黄檗宗・慧日山永明寺HP |
||||||||||||
瓜頂和尚祖録漫解帖 黄檗在家安心法語 |
||||||||||||
大講義 林道永著述兼発行 |
||||||||||||
〔解説〕 本書は、明治13年、黄檗宗第38代住持として入山したばかりの道永通昌猊下が著述し発行されたものです。 明治新政府は、太政官布告と神仏分離令によって,神道と仏教の分離を図りましたが、それは廃仏毀釈の嵐となって吹き荒れ、仏教教団は塗炭の苦しみを味わう事態に直面することとなりました。 黄檗山萬福寺は、将軍家菩提寺として御朱印を戴き安穏だったのですが、此の時を境に一変し、宗門全体が奈落の底に突き落とされるような状況に追い込まれました。 三千ヶ寺近く有った宗門寺院は一挙に三分の一に激減し、瞬く間に本山維持すら困難な状況となったのです。 この様な状況の中、わずか44才で宗門筆頭の座に就いた道永が最初に着手した大事業が教宣拡大、つまり布教という大仕事でした。 いうまでもなく黄檗宗は、「不立文字教外別伝」を標榜する歴とした禅宗です。 しかし、敢えて在家信者のためにと、わかりやすく宗旨を解説する法語として著述されたのが本書でした。 一読すると、参禅入室し祖師語録ばかりを読んでいる方にとっては、異質な感覚を覚える向きもあることでしょうが、黄檗宗の禅風が、懇切丁寧に解説されています。 是非、全文をお読み戴きたいものです。 といっても、管理者の手が遅いので,全文アップには時間がかかりますが、これはご寛容ください。 |
||||||||||||
〔凡例〕 ・ 本書の底本は、明治13年出版の「黄檗宗大教院僧黌蔵版」を使用した。 ・ 原文の各章節に標題はないが、読解の便宜上、管理者が適当な標題を付した。 ・ 原文は読点ばかりが付され読みづらいため、管理者の判断で句読点の置き換えを行った。 ・ 原文に付されたフリカナはその通りにカタカナで、また、特に管理者が付記したものは、平かなで付記した。 〔その他〕 ・ 本書では、浄土門で用いられる教学的専門用語が多用されているが、可能な限り〔注〕記した。 但し、著者の意に沿わない解釈をした個所があるやもしれず、この点については予めご了承を得たい。 |
||||||||||||
|
||||||||||||
|
||||||||||||
標題 黄檗在家安心法語(おうばくざいけあんじんほうご) 大講義 林道永著述兼発行 |
||||||||||||
黄檗宗在家信者のための安心法語 |
||||||||||||
〔注〕 | 【大講義】 明治5(1872)年から明治17(1884)年まで大教宣布のために設置された宗教官吏を教導職といい、無給官吏で、当初は全ての神官や僧侶等が任命された。 増上寺に大教院が設置され、地方に中教院・小教院が設置された。 教導職は各地の社寺で説教を行った。 教正、講義、訓導などの階級に分かれ、それぞれに大、中、小の別があり、全部で14階級あった。 大講義は、第七位の職であった。 【在家】 自ら生計を営む世俗の人。 【安心】 禅宗でいう「安心」とは、心を一点にとどめ定着させること。 大悟。 心を徹見して、絶対の境地そのものになりきること。 本性に安住して心身を安定、安らぎを得て不動なことをいう。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
1 「信」と「理解」について ○ 夫レ佛法ノ大海ハ信ヲ以テ能入(ノフニウ)トスルナリ。 此ノ故ニ經ニモ信ハ道源功徳ノ母ナリト説ケリ。 サレハ其信心ト云ヘルハ人天(ニンデン)ノ福樂二乗(ジヨウ)ノ聖果(シヤウクハ)ヲ信スルニモ非ス、 又三大劫六度萬行ヲ修スルヲ信スルニモ非ス。 タゝ我等天眞ノ自性(ジシヨウ)ハ本来コレ佛性ナリト深ク信ズルハカリナリ。 是レ即チ祖師西(セイ)来ノ直指(ジキシ)ナリト知ルヘシ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | 大智度論という経典解説書に 「仏法の大海は信を以て能入するなり」 と記されているように、広大で深遠な仏法を理解するには「信」というものが不可欠です。 このため華厳経という経典には、『信ハ道源功徳ノ 母ナリ』 と説かれています。 では、その「信心」とはなんでしょうか。 なにを信じよと言っているのでしょうか。 それは人間界、天上界のあらゆる幸福や快楽を信じ、あるいは修行によって得られる悟りを信ずるということではなく、またそのために長年にわたって修行し続けなければならないと信じることでもありません。 ただ、「私たちの生まれながらの本来の自性は仏性である」と、深く信じるだけのことなのです。 これこそが「禅宗の祖師である達磨大師がわざわざインドから伝えられた端的の教えである」と知っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【夫レ仏法ノ大海ハ信ヲ以テ能入トスルナリ】 大品般若龍樹注釈本大智度論巻第一下巻に 「問曰。諸佛經何以故初稱如是語答曰。佛法大海信為能入。 智為能度。如是義者即是信。 (問うて曰く、諸の仏の経は、何を以っての故にか、初めに如是の語を称うる。