その長い道のりの果て


 幼馴染のソニアは、読書とスケッチとポケモンが好きな女の子だった。
「ソニア、もういいか?」
「待って、あとちょっとだけ」
 湖のほとりに建つ彼女の家には、子どもが二人で力を合わせてようやく本棚から引っ張り出せるような、重くて大きな図鑑が何冊も置いてあった。そこに載っているポケモンの写真や挿し絵を見るのがオレたちのお気に入りだったが、ソニアは難しい言葉で書かれた解説にも目を通していた。
 真剣な顔で文字を追うソニアの横顔を見るのが、オレは嫌いではなかったから、彼女が図鑑を読み終えるまで待つ時間も、あまり苦にはならなかった。
「大きくなったら、ソニアは博士になるのか?」
 ソニアのお祖母さんは、ダイマックスを研究しているマグノリア博士だ。優しいが厳しい人で、眼鏡越しに見つめられると、オレはこころもち背筋が伸びる。
「まだ分からない。わたし、おばあさまは尊敬してるけど、ポケモントレーナーにも興味があるの」
「だったら、両方なればいいじゃないか」
「ポケモン博士兼トレーナーってこと? それってすごく楽しそう。ダンデくんは、ポケモントレーナーの他には、何になりたいの?」
「オレはポケモントレーナーを極めたい。そして、うんと強くなって、チャンピオンになるんだ」
 ソニアの家にはテレビがない。だから彼女は、オレの家で試合中継を見るまで、ジムチャレンジやチャンピオンカップのことを知らなかった。
「チャンピオンになったら、ダンデくんはよその地方に遠征して、ガラル地方にはいないポケモンや、強いトレーナーとバトルするかもしれないね」
「その時は、ソニアも一緒に行こう。オレが迷子になっても困らないし、博士のフィールドワークもできるぞ」
「フィールドワークは楽しそうだけど、知らない土地で道案内なんてできないよ。だから、ダンデくんは大人になるまでに、迷子になるクセを治さないとね」
 オレは道を覚えるのが苦手だ。家族で買い物に出かけた大きな町はおろか、自分の家があるハロンタウンや近所の1番道路でも、なぜか迷子になってしまう。
 だが、オレの方向音痴は、決して悪い事ばかりではなかった。
「これからは、ポケモンに助けてもらいなさい」
 オレが道に迷った時に、必ず誰かが助けてくれるとは限らない。それならば、いつも一緒にいてくれるポケモンに頼ればいい。大人たちはそう考えたのか、オレの誕生日プレゼントに、ヒトカゲをくれたのだ。
「よろしくな、ヒトカゲ!」
 その日から、文字通りオレの世界は変わった。うっかり足を踏み入れかけては大人たちに引き戻されていた道路の草むらは、野生のポケモンと戦い、捕まえる場所になり、ヒトカゲ以外にも仲間が増えて、オレの生活にポケモンバトルが加わった。
「オレのポケモン貸してやるから、ソニアもやってみろよ」
「ダンデくんの大事なウールーでしょう。本当に借りちゃってもいいの?」
「ソニアなら大丈夫だ。ウールー、今だけはソニアの言うことを聞くんだぞ」
 ソニアは最初、恐る恐るといった様子で指示を出していたが、バトルが進むにつれて顔に笑みが広がり、声が弾んでいった。
「わたしも自分のポケモンが欲しいなぁ」
 互いの家から持ち寄ったおやつをポケモンたちと分け合いながら、ソニアが言った。
「どんなポケモンがいいんだ?」
 オレのバースデープレゼントがヒトカゲだったように、最初のポケモンは人からもらうことが多い。家族でなければダメだとは聞いたことがないから、オレがソニアにポケモンをあげてもいいんじゃないか。
 そんなことを考えていたオレの肩を、ソニアが軽く揺すった。
「かわいいポケモンがいいな。……あそこのワンパチみたいな」
 2番道路の草むらから、愛嬌のある小さな顔がオレたちをうかがっていた。ソニアに呼ばれたと思ったのか、短い足を動かして近づいてくる。
「気をつけろよ、ソニア」
 だが、立ち上がったオレの呼びかけにはあまり意味がなかった。ソニアの足下に近づいたワンパチは、大きな目で彼女の手元を見つめている。
「もしかして、お腹がすいてるの?」
「ヌワン!」
 ソニアの手には、食べかけのビスケットがあった。どうやら、ワンパチは甘い匂いにつられて現れたらしい。
