有里にとって「笠野さん」は変わった大人だった。 ETUのGMである「笠野さん」は、監督よりも偉いのだという。確かにジェネラルという言葉には、何となく偉そうな響きがあった。 「高校のサッカー部に例えるなら」 ウーロン茶のグラスを手に、有里の質問に答えてくれたのは後藤である。プロサッカー選手になっていなければ教職に進んでいたと語る彼は、有里の知りたいことを常に分かりやすく説明してくれる。小学生を対象にした一日サッカースクールでも、後藤の指導は好評だったから、生徒と保護者に慕われる優しい「後藤先生」を想像することは、有里にとって難しくはなかった。 「GMは監督や生徒と話をするだけじゃなくて、親御さんや卒業生に応援や寄付を頼んだり、サッカーの上手い中学生を自分の学校に誘ったり、サッカー部の生徒の進路相談に乗ったりするのが仕事だよ」 「ユニフォームの洗濯したり、飲み物用意したり、道具の手入れしたりはしないの?」 「もしかしたら、事務所の掃除ぐらいはするかもしれないけど。有里ちゃんが考えてる部活のマネージャーとは全然違うから」 後藤が挙げたGMの仕事は、大人でなければできないことばかりで、ジャージを着た高校生の出る幕はない。二人のやりとりを聞いていた松本が、笑いながら口を挟んだ。彼もまた、チームメイトの後藤と同じく、居酒屋「東東京」のお得意様である。 「俺のところには、マネージャーなんかいなかったぜ。有里ちゃんが言ったような仕事は、だいたい一年生たちがやってた」 丸を描いた有里の口から、短い声が漏れた。運動部には女性のマネージャーがいると思いこんでいたのは、明らかにテレビやマンガの影響だ。また、彼女の進路には縁のない場所だが、世間には男子校というものがあるのだ。そこに、女子生徒はいない。 「じゃあ、マネージャーやりたかった子は、どうしてたの?」 「野球とか陸上とか、他の部活に入ったんじゃないか。あーあ、俺も可愛い女マネに、ドリンクやタオルを配ってもらう学生時代を送りたかったよ」 「ドリンクもタオルも、差し入れでもらってるじゃん」 「違う。それはそれで嬉しいけど、でも、違うんだよ」 分かっていないとでも言いたげに松本は首を振った。グラスを空けた後藤が、穏やかに笑う。 「まあ、青春時代の夢みたいなものだよ。有里ちゃん、ウーロン茶のお代わりと、おしぼりくれる?」 後藤の隣では、達海が眠たげに天井を眺めていた。赤く染まった耳に、有里たちの会話は届いていないのだろう。タクシーを呼ぼうかという彼女の申し出に、後藤は苦笑いとともに首を振った。 居酒屋「東東京」には、ETUの選手だけではなく、コーチやスタッフも姿を見せる。そこにはときおり「笠野さん」も混じっていたが、彼の同行者はクラブや町の人間に留まらず、年齢も職業も実に幅広かった。学生風の若者たちに酒の味を教えているかと思えば、翌週にはスーツ姿の「部長」を相手に、日本の景気について語りあっている。有里が知る限り「笠野さん」が店に連れてこなかったのは、未成年と女性だけだった。 「兄やん」 有里の父親を「笠野さん」はそう呼ぶ。居酒屋の主である彼女の父を「おやっさん」や「大将」と呼ぶ人は珍しくはなかったが、彼の独特の呼びかけは、店主と客という関係を越えた親しみを感じさせるものだった。父が弟と、有里にとっては叔父にあたる人と、事あるごとに争ってばかりいるから、なおさらそのように思えたのかもしれない。店やETUの練習場、そしてスタジアムで過ごす時間は熱気と活気に溢れていて、隙間には深く静かなもの、有里には大人の世界としか言い表せないものが潜んでいた。 サッカーは、楽しいことばかりではない。ETUが負けることもあれば、好きな選手が試合に出られないこともある。交代枠が定められた公式戦に出場する機会を与えられるのは、監督やコーチに実力を示し、ポジションを掴み取った者だけだ。勝負の世界に生きる人々の心には、触れたものを焼き尽くすような熱く激しい部分が少なからず存在する。おそらくそれが、闘志や気迫と呼ばれるものの正体なのだろう。 体を張ったプレーとは対照的に、後藤は穏やかな選手だ。審判が不可解な判定を下したときや、選手がラフプレーを受けて倒されたときに生み出される不穏な空気の中に割って入り、審判や相手チームの選手に詰め寄ろうとするチームメイトを宥めて人の輪から引き離す彼の姿を、有里はスタジアムとテレビの画面で、何度か目にしたことがある。