シスターに手を引かれて礼拝堂に入ると、祭壇の前に置かれた小さな柩がノイッシュの目に映った。祭壇に司祭が立ち、壁際には神官が控えている。参列者席には、両親と執事、その妻でもある乳母だけが腰を掛けていた。 執事夫婦と一緒に教会に来たはずなのに、なぜ自分だけが後で入るのだろう。首を傾げながらも、ノイッシュは両親の間に座った。驚いたことに、時間に厳しい父が、遅れたことを叱らなかった。 司祭がエッダの聖書を読みあげている。声が小さいのか、言っていることが聞こえない。仕方なく、ノイッシュは二列目の席から神父の唇の動きを見ていた。 長い説教を終えると、司祭は参列者を祭壇の周りに集めた。シスターが配り歩く小さな白い花の名前が、ノイッシュにはどうしても思い出せない。父に尋ねようとして、彼は目を疑った。 いつの間にか、父の腕に赤子ほどの大きさの白い布包みがあった。それを抱く父の顔は険しく、ノイッシュはとても声をかけられなかった。 母ならば、包みの正体を知っているだろうか。右側に立つ母を見ると、喪服ではなく、白い寝間着に緑のガウンを羽織っていた。母は寝込んでいて、葬儀に出られないのではなかったか。いや、母は参列しなかったはずだ。 ノイッシュの違和感は、蓋の開いた柩を見たことでさらに強まった。遺体が柩に収められるのは、葬儀の前日のことだ。そして柩の蓋には釘が打たれる。小さな柩に金づちを振る執事の姿を、ノイッシュは確かに隣で見ていた。 三人の聖職者と四人の参列者は、滞りなく葬儀を進めていく。執事夫婦が花を敷いた柩の中央に、父が包みを静かに置いた。白い布のあいだから、一房の細いの髪が零れ出る。見覚えのある金色が、ノイッシュを柩に走らせた。死にゆく者の顔を、どうしても瞳に焼き付けておきたかった。 そういえば、今は葬儀の最中だった。父や司祭が止めに入らないことを不思議に思いながらも、ノイッシュの足は柩に向かっていた。軽い亡骸を抱きあげると、それが合図であったかのように、色とりどりの花に満たされた柩が赤く塗りつぶされた。 一瞬にして柩を満たした血は、床に溢れだし、赤い模様を描きながら広がっていく。これは、葬儀を妨げた者への罰なのだろうか。気がつけば、ノイッシュは膝まで血の海に浸かっていた。 見回せば、浅瀬に突き立つ岩のように、礼拝堂に浮かびあがる黒い影がある。ノイッシュは血に足を取られながらそれに近づいた。水音とともにかさを増す血から、父たちを救うために、安全な場所を探さねばならなかった。 赤みがかった茶色の髪のヴェルダン兵。グリューンリッターの紋章と各々の家紋を鎧につけたシアルフィの騎士。目の前を塞ぐ黒い影は、ノイッシュが手に掛けた、あるいは看取った死者たちの群れ、積みあげられた死体の山だった。ノイッシュは悲鳴をあげなかったのは、礼拝堂という場所と、騎士という立場を考えてのことではない。吐き気に締めつけられた喉から、声が出なかったのだ。 なおも血を流し続ける遺体の山から目をそらして、ノイッシュは腕に抱く亡骸を見下ろした。動かないはずの手が布からはみ出て、しかも短剣を握っている。顎の下から伸びた銀色の直線が、見開かれた両眼に吸い込まれた。 叫び声とともに遺体を手放し、ノイッシュの夢は終わった。 目が慣れてくると、闇の濃淡が判別できるようになった。宙に突き出した右手を握り、開く。その動作を繰り返すことで、ノイッシュは五感を取り戻した。外では雨が降っている。その水音が、血の流れとなってノイッシュの夢に忍びこんだようだ。 肌を不快な湿気が撫で、喉だけが割れたように乾いている。皮の水筒に口をつけると、葡萄酒が舌にまとわりついた。質の悪い酒ではないが、ひどく不味く感じられる。苦い薬を口にするような顔で飲み下した。 いやな夢だった。だが、現実は好き嫌いで選別できるものではない。先行する騎馬部隊がノディオンに到着すれば、アグストリアの兵が新たに死体の山に加えられるのだ。そして戦いで命を落とすのは、一方の敵ばかりではない。祖国の名誉や騎士の誇り、支配する者の正義で飾りたてられても、戦争はあくまで殺し合いなのだ。もしシグルドに仕えていなければ、ノイッシュは殺めた命の重さと罪の痛みに押し潰され、剣を棄てていたかもしれない。 シグルドと彼の軍隊は、私欲のためではなく、他者を守り助けるために戦っている。ノイッシュを支えているのは、その自負であった。シグルドが出陣していなければ、なおもエーディン公女はヴェルダンに捕らわれ、ユングヴィの民は略奪に苦しめられていただろう。今回の戦いも、シグルドが救援に向かわねば、ラケシス姫を始めとするノディオンの多くの人々が命を落とすのだ。 ノディオンの王妹であるラケシスという女性を、ノイッシュは知らない。エルトシャンとは七歳離れており、再来月に十八歳の誕生日を迎えるということだが、その年齢で結婚はおろか婚約もすませていないというのは、王族の女性としては珍しいことだった。身分ある家の娘は、そのほとんどが十五歳までに婚約をすませ、一、二年の花嫁修業の後に嫁いでいく。十四歳で婚約して二年後に輿入れしたエスリンがよい例だろう。わずかな例外は、士官学校に進んで騎士となる者や、エーディンのように僧侶となる者であった。 むろん、ノイッシュには他人の家庭の事情を詮索する気はない。グランベルとアグストリアでは結婚に対する考え方が異なるのかもしれないし、エルトシャンの妹が独身であったところで、シグルドやノイッシュに害が及ぶわけでもないのだ。ノイッシュが今、考えるべきは、顔も知らない王女のことではなく、明日の進軍に備えて体を休めることであった。 再び横たわり、ノイッシュは瞼を閉じた。雨が天幕を叩いている。ノイッシュの意識が闇を受け入れるにつれて、隣国の姫は頭の中から消えていった。 |