「はい、どうぞ」
 ワンパチは瞬く間にビスケットを平らげた。尻尾を振りながらソニアを見上げる目が、お代わりを要求している。
「ちょっと待っててね」
 ソニアがバスケットから取り出した新たなビスケットに、ワンパチは文字通り飛びついた。2番道路でこのポケモンに出くわすのは珍しくはないが、目の前のワンパチは今までに見てきたものよりも小さいような気がした。
「そのワンパチ、もしかして生まれたばかりなんじゃないか?」
「だったら、近くに親がいるかも?」
 俺たちはあたりを見回したが、足下の一匹以外に、ワンパチは見当たらなかった。
 ビスケットだけでは喉が渇くだろうからと、ソニアの手からおいしいみずを飲ませてもらったワンパチは満足したのか、仰向けで寝転がった。
「コイツ、本当に野生のポケモンなのか?」
「人に慣れているのかも。かわいい!」
 ソニアは上機嫌でワンパチの腹を撫でている。それを羨ましく思ったのか、ヒトカゲが短く鳴いた。
 日が暮れるころには、ワンパチはオレのポケモンとも仲良くなり、帰り支度を邪魔するかのように、ソニアの足にまとわりついてきた。
「そんな顔されたら、置いていけないじゃない。ねえ、だったら、わたしのポケモンになる?」
「イヌヌワン!」
 返事をするように一声吠えたあと、ワンパチはソニアが近づけたモンスターボールに入っていった。
「やったあ、ワンパチゲット! ダンデくん、ありがとう」
「やったな、ソニア!」
 オレたちは飛び跳ねて喜んだ。ポケモンをゲットした瞬間は、いつだって楽しい。そして短いダンスの後には、現実が待っていた。
「おばあさまとおじいさま、許してくれるかな……?」
 オレの家族はおおらかなので、新しい仲間が家でくつろいでいても何も言わないのだが、ソニアの家は違う。マグノリア博士は「おみとおし」か「するどいめ」の特性を持っているから、ソニアがワンパチを隠そうとしても、きっとすぐに見抜いてしまうだろう。
「……堂々と連れて帰ればいいんじゃないか?」
 大人の言いつけを破ったり、危ないことをすれば叱られる。それらを隠そうとすれば、もっと叱られる。
 だったら、隠さなければいい。オレの逆転の発想に、ソニアは目を見開いた。
「それに、ソニアのビスケットは博士が焼いたやつだろう。ビスケットに釣られてワンパチが来たんだから、博士のおかげで仲間にできたようなもんじゃないか」
 オレのアイデアに、ソニアの瞳が輝きを増した。マグノリア博士は厳しいが、意地の悪い人ではない。ソニアの手から無理矢理ワンパチを取り上げるような真似はしないだろう。
「新しい友達のこと、家でしっかり話し合ってみる。ダンデくん、一緒に考えてくれて本当にありがとう」
 既にワンパチと暮らす許可をもらったかのように、ソニアは満面の笑みを浮かべている。夕陽を受けて輝く髪はヒトカゲの色に似ていて、オレは「美しい」という言葉の意味を知ったような気がした。
 翌日、待ち合わせ場所のポケモン研究所に現れたソニアは、当然のようにワンパチを連れていた。ヒトカゲがオレの世界を変えてくれたように、ワンパチは彼女の世界を変えてくれたのだろう。毎日の散歩のついでに、ソニアはハロンタウンに足を運ぶ機会が増え、オレや町の人たちとポケモンバトルを楽しむようになった。
 人が生きる世界は、小さなきっかけで簡単に変わるものなのだろう。
 父さんがいなくなった数ヶ月後、オレは兄になり、家族は五人に戻った。



「おはようございます!」
 ホップが産まれてからというもの、ソニアは毎日のようにオレの家に来て、家事やホップの世話を手伝っていた。ワンパチと協力すれば牧場の仕事までこなせる彼女の存在は、オレの家族にとってありがたかった。
「ソニアちゃんのおかげで、本当に助かってるよ」
 今にして思えば、大人たちの言葉にはオレを焚きつける意図があったのかもしれない。オレはソニアに負けてはいられないとばかりに家の手伝いを張り切ったが、残念ながら台所仕事はあまり上達せず、主にホップの子守とウールーの世話を任されるようになった。