面倒見の良い彼は、チームメイトに慕われているだけでなく、マスコミやファンにも丁寧に応じるので、プレーに対して厳しい意見を寄せられたことはあっても、性格や言動を非難されたことはなかった。 一生懸命頑張って、練習をしてください。 プロサッカー選手を夢見る子どもたちに語ったことを実践するかのように、後藤は真摯に練習に取り組んでいる。スタメンを外れ、ベンチに座ったまま試合終了の笛を聞くことが増えたからといって、夜の街で憂さを晴らすような人ではなかったので、後藤が居酒屋「東東京」に足を運ぶのも、酒ではなく食事が目的だった。午後の練習を終えたあとは、疲れきっていて料理を作る気が起きないらしい。 チームメイトと連れ立っているときとは違い、後藤の食事は静かだ。彼は料理を味わうことに専念しており、食器が行儀の悪い音を立てることもない。ひとりで銚子を空ける客は、店では決して珍しくなかったが、後藤の沈黙はそれらと種類が異なるように感じられて、有里は 黙ってはいられなかった。 「ねえ、後藤さん。ご飯、おいしい?」 後藤は箸を置いた。有里の表情に思うところがあったのか、彼女の顔とカウンターを交互に見比べている。手に取ったウーロン茶のグラスから、水滴が落ちた。 「ああ、うまいよ。それに、おいしくなかったら、ここに来ないだろう?」 カウンター越しに、丸い盆に鉢を並べる父の顔が見えた。有里の両親が心をこめて作っている料理に、まずいものなどあるはずがない。 「後藤さん、一人だといつも、難しい顔してご飯食べてるもん。……考え事?」 咎めるような視線を頬に感じながら、有里は後藤を見上げた。客の愚痴や悩みは、店員が強引に聞き出すものではないことを彼女は知っている。だが、知っていることとできることは、断じてイコールではないのだ。 「まあ、ここでメシを食いながら、色々と考えてはいるけど、たいしたことじゃないよ」 「たとえば?」 「食ってるメシのこと。前にここで食べたエビ餃子がおいしかったから、試しに家で作ってみたんだけど、うまくいかなくて。俺が知らない調味料なんかも使ってそうだし、料理って奥が深いよな」 苦笑とともに、後藤はグラスに口をつけた。彼の喉に目をやりながら、有里は小さく息を吐く。渾身のシュートを、柔らかなネットにはね返されたような気分だ。 「当たり前だ。俺たちは素人が簡単に真似できるようなものは、何一つ作っちゃいねえよ。……それがプロってもんだろう」 「そうですね。永田さんの仰るとおりです」 有里の父の言葉に思うところがあったのか、後藤は表情を引きしめた。やはり、食事を心から楽しんでいる顔には見えない。料理を作ることが、有里の家族の仕事であるように、後藤にとって、食事は仕事の一部なのではないかと有里は思う。体力とコンディションを維持するために、プロサッカー選手は衣食住という身の回りのことにさえも、細心の注意を払っているのだ。 だが、リーグ戦が中盤から終盤に差しかかったころ、後藤は肉離れを起こした。全治三週間。治療を終えて戦列に復帰したとき、ベンチに彼の座る場所はなかった。 後藤はスランプに陥っていたわけでもなければ、監督やフロントに「干されて」いたわけでもない。サッカーの技術的なことや、戦術的なことは有里には分からないが、何となく、チームの流れから彼が取り残されているように見えた。 試合に出場できないことへの焦りや苛立ちが、後藤にまったく無かったとは有里は思わないし、プロスポーツの世界は、それらを感じない人間が戦っていけるような場所ではない。チームメイトではなく、自分自身と向き合うようにトレーニングに没頭する彼の姿を、ETUに関わる大勢の人々が見ていた。 来シーズンへの課題と期待を残してリーグ戦を終えた直後、ETUは後藤との契約終了を発表した。リーグ戦終盤の後藤は、スタメンに返り咲くことはできなかったが、再びベンチに入り、短い時間ながら試合にも出場していたので、彼が戦力外を言い渡されることなど、有里は想像もしていなかったのだ。 「後藤さん、どうなっちゃうのかな」 有里の呟きに、父は答えなかった。居酒屋「東東京」で熱燗を注文する客が現れたころに、父と叔父はETUのクラブハウスを訪れている。練習の見学やクラブへの差し入れであれば、スーツを着ていく必要はないはずだが、有里が何度問いただしても、父は来訪の目的を教えてはくれなかった。