由  緒
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由  緒
  当社の創立は、白雉元(西暦六五〇)年出雲の國人が、大原野と称する肥沃な原野を開拓し、伊吹山下より溝渠を鑿ち、姉川より用水の便を計り、開墾地に潅漑し、その工事が同三(六五二)年五月に落成、後にこの井渠を出雲人の開墾したるを以て、出雲井と名付け今日に至っている。
 斯くして、この大原野の五穀豊穣と、郡(むら)の安泰を祈るため、その大原野を見霽かせる岡山に祀堂を建立し、万物根源の神、皇産霊大神(大梵天)を勧請したのが始まりとされる。



沿  革
  創立期の白雉年間は、第三十六代孝徳天皇(天万豊日尊)の代にして、第三十四代舒明天皇(息長足日広額尊)の皇后、第三十五代皇極天皇(天豊財重日足姫尊)四(六四五)年中大兄皇子、中臣鎌足らにより、時の権力を思いの侭にしていた蘇我氏を誅滅し、中臣鎌足らの意見により、孝徳天皇が即位、中大兄皇子を皇太子とし、大化と建元し、大化改新の事業を進め、班田収授、租、庸、調、戸籍の制などを定めた。 この事を受け、且つ亦、孝徳帝の姉皇極帝は、舒明帝の后でもあり、舒明天皇は、第三十代敏達天皇の后息長広姫を祖母に持ち、亦、息長陵(息長広姫の御陵)を大原郷の西側に持ち、息長族は、渡来系の民族で、数々の先進文明をもたらしている事から、此の地を早くから開墾したものと思われる。
 当社が勧請された白雉年間(六五〇〜六五四)以降鎌倉時代前期までのはっきりとした記録はなく、宝治元(一二四七)年佐々木左右衛門太夫重綱が、大原の庄十八郷を領し、大原氏を称し、爾後、累代当郷の主となるや、当社を復興し、大原秀義、持時、持綱等が、御供料として年々百貫を寄せ、崇敬の厚かったことが伺われる。
 また、往古に於いては、伊吹山四大護国寺の内、弥高寺の末寺松林坊(真言宗)が別当寺となるが、観音護国寺の寺僧が祭礼を司っており、また、この観音寺とは、文明八(一四七六)年、観音寺本堂建立に当たり、境内の松木四本を観音寺側へ差し出していることからも、ただならぬ関係が伺われる。しかし、江戸期にはいると、下司村(現長浜市宮司町)の惣持寺とのつながりも深く、元禄五(一六九二)年に「神宮山大勝院長久寺」の山院号を氏子中で賜りに行った記録が残っている。
 なお、氏子区域は、当社の創立の起源にちなみ、出雲井水系の地区に亘り、延宝三(一六七五)年の記録によると、小田村、間田村、春照村、井丿口村、本庄村(天満)、本庄中村(本市場)、高番村、村居田村、坂口村、烏脇村、観音寺村(朝日)、野一色村、上夫馬村(朝日)、下夫馬村(夫馬)、市場村、産所村(市場)、市場中村(本市場)、池下村の十八郷が見えるが、これに相撲庭村が入り十九郷とするのが妥当である。(一説には、伊吹村も大原郷に属せしと云えり。)しかし、現在の氏子は、町村合併の影響を受け、前記の内、浅井町の相撲庭、伊吹町の春照、高番を除く十三ヶ字となっている。またこの大原郷は、往古より出雲井の管理を握り、姉川下流域の村々との渇水期の水争いが絶えなかったことが、多くの資料からも察することが出来る。
 さらに、この広大な耕地の肥飼料とすべく伊吹山系の一つの伊吹町藤川にある川戸山(石高五十四石)を入会山と定めている。
 また、近江輿地志略に、『延喜式神名帳の岡神社間田村にあり。』とあるが、式内岡神社は諸説あり、定かではないが、前途にも記したように、護国寺の管理の下、祭祀がなされていたことを考慮すれば、当社が式内岡神社であったことも推察できる。
 尚、地形等を考慮すると、伊吹の山の神の祭祀場所であったとする説も考えられている。


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