「ウールーって、不思議よね。地面を転がって移動しているのに、目は回らないし、毛だってほとんど汚れていないもの」
 ブラッシングを催促するように、ウールーがソニアの側で鳴き声を上げる。人間よりもウールーの数が多いハロンタウンで、オレとソニアと手持ちのポケモンはいつしか一つのチームとして扱われ、近所の牧場を手伝うようになった。ウールーの世話は楽しかったが、それ以上に嬉しかったのは、お駄賃代わりの果物や菓子だった。自分の働きが、家計の足しになる。幼いオレがそう思いこめる程度に、町の人たちは我が家の事情を知っていた。
 ソニアは赤ん坊とウールーが目当てでオレの家に来ていると言っていたが、優しくて頭が良い彼女は、彼女なりにオレたちを気遣ってくれたのだろう。
 いない家族の話はしない。それがオレとソニアの暗黙の了解というやつで、オレは彼女の両親を写真でしか見たことがなかった。
「ねえ、ダンデくん。不思議だと思わない?」
 話すことがなくて困るということは、オレとソニアには一度もなかった。彼女がハロンタウンに来るようになってから分かったことだが、ソニアは好奇心が強く、目に入ったあらゆるものに興味を持っていた。
「まどろみの森。この町の人はみんな、入っちゃいけないって言ってるけど、誰もその理由を知らないんだよね」
 エメラルドグリーンの瞳が、頑丈な柵を見つめる。物心つく前から道に迷っていたオレでさえも、深い森に足を踏み入れたことはなかった。
「子どもがワイルドエリアに入っちゃダメなのは危ないからだって、理由ははっきりしてるのに、この森のことは、誰も何も知らないの」
 ソニアはハロンタウンのお年寄りたちに話を聞きに行っただけではなく、町役場にまで電話で問い合わせていた。彼女が言うには、役場には古い記録が残っていて、調べ物をする時に役に立つのだという。
 前もってアポを取っていたソニアは、当たり前のようにオレを役場に連れて行った。役場の人はオレとソニアに紅茶を出してくれた上に、ハロンタウンに役場ができるよりもずっと昔から、まどろみの森が立入禁止だったことを教えてくれたのだが、その理由までは分からなかったらしい。
「世の中には、調べても分からないことがたくさんあるってマグノリア博士が言ってたけど、こういうことなんだな」
 農道を歩くソニアは黙ったまま、指に髪を絡めている。彼女の考え事の邪魔はしたくないが、放っておけば寝そべっているウールーにぶつかってしまう。
「ほら、ちゃんと前を見て歩かないと危ないぞ」
 オレに手を引かれ、ソニアが顔を上げる。その目は周りを見ているようで、実は何も見ていないように思えた。
「ダンデくんは、まどろみの森に入っちゃいけないって言われて、どう思った? 珍しいポケモンが棲んでるんじゃないかとか、すごい宝物があるんじゃないかって、考えたことはない?」
「そんなこと聞かれても……」
 オレには答えられなかった。まどろみの森に入ってはいけないのも、ハロンタウンにウールーが多いのも、オレにとっては当たり前で、理由を考えたことなどなかったからだ。
「オレにはあまり難しいことは分からないけど、もしソニアの言うとおりに、まどろみの森で珍しいポケモンや宝物が見つかったら、大ニュースになるだろうな」
 まどろみの森の入口に、大勢のリポーターやカメラマンが集まるのを想像してオレは笑ったが、ソニアは険しい顔のままだった。
 珍しいポケモン。いつもならばオレの心を躍らせるはずの言葉が胸の中で鈍く転がり、代わりに嫌な何かがせり上がってくる。だが当時のオレは、自分の感じたものを言葉にする作業が、あまり得意ではなかった。
「ソニア」
「どうしたの、ダンデくん?」
 オレは黙ったまま、ソニアの手を握る。力を入れすぎたせいで、短い抗議とともに彼女が顔をしかめた。
「そんな顔しなくても、ダンデくんのことはきちんと家まで送るから大丈夫。って、ここは一本道なのに、なんで道に迷っちゃうのかな?」
 ソニアに相槌を打つかのように、ヒトカゲとワンパチが短く鳴いた。彼女がオレを町役場まで連れて行ったのは、二匹のポケモンに道を覚えさせるためだったらしい。彼女がどんな方法を使ったのか、オレにはまったく分からないのだが、ハロンタウンとブラッシータウンの道案内ができるポケモンは、ガラル地方を探してもオレのヒトカゲとソニアのワンパチだけだろう。
