじゃないか」 頭のなかの冷静な部分が、ノイッシュに囁きかける。なぜ、占いの結果ごときで、なぜ、ここまでむきになっているのだろう。普段は占いなど信じていないのに、悪い結果を聞かされただけで取り乱すとは、情けない話だ。それとも、迷信であると割り切ってしまえないほどに、別れへの恐れは強いのだろうか。ノイッシュが関わりを持つ人間は、家族と主と友を合わせても、多いということはない。多くはないからこそ、失うことを考えたくないのかもしれなかった。 「それにな、アレク」 軽く息を吐いて口調を整え、ノイッシュは自分自身に言い聞かせるように語りかけた。 「人生は長いんだ。出会いも別れもある。それがどんな意味を持つか、どんな影響を与えるかは、その時になってみないと分からないし、占いが示したように悪いことが起きたとしても、この手で変えることができる。そうじゃないのか?」 「お前が人生を語るとはな」 アレクは苦笑いを浮かべていた。この友人は、占いで悪しき未来を突き付けられた時から、恐れと不安を内側に抱えていたのかもしれない。そんなことを考えながら、ノイッシュは酒瓶に手を伸ばした。 「飲み直すか」 「おっ、いいね」 「二人とも、楽しんでいるだろうか?」 ノイッシュがアレクの杯に酒瓶を傾けているところへ、声をかけてきたものがいる。振り返ると、今日の新郎であるシグルドが、新妻を伴って立っていた。 「シグルド様、ディアドラ様、本日はおめでとうございます」 ノイッシュとアレクは立ち上がり、騎士の礼とともに祝いの言葉を口にした。笑って礼を言うシグルドの顔には、わずかに赤みがさしているが、足取りにも口調にも乱れはない。シグルドの酒の強さは、シアルフィではよく知られている。酒の相手をつとめたことがあるアレクが言うには、底無しらしい。友人たちから飲まされた祝いの酒も、シグルドを酔い潰すことはできなかったようだ。 「アーダンの姿が見えないようだが、彼はどうしたんだい?」 ノイッシュとアレクの手が、ほぼ同時にアーダンの姿を指した。左手の皿に築かれた料理の山が、離れた場所からも見てとれた。彼の狙いは、ヴェルダン鳥の香草焼きだけではなかったようだ。 「アーダンらしいな。私も彼を見習って、皿を持ってくれば良かった。あの席にいると酒ばかり飲まされて、せっかくの料理にほとんど手が付けられないんだ」 屈託なく笑うシグルドの顔に、疲れの色はない。昼間に行われた結婚式のために、朝から準備に追われていたはずだ。式に続いて催された披露宴でも、座って休もうともせず、招待客ひとりひとりに挨拶に回っている。常に他者への気配りを忘れないシグルドを、ノイッシュは心から尊敬していた。 「お二人とも、お体は大丈夫ですか?」 「そうですよ、無理をしてはいけません。お二人にはまだ、夜にひと仕事残っているんですから」 意味ありげな笑顔を浮かべるアレクの足を、ノイッシュは静かに、そして思いきり踏みつけた。時おりアレクが口にする品のない冗談は、ノイッシュの顔を赤くも青くも変える。無言で痛みを訴えるアレクを睨む、ノイッシュの顔は赤かった。 「そうだな、宴の片付けを手伝わなければならないな。さすがに、食べるだけ食べて終わり、というわけにはいかないだろう」 シグルドが話をはぐらかそうとしているのか、本心から言っているのか、ノイッシュには判断できなかった。足の痛みに顔をしかめるアレクも同様だろう。 「お二人とも、これからもどうか、シグルド様のことをお願いいたします」 シグルドに寄り添うように立っていたディアドラが、白銀色の髪を揺らして深く頭を下げた。物静かだが、芯の強い女性だ。その物腰には、ヴェルダンの森に隠れ住んでいたとは思えないほどの気品が感じられる。シアルフィ公子妃として、エバンス城主夫人として、ディアドラは夫を支えていくだろう。何よりも、二人の心は深く結びついている。