おそらく「笠野さん」が一枚噛んでいるのだろう。その日を境に、ETUのGMは頻繁に店に顔を出すようになり、ときには閉店間際まで、有里の父と話しこんでいた。 ETUからスタッフ就任の打診を受けていることを父が明かしたのは、有里が後藤の退団を知った直後のことだった。そのことを家族の前で口に出したとき、父の心は決まっていたのだろうし、母は母で、父の意思に家を任せるつもりだったのだろう。有里の両親はいわゆる亭主関白ではなかったが、父の行動に母が異論を唱えたことはなかった。 永田家とETUの関係の変化も、後藤の退団も、有里にとっては重要なことであるのに、彼女がそれを知らされるのは、大人たちがすべてを決めてしまったあとだ。 幼すぎる年齢は、有里の行動を大きく制限するが、大人のしがらみに囚われていない立場だからこそ、見えるものや、言えることがある。彼女の言葉に耳を傾けてくれる大人は、有里の知識や人生経験を見極めて、年齢相応に扱おうとする者と、それらを考慮に入れない者に分かれた。両親や後藤は前者であるのに対し、達海は後者である。そして「笠野さん」もまた、他人と接する際に相手の年齢を気にかけない人であるようだった。 「よう。毎日、熱心に見に来てるな」 有里が顔を上げると、笑みを浮かべた「笠野さん」が立っていた。彼が手を置いたフェンスの先では、ETUの選手たちが円陣を組んでボールを蹴っている。ETUは天宮杯の四回戦に進出しており、リーグ開催期間中と ほぼ同じ練習スケジュールが組まれていた。 「しかし、冷えるなあ」 ニット帽や手袋を着けた選手に視線を送りながら「笠野さん」は言葉を続けた。 「こんな日は、さっさと仕事切り上げて、熱いのをやりてえもんだ」 季節や行事のたびに、何かと理由をつけてジョッキや銚子に手を伸ばすのが、酒飲みという人種である。立て続けに忘年会の予約が入る一二月は、居酒屋にとって書き入れ時だが、クラブのGMもまた、選手の契約更新な どで忙しい時期ではないだろうか。返答に困る有里を見下ろして「笠野さん」は目を細めた。 「ところで、兄やんは元気かい?」 「はい。でも、今年はすごく忙しいみたいで。最近はお店でしか顔を合わせてません」 父はETUのフロントに入る決意を固めているようだが、居酒屋「東東京」の暖簾を下ろすつもりはないようだった。叔父もまた、隅田川スタジアムの近くに構えて間もない自分の店を手放す気はないだろう。普段どおりに店に立つ一方で、父と叔父は二足のわらじを履くための準備を着実に進めている。家族を取り巻くものの勢いとスピードにわずかばかりの不安を感じて、有里は短く呟いた。 「お店、どうなっちゃうのかな」 永田家の生活は、家業である居酒屋「東東京」を中心に回っている。酒や料理の注文を受け、客の話に付き合う両親の姿を幼いころから見てきた有里には、父が厨房から離れることと、ETUのスタッフになることが、まるで想像できない。また、居酒屋の大将とフットボールクラブのスタッフに、共通する仕事があるとは考えられなかった。 「笠野さん。クラブのスタッフって、どんな仕事をするんですか?」 有里の頭の上で、「笠野さん」の両眼が動いた。そこに宿る興味深げな色に、彼女は気づいていない。彼女が知りたいのは、多くの仕事を抱えているフットボールクラブのGMが、父と叔父に応援以上のことを求める理由だった。 「そうだなあ。……どんな仕事があると思う?」 練習場に鳴り響いたホイッスルが「笠野さん」の質問に重なった。 「まずはGMでしょう。それから、通訳とドクター」 外国籍の選手や監督は、リーグジャパンにおいて珍しいものではない。ブラジルではポルトガル語が使われていることを有里が知ったのは、サッカーに興味を持ちはじめてからのことだ。 「他には?」 「トレーナーに営業、広報……」 顔見知りのスタッフを思い浮かべながら、有里が彼らの役職をひと通り挙げると「笠野さん」は深く頷いた。 「クラブってのはな、会社なんだよ。会議に書類整理、コピー取りに電話番。どこにだって、そんな仕事はあるもんだ」 「でも、どれも大事なことでしょう?」 スポンサーを集めて回る営業に、試合やイベントの宣伝を行う広報。選手の心身のケアにあたるトレーナーやドクター。選手の活躍を支えているのは、クラブの裏方であるスタッフだ。