「今日はありがとう。ダンデくん、また明日ね」
 オレを自宅のドアの前まで送り届けると、ソニアとワンパチは夕暮れの道路を駆けていった。普段通りにブラッシータウンの研究所でマグノリア博士と合流して、買い物をしてから家に帰るのだろうとオレは考えていたのだが、一本の電話が予想を裏切った。
「ダンデ。あんた、今日もソニアちゃんと一緒だったわよね?」
 受話器を握る母さんの問いかけに、じいちゃんとばあちゃんが視線を交わしあった。町役場からの帰り道に感じた嫌なものが、再びオレの中に蘇る。
「……ソニアちゃん、家に戻ってないんだって」
 静まりかえったリビングに、テレビのニュースとホップの甲高い声が響いた。
「孫のことでお騒がせして、本当に申し訳ありません」
 ブラッシータウンの駅前に集まった人々に、ソニアのお祖父さんが頭を下げた。朝からナックルシティに出かけているマグノリア博士も、連絡を受けて戻ってくるらしい。
 オレを家まで送り届けた後、ポケモン研究所に向かうソニアを、ブラッシータウンの人が見ていたのだが、その後の足取りが分からない。ソニアは鍵を持っていないから、研究所に入れないのは確かだ。だが、電車やタクシーに乗ったわけでもないのに、ソニアは町から姿を消したのである。
「どんな小さなことでも構わない。ダンデ君、ソニアの行方に心当たりはないかい?」
 肩に置かれたシワだらけの手が震えている。オレにはソニアが家族に心配をかけるような真似をするとは思えなかったのだが、マグノリア博士の顔を思い浮かべた途端、口が勝手に動いていた。
「まどろみの森。たぶん、いや、きっとソニアはそこに行ったんだと思います」
 オレの言葉に、ハロンタウンの大人たちが顔を見合わせる。ソニアがまどろみの森について調べていたことは、小さな町の誰もが知っていた。
「ソニアちゃんがまどろみの森のことを知りたがってたのは確かだけど、まさか一人であんな場所に行くはずがないだろう」
「ダンデと一緒なら、まだ分かるんだけどねぇ」
 ソニアはいい子だから、危険なことをするはずがない。そんな思いこみを捨てようとしない大人たちの態度に、みたびオレの胸の中で、嫌なものが暴れ出した。
 世の中には、調べても分からないことがたくさんある。だが、そこで諦めてしまっては、分からないことはいつまで経っても分からないままだ。オレが途中までしか覚えていなかったマグノリア博士の言葉を、ソニアは最後まで覚えていた。
「仮にダンデの言うとおりだとしてもなぁ」
「あの森に入るならば、夜明けまで待ったほうがいい。大人にだって何が起こるか分からないぞ」
 分からないものを分からないまま放っておいた結果が、オレの目の前に広がっている。二次遭難という言葉は知っていたが、ソニアのお祖父さんの不安そうな顔を見れば、そんなものは頭から吹き飛んでしまった。
「だったら、オレが捜しに行く!」
 勢いよく走り出したオレの背中に、大人たちのどよめきがぶつかる。母さんの声は悲鳴に近かったが、オレは振り返らなかった。
 森の入口の柵は、人間のためではなくウールーが迷いこまないために設けられたようだった。その証拠に、子どものオレでも簡単に乗り越えることができる程度の高さしかしかなく、その気になれば周りの石垣から回りこんで、中に入ることもできる。
 逆に考えれば、柵よりも大きいポケモンが、森から出て来る心配はないということだ。
「ヒトカゲ。この森のどこかに、ソニアがいる。オマエの力を貸して欲しい」
 モンスターボールから出したヒトカゲは、ソニアの名前を聞くなり表情を引き締めた。彼なりに事態を理解しているのだろう。オレたちは頷きを交わし、闇の中に飛びこんだ。
「ソニア、どこだ!? 返事をしてくれ!」
 蹴り飛ばした草むらから、小さな影が逃げていく。森を走り回るうちに、オレの目は暗闇に慣れつつあったが、ソニアの手がかりを見つけることはできなかった。