尊敬する主人とその妻にノイッシュができることといえば、今まで以上に忠誠を尽くすことだけだろう。 「身に余るお言葉です、ディアドラ様。私はお二人に、今まで以上の忠誠を尽くすことを誓います」 「ありがとう、ノイッシュ。君の忠誠は嬉しいが、どうせならば、君からは結婚の報告を聞きたいな。お父上を見習うのはいいが、私もこうして妻を迎えたのだし、君が遠慮することはない」 ノイッシュは足を滑らせ、もう少しで床に尻もちをつくところだった。かろうじて体勢を立て直すと、アレクが悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべているのが見えた。 「ご安心を、シグルド様。さっき杯占いをやったんですが、ノイッシュの奴、近いうちにいいひとと出会えるみたいですよ」 ノイッシュが止める間もなく、アレクは卓上の杯を指さしていた。シグルドは体を傾けて、杯とその周りの染みを眺めていたが、やがて顔をあげた。 「良かったじゃないか。でたらめだと思っているかもしれないが、この占いは当たる。私が保証するよ。何と言っても、ディアドラと出会えたからな」 ディアドラの肩に手を置きながら、シグルドが笑った。近い将来にノイッシュに訪れる出会いを、心から喜ぶ顔だ。彼の笑顔を見ていると、ノイッシュには頷くことしかできない。出会いを示した占いが、別れをも同時に示していることなど、今、幸福のただ中にいる主君に言えることではなかった。 「では、二人とも楽しんでいってくれ」 短い挨拶を残して、シグルドとディアドラは隣の円卓に移った。招待した騎士たちに二人が話しかける様子を見ながら、ノイッシュとアレクは椅子に腰を下ろした。 「アレク、まさかもう一人というのは……」 シグルドたちに聞こえないように、ノイッシュは小声で囁きかけた。そして、それを制するアレクの声もまた、低く鋭かった。 「ノイッシュ。このことは、誰にも言うなよ」 「ああ」 短く大きく頷き、ノイッシュは杯を手に取った。胸に甦った不吉で不快な思いを薄めようと、酒を勢いよく流し込む。普段から、酒に強い性質ではない。杯を重ねているうちに、酔いが回りはじめた。 「おいノイッシュ、寝るなよ。お前を部屋まで運ぶなんて、俺は御免だからな」 アレクの手が、ノイッシュの肩を揺さぶる。ノイッシュは首を大きく振って頷いたが、眠気を払い落とすことはできなかった。酒に濡れた唇から、低い呟きが漏れた。 「どんなひとなんだろうな、俺の運命のひとは」 「うん? 何か言ったか?」 不思議そうな顔のアレクが、ノイッシュの顔をのぞき込んでいる。ノイッシュの目は、シグルドとディアドラを見ていた。投げかけられる祝いの言葉に、シグルドは照れたように笑い、ディアドラは幸福そうに微笑んでいる。シグルドにとってディアドラがそうであるように、愛する女性、愛してくれる女性こそが、運命なのだろうか。だが、たった一人の女性を愛するということが、どのようなことなのか、ノイッシュには見当もつかないでいる。彼と出会う運命は、それを教えてくれるのだろうか。それとも、逆だろうか。 「愛が運命を教えるのか、運命が愛を教えるのか。何にせよ、ああやって、自分のことだけを思ってくれるひとがいるのは、いいことなのだろうな」 その人は、自分の前にも現れるのだろうか。そんなことをぼんやりした頭で考えながら、ノイッシュは円卓に置いた両腕に額をのせた。 「こら、ノイッシュ、寝るな! もう少しでお開きになるから、それまで我慢しろ。ほら、そろそろ帰る連中がいる」 アレクの言葉通り、招待客が一人ずつ大広間から去っていく。楽士が奏でる竪琴の音色も、どこか寂しげだ。夜の闇に包まれた中庭から、虫の鳴く声が聞こえてくる。やがて、招待客への挨拶をひととおり終えたシグルドが、ディアドラを半ば抱きかかえるように大広間から消えていった。 宴は、終わりを迎えつつあった。 |