そこに達海のプレーのような華やかさはないが、有里にはとても魅力のある仕事に思える。 彼女の将来の目標は、通訳かドクターになって、ETUで働くことだ。どちらも専門的な知識と技術が求められる職業なので、男性が多いクラブでも雇ってもらえるだろうし、万が一リストラに遭っても、潰しが利く気がする。店を手伝いながら、大人たちの話を聞いているおかげで、有里は年齢の割に堅実な人生設計を立てていたのだった。 「よく分かってるな。それでだ、仕事には向き不向きとか、求められてるものがある。サッカーと同じでよ」 ゴール前でセットプレーの練習が行われていた。後藤はDFだが背が高いので、フリーキックの位置によっては攻撃に参加することもある。スポーツの世界で、体格は間違いなく武器の一つだ。だがETUは、後藤をもはや必要としないという。有里の好きなクラブには、怖いほどに冷たい一面があった。 「地域密着って言葉は知ってるだろ。ウチはいま、この町や、ここに住んでる人たちと、いい関係を作ろうとしてる。そのためには、町に詳しい、顔が利く人がいてくれるとありがてえんだ」 「それが、お父さんと叔父さんってこと?」 敬語を使うことも忘れ、有里は問いかけた。浅草観光のついでに旅行者が居酒屋「東東京」に立ち寄ることは滅多になく、客の大半が町の住人である。町を歩けば、常連客や知人に出くわす父と叔父は「笠野さん」が口にした条件に当てはまっているように思えた。 「心配かい?」 有里は首を振った。表情が曇り、眉が寄せられる。 「だって、四〇代とか五〇代の人が、脱サラしてお店を始めるって話はよく聞くけど、お父さんたちの場合は逆だもの」 業績の悪化や後継者不足などの理由で店を閉め、サラリーマンに転身した人も世間にはいるが、それらは父や叔父のケースとは異なる。思案する有里の隣で「笠野さん」は顎をしゃくった。 「ウチはそれぐらいでちょうどいいんだよ。普通とか常識とか、そんなもんに捕らわれてちゃ、つまんねえ。選手だって、常識外れの奴がいるだろ。あいつみてぇに」 首にかけたタオルで顔を拭いながらフェンスに近づいてくる達海の姿を認め、有里は目を丸くした。話しこんでいるあいだに、練習は休憩に入ったらしい。 「笠さん、何やってんの? ……ナンパ?」 「はっ。お前と一緒にするんじゃねえよ」 選手がGMを相手に軽口を叩けるクラブというのは、決して多くはないだろう。東京ヴィクトリーなどは、規律正しいが選手の上下関係が厳しく、何となく窮屈そうなイメージがある。もっとも、ETUのライバルであるチームを、彼女が色眼鏡で見ている可能性は否定できない。 「女はキケンな香りのする男に憧れるとかって言うけどさ、笠さんは本当に危ないぞ。気をつけろよ?」 「だから違うって言ってるじゃん!」 達海は肩をすくめると、腰を下ろす選手たちの輪の中 に戻っていった。「笠野さん」に用事があったわけではなく、彼と有里が肩を並べていることに、何となく興味を示しただけのようだ。サッカーのことしか頭にないように見えて、達海は周囲の変化に鋭い。試合中、ボールの行方だけではなく、選手の動きやベンチからの指示にも注意を払っていることが、視野の広さにつながっているのだろうか。 「しょうがねえなあ、あいつは」 言葉とは裏腹に、「笠野さん」は楽しげに口元を緩める。年齢はもちろん、顔の造りもまるで違うのに、彼の笑みはどこなく達海に似ているような気がした。 有里は達海の笑顔が好きだ。彼女やコーチの松原をからかうとき、彼はまるで大人とは思えない、いたずら好きの少年のような顔をするが、ピッチでは不敵に、そして楽しげに笑う。達海の顔が大きく画面に映し出される瞬間を待つのが、テレビでアウェイや代表の試合を観るときの、有里の楽しみだった。 プロスポーツの世界には辛く厳しい部分があるが、ETUには達海がいて、彼と同じように笑っている人がいる。そこに入りこもうとしている父と叔父のことで、有里が気を揉む必要はないのかもしれない。 「兄やんの店のことなら、心配要らねえよ。大将が抜けちまっても、できたおかみと看板娘がいるからな」 有里の心を読んだかのように頭に手を置いて、「笠野さん」は唇の端を上げた。彼の体からは、父や叔父に似た、中年男性独特のにおいがしたが、危険だとは思わなかった。 有里がETUのGMと熱心に言葉を交わしていたという情報は、彼女自身が帰宅するよりも早く、父の耳に届いていた。