 ココガラ、ホシガリス、サッチムシにアゴジムシ。森で出くわしたポケモンは、近所の道路にいるものと強さも種類もほとんど変わらなかったから、ソニアとワンパチが負けたとは思えない。返事がないことから考えても、彼女が森の奥に進んだことは間違いないだろう。
「行こう、ヒトカゲ」
 ホーホーの鳴き声を聞きながら、オレは歩きだした。ヒトカゲはオレが森の入口に戻ろうとするたびに、鳴いて知らせてくれる。頼りになる相棒の尻尾の先に、小さな火が揺れていた。
 オレが道に迷うのは、無意識のうちにテレポートを使って、自分の居場所が変わったことに気づかないまま動き回った結果ではないか。ソニアの仮説が正しければ、オレはエスパーわざが使えるはずだが、アニメや映画のように、ピンチを迎えた瞬間にすごい力に目覚めたりはしなかった。
 感覚と知識とヒトカゲを頼りに森を歩くオレを、白い霧が包む。霧は雲と同じで、空気の中に含まれる細かい水や氷の粒でできているというから、今のオレは雲の中を歩いているようなものだ。だが、膝のあたりに漂う黒いものを目にした瞬間、オレは声を張り上げていた。
「ヒトカゲ、気をつけろ!」
 黒い霧は、画用紙に落ちたインクのように突然発生するものではない。それに気づいた瞬間、頭をよぎったのは氷タイプのわざだった。ヒトカゲがひのこが、オレの指示に合わせて飛んでいく。
 黒い何かはひのこをすり抜けて霧に溶けていく。肌に触れたそれは少し冷たく、オレの焦りをかき立てた。
「ソニア、近くにいるなら返事をしてくれ!」
 形のない黒い何かが、ポケモンによって生み出されたのだとしたら。オレたちよりも先に、ソニアがそれに出くわしていたのだとしたら。不吉な想像で真っ暗になったオレの目の前に小さな光が転がった。
 霧と黒い空気をかきわけるように進み、オレたちは輝くオレンジの正体を突き止めた。ハートのシールを貼ったペンライト。持ち主の名前を呼びながら周囲を照らすと、木の上のホーホーと目が合った。
「ワンパチを連れた女の子を見なかったか?」
 オレの言葉を通訳するかのように、ヒトカゲが身振りを交えながら鳴いた。考えこむように丸い目を動かしていたホーホーは、やがてオレたちを案内するかのように、音もなく夜の森に飛び立った。
「ソニア!」
 地面に降りるなり、ホーホーは大声で鳴きはじめた。走り寄ったオレは思わず膝をつく。モンスターボールを握りしめたソニアが、仰向けに倒れていた。
「ソニア、しっかりしろ!」
 ペンライトに照らされて、ソニアが身じろぎする。ケガは見当たらなかったが、目を覚ます気配もない。意識を失ったまま、彼女が大切に握りしめているモンスターボールを預かろうとしてオレは彼女に触れ、思わず手を引っこめた。
 夕方まで元気に笑っていたとは思えないほど、ソニアの額は熱かった。森の中で良くないことが起きた結果、彼女は体調を崩したのだろう。ソニアを町の病院に連れて行く。オレがやるべきことは決まった。
「……ヒトカゲ、手伝ってくれ」
 絵本に登場する王子様のように、ソニアを抱えて運ぶことができれば良かったのだが、オレよりも彼女のほうが背が高いという現実は、気持ちだけで解決できるものではなかった。ヒトカゲの力を借りながらソニアの体を起こし、両腕をオレの首の前で交差させる。かけ声とともに立ち上がったオレの後ろで、ヒトカゲがソニアの体を支えた。
「もし、オレが道を間違えたら教えてくれ。頼んだぞ」
 オレの言葉に反応したのはヒトカゲだけではなかった。地面から離れたホーホーが、道案内をするかのようにオレたちの前を飛び始めたのだ。
「ありがとう、キミはいいヤツだな」
 ポケモンの鳴き声と小川のせせらぎを聞きながら、オレは慎重に足を踏み出した。もしバランスを崩して転べば、ソニアはおろか、ヒトカゲにまでケガをさせてしまう。
「……ちゃ、やだ」
 数歩も進まないうちに、オレは足を止める。ソニアの顔は暗くて見えなかったが、側に涙の気配があった。
 研究のために遠い国に行ったきり、ソニアの両親は戻ってこないのだと近所の大人が話しているのを聞いたことがある。高熱のせいであっても、彼女の口からこぼれ落ちた言葉は、オレが聞いていいものではなかった。
 パパ、ママ。
 ソニアは「お父さま」や「お母さま」という言葉を覚えるよりも前に、親と離ればなれになったのだ。家族と別れる悲しみや寂しさは、オレにも覚えがある。何も知らない他人に、踏みこまれたくないということも。
「町に戻ろう。ソニアがいなくなったら、博士とお祖父さんは、絶対に悲しむ」
 オレはソニアを背負い直し、再び森を歩き出した。
「ソニア、ダンデ、二人とも無事だったのですね」
 ライトで照らされた森の入口には、マグノリア博士をはじめ、町の人たちが集まっていた。ニュースになれば、大勢の人がやって来る。オレの予想は、思いも寄らない形で現実になったのだった。
「早くソニアを病院に連れて行ってあげてください。熱があるみたいなんです」
「……ダンデ、わたしたちの孫を助けてくれて本当にありがとう。今度、改めてお礼をさせてちょうだいね」
 オレから受け取ったソニアをお祖父さんがブランケットで包み、大事そうに抱きしめた。ソニアの頬に触れるマグノリア博士の顔が、安心したようにも苦しそうにも見えて、オレはなぜか胸が痛くなった。
 三人が病院に向かうのと同時に、森の入口からは人が離れていった。ソニアが見つかったという知らせはすぐに広がり、小さな町は平穏を取り戻した。
「ダンデ。母さんが言いたいこと、分かってるわよね?」
 オレの家では、母さんの説教が待っていた。普段ならば取りなしてくれるじいちゃんとばあちゃんも、険しい顔で黙っている。
「一歩間違えたら、あんたまで大変な目に遭ってたんだよ」
 母さんの顔に、ソニアのお祖父さんの不安げな表情が重なる。森に向かったオレを呼び止めた母さんがどんな気持ちだったのか、オレは考えもしなかったのだ。
「みんなに、心配かけてごめん」
 俯いたオレの頭に、母さんが手を置いた。
「でも、ソニアちゃんを助けようとした勇気は認める。あんたに足りなかったのは、準備だけだよ」
 母さんはオレを強く抱きしめて頬ずりした。じいちゃんとばあちゃんがオレの髪を優しくかき回す。
「本当によくやったな、ダンデ」
「二人とも無事でよかった。ダンデまで迷子になるんじゃないかって、心配だったのよ」
 ばあちゃんの言葉に、母さんとじいちゃんが不思議そうにオレを見た。
「ヒトカゲが一緒だったし、帰りはホーホーが案内してくれたんだ」
 オレに付き合ってくれたヒトカゲは、モンスターボールで疲れた体を休めている。森に帰ったのか、ホーホーはいつの間にか姿を消していた。
 翌日、マグノリア博士とソニアのお祖父さんは、ソニア捜しを手伝ってくれた人たちの家を一軒ずつ挨拶に回ったが、彼女がオレの家に来たのは、まどろみの森に入った五日後のことだった。
「ソニア、もう大丈夫なのか?」
 オレの問いに、ソニアは少し恥ずかしそうに頷いた。額の熱さから想像していたが、やはり彼女は熱を出して寝込んでいたらしい。
「ダンデくんが助けてくれなかったら、もっと大変なことになってたかもしれないって、お医者さまが言ってたわ。ダンデくん、助けてくれて本当にありがとう」
 ソニアの声に続いて、ワンパチが元気よく吠える。彼女の言葉は、オレの行動は間違っていなかったのだという自信を与えてくれたが、オレが求めていたのは感謝だけではなかった。
「……倒れてるソニアを見つけたとき、オレ、本当にビックリしたんだぞ。いったい、あそこで何があったんだ?」
 オレは部屋のドアを閉め、ベッドに腰を下ろしながらソニアに問いかけた。彼女には言いたいことと聞きたいことが山ほどある。
「実はね、森の奥で何があったのか、よく覚えてないんだ」
 オレの隣に座ったソニアは困ったように首を振り、モンスターボールを取り出した。
「オマエ、あの時のホーホーか!?」
 ボールの中で、ホーホーの丸い目がオレの声に合わせて動いた。
「森の入口あたりで捕まえたの。途中までは、この子が道案内してくれたんだ」
 奥に進むにつれて霧が濃くなる森の中で、ソニアは突然、眠気に襲われたのだという。うなり声を上げるワンパチをボールに戻してから、部屋のベッドで目を開けるまでのことは、意識も記憶も残っていないらしい。