父はやや険しい眼差しを有里に向けて、練習 場に通うのは構わないが、スタッフや選手に迷惑をかけないようにと釘を刺した。 学校の二学期が終わり、そして一二月が終わる前に、ETUのシーズンは終わった。後半から出場した後藤は、試合終了の笛が鳴り響いた直後、ピッチに膝をつき、両手で顔を覆った。試合に負けた悔しさとチームを離れる寂しさとで、彼は泣いていたのだろう。うずくまる後藤を達海と松本が立たせ、広い肩にベンチコートをかけた。 チームメイトとともにスタンドを一周する後藤の目元は赤かったものの、表情は晴れやかだった。現役続行という道を選んだ彼に声援を送るかのように、サポーターは繰り返し後藤の名を呼び続けた。 後藤の京都への移籍が発表されたのは、一月中旬のことである。市内に本社を置く大手企業がスポンサーに名を連ねているものの、京都はリーグジャパンに加盟して日の浅いクラブだった。 漬物と和菓子を携えて、後藤は居酒屋「東東京」に訪れた。食事を兼ねて、挨拶に来たのだという。彼の気づかいに、有里は感心させられるばかりだった。 「今だから言えることだけど、実は俺、引退も考えてたんだ。ここで、ETUで必要とされていない自分は、もう終わりだって思ってたから」 後藤の口調は、有里が驚くほどに穏やかだった。カウンターでは牛モツの煮込みとエビ餃子が湯気を立てている。おそらくそれが、京都に発つ前に居酒屋「東東京」で味わう最後の晩餐になるのだろう。 「辞めてどうする気だったの?」 「スタッフになってETUを支えたかった。それが無理なら、学校やクラブのコーチや、スポーツメーカーの社員。とにかく、何らかの形で、サッカーに関わっていた かったよ」 中堅からベテランに差しかかろうとしている後藤の年齢を考えれば、スパイクを脱ぐという選択もありえないことではなかった。 「ETUの選手って立場に、俺はこだわってたんだろうな。今だって、正直、未練が無いわけじゃない。そんな俺に、笠野さんが言ってくれたんだよ。一度、違う景色を見てきたほうがいいって」 「それで、京都に行くの?」 浅草で生まれ育った有里にとって、京都は馴染みの薄い、遠い場所だ。東京駅から数時間で行けるというが、新幹線の切符は彼女には高価すぎる。アウェイ遠征のついでに観光旅行ができるのは、まとまった金額を自由に使うことができる大人だけだ。 「確かに東京と京都では、習慣の違いがたくさんあるだろうけど、笠野さんが言ったのは、そういう意味じゃない。それに、サッカーのルールは、どこに行っても、たとえ外国でも変わらないよ」 有里は頷いた。後藤が京都のクラブカラーである、紫のユニフォームを着ている姿はまだ想像ができないが、 ETUを去っても、彼がサッカーを続けてくれることが彼女には嬉しい。別れは辛いが、移籍は後藤にとって、新たな挑戦なのだ。近いうちに京都の選手として隅田川スタジアムに立つ彼に、ETUのサポーターはきっと大きな拍手を送ることだろう。 「有里ちゃん、今までありがとう」 有里を褒めるように、後藤は白い三角巾を着けた頭を撫で、続いて軽く背中に触れた。 「俺がここでメシ食ってるときに、いつも相手になってくれたよな。色々な話ができて、楽しかったよ」 笑みとともに差し出された手を、有里は黙って握り返した。そのまま、引き寄せられたかのように後藤の肩に額を乗せる。彼の出発を笑って見送りたいのに、目と鼻の奥が絞めつけられたかのように痛むせいで、有里の顔は人に見せられる状態ではなかった。 「一つお願いがあるんだけど。聞いてもらえるかな?」 カウンターの奥に視線を送りながら、後藤は有里の耳もとに囁きかけた。顔を伏せたまま頷く彼女の背中に、再び後藤の掌が触れる。子どもをあやすような、それは優しい手つきだった。 「看板娘にお酌してもらうの、憧れてたんだ。一杯、頼めるかな?」 居酒屋で食事をしていながら、後藤がシーズン中にアルコール類を注文しなかったことを、有里は思い出していた。今はオフだから。言い訳のように付け加えられた言葉に、有里は何度も頷いた。 サッカーは楽しむもの。そして、酒もまた、楽しむものだ。両親の教えを思い出しながら、有里は呼吸を整える。後藤の服にわずかな湿り気を落として顔を上げたとき、彼女は表情にぎこちなさを残しながらも、微笑んでいたのだった。 |