「まどろみって眠くなることでしょう。たぶん、あの森にはさいみんじゅつか何かを使うポケモンがいるんだと思う」
 森の中で大変な目に遭ったばかりなのに、ソニアの探求心は止まらないのだ。彼女はバッグから本を取り出し、ピンク色のポケモンが描かれたページを開いた。
「ムンナっていうの。人の夢を食べて、煙を吐くんだって」
「煙」
 霧に溶けて消えた、黒くて形のないものを思い出しながら、オレは本に書かれた文章を目で追った。ムンナはゆめくいポケモンで、楽しい夢を食べればピンクの煙を、悪い夢を食べた時には黒っぽい煙を吐くのだという。
「寝ている間、わたし、ずっと夢を見ていたの。内容は覚えてないけど。さいみんじゅつが使えて、夢に関係があるポケモンといえば、ムンナかムシャーナだと思うんだよね。それでね、ダンデくん」
「絶対にダメだ」
 本から顔を上げたソニアが目を見開いている。自分の調べたことや考えたことを話してくれる彼女の顔を見ていると、いつもはオレまで楽しくなるが、このときばかりは別の気持ちがそれを上回った。
「キミのことだから、森にいるのが本当にムンナなのか、確かめに行きたいって言うつもりなんだろう。ソニアが何を言っても、そんなのは絶対に、ぜーったいにダメだからな!」
 勢いのついた言葉は、もはやオレ自身にも止めることができなかった。
「オレは、キミがポケモンに襲われてケガでもしたんじゃないかって、本当に本当に心配したんだぞ。もう、あんな思いをするのは、絶対にイヤだからな」
「私はただ、黒い煙みたいなものを見なかったか聞きたかっただけなのに、そんな言い方はないでしょう。だいたい、ダンデくんだって」
 ソニアの瞳が、オレを真っ向から受け止める。生まれ持った性別の差か、それとも今までに読んできた本の数か、オレは口で彼女に勝てた試しはなかった。
「一人で森に突っ込んで行ったって聞いたわ。いくらヒトカゲが一緒だからって、ダンデくんはすぐ迷子になるんだから、無茶しちゃダメよ」
「ソニアが森に行かなかったら、オレだってそんなことはしなかった!」
 張り上げた声の大きさに、ソニアの肩がわずかに跳ねた。オレは決して、彼女を怖がらせたかったわけではない。思いが伝わらないもどかしさが、自分自身への苛立ちとなって体の奥を駆け回る。
「……なんで、一人で行ったんだ」
 ソニアをどこにも行かせまいとするかのように、オレは彼女の両手を握りしめた。
 母さんの制止を振り切って森に飛びこんだオレとは違い、ソニアはペンライトを持っていた。彼女がまどろみの森に向かったのは思いつきなどではなく、計画を立てた上での行動だったのだ。
「ソニアが声をかけてくれれば、オレは一緒に行ったのに」
 オレが付いて行っていれば、ソニアは涙を流すような夢を見ることも、熱を出すこともなかったのではないか。寂しげな呼びかけは、置いていかれたという子どもっぽい感情とともに、オレの中に残っていた。
「そんなことしたら、ダンデくんが叱られちゃう! それに、家の人が心配するわ」
「だったら一緒に叱られればいい。それに、大人だって、子どもを一人ずつ叱るより、まとめてお説教する方が楽なはずだ」
「何、それ」
 ようやくソニアが笑みをこぼした。彼女も体調が戻るなり、マグノリア博士たちにきつく叱られたのだろう。博士はオレがソニアを助けたことは誉めてくれたけれども、一人で森に入ったことには太い釘を刺したのだった。
「ソニアが危ない目に遭うことを考えたら、大人に叱られるなんて、全然、たいしたことじゃない」
 オレは少しだけ見栄を張った。本当は母さんにどやされるのも、マグノリア博士のお説教も、かなりおっかない。
「だからソニア。頼むから、一人で危ないことをするのは止めてくれよ」
「……うん。ダンデくんに心配かけてごめんね。それから、助けてくれてありがとう」
 オレたちは手を握ったまま、互いの額を合わせた。ソニアの手は温かくて柔らかいのに、額は冷たくて心地が良い。
 彼女が何かを思い立ったときに、真っ先に頼りにされる人間になりたい。それがオレの願いだった。


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