答えて曰く、仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す。)」とある。 【信ハ道源功徳ノ母ナリ】 華厳経賢首品に 「信は道の元とす、功徳の母なり。 一切もろもろの善法を長養す。 ・・・・ 」とある。 【信】 決して疑わないこと。 中峰明本禅師『信心銘』の句を借りるならば、「信心不二 不二信心」となる。 【人天】 人間界と天上界。 【二乗】 声門乗(師の教えによって四諦の道理を悟る人。)と縁覚乗(仏の教えに拠らず一人で十二因縁の道理を観察して悟る人たち。)の人たち。 【聖果】 聖道の成果によって結果として得る悟り。 【三大劫】 三大阿僧祇劫の略。 無間に長い年月。 菩薩が修行して仏になるまでの時間。 【六度萬行】 六波羅蜜(六度)は、一切の善行の根本であるので、広くいえば万行となることをいう。 【仏性】 仏としての本性。覚者となり得る可能性。 禅門では、種子とみるよりも仏そのものとみる。 仏そのものである仏性を本来ありのままの姿であらわすことが修行であると説く。 【祖師】 ここでは、禅宗開祖(西天二十八祖、東土初祖ともいう)菩提達磨大師のことをいう。 【直指】 直接に究極の真理を指示すること。 言語や文字、色んな手段を用いず、端的にまっすぐにそのものを示すこと。 |
|||||||||||
扨此上ハ我等一切衆生佛性ヲソナヘタレハタヤスク涅槃(ネハン)ノ悟リヲ得ベシト云ヘル謂(イワ)レハ、 一應ノ聽聞(チヨウモン)ニテハ中々解(ゲ)シカヌル事アルベシ。 之レヲ先徳モ信解(シンゲ)相兼テ入道スミヤカナリト云ヘリ。 サレハ幾度(イクタビ)モ聽聞アリテコソ大信心ノ輩ラトハ申スナレ。 能(ヨク)々心得ヘキ者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | さて、私たち一切衆生の誰もが仏性を持っているということですから、だれもが容易に涅槃の悟りを得られると言う道理ですが、それだけにひととおり聴聞するだけでは中々理解しかねることです。 そこで、優れた先輩方も華厳経の中で「信解相兼て入道速やかなり」(仏道への入門は、「信心」と「理解」という二つがそろってこそ速やかに進む)と教えてくださっているのです。 このようなことですから、何回も聴聞し学んでこそ大信心の仏弟子であるといわれているのです。 よくよく心得たいものです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【信解】 勝解ともいう。 教えを信じて理解すること。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
2 「禅」と「念仏公案」について ○ 夫レ禪宗ノ禪ト云ヘルハ、 禪定(ゼンジョウ)ノ禪ニハ非スシテ佛心ヲ指テ禪トハ名ケタリ。 此故ニ又佛心宗トモ申スナリ。 サレバ其ノ佛心ヲ我等(ラ)衆生ニ明ラメシメンガ為ニ、 本師釋尊ノ示シ玉フ公案(コウアン)ヲ六字ノ名號トハ申スナリ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | 禅宗の「禅」の意味は、六波羅蜜等でいう「禅定」の禅ではなく、 「仏性」、つまり 「仏心」のことを「禅」と名付けたものです。 このため、禅宗のことを 「仏心宗」 ともいいます。 したがってその 「仏性」 を私たち衆生に明らかにするために、本師である釈尊がお示しくださった公案を 「六字の名号」、つまり 「南無阿弥陀仏」 というのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【禅定】 精神統一をし雑念を避けて心を安定させること。 六波羅蜜の一。 【仏心】 仏の大慈悲の心。 人間に本来具わっている清浄な真如にかなう心(仏性)を言う。 【仏心宗】 禅宗の別称。 仏心を徹見して直ちに仏となることを教える宗門の意。 【公案】 禅宗で万人がよるべき至理を表示するものの意に用い、それを考えるために提案された問題をいう。 具体的には、祖師の言葉であったり、言句、問答などがある。 |
|||||||||||
又此ノ名號ヲ唱フル謂レト申ハ我等本来佛心ヲ具足スト雖モ、 諸佛ノ増上縁(ゾウジョウエン)ニ逢ハザレバ其ノ佛性ヲ見テ涅槃ノ悟リヲ得ル事難キガ故ナリ。 是レヲ喩(タト)ヘンニ木中ノ火性ハ火ノ因(イン)ナレトモ縁ニ値ハザレハ燒(ヤ)クコト能ハザルガ如シ。 此故ニ縁ニ遇ヒテ悟リヲ得ントスル人ハ此名號ヲ執持(シフジ)シテタゝ此名號ヲ唱レバ此度ノ涅槃ノ悟りヲ得ルモノナリト思ヒテ、 行住坐臥ニ稱名念仏スベキ者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | また、この名号を唱えるいわれというのは、私たち誰もが本来仏性(心)を具えている存在であるとはいいながらも、諸仏の優れた技とも言える 「縁」 というものに逢うことが出来なければ、折角その仏性を前にしながら、涅槃という安らぎの境地を得ることは難しいからです。 これを喩えていうならば、木と言うものはそれ自体燃えてしまう性質を持っていますから、火の原因ともなるべきものということが出来ますが、縁が無ければ焼くことが出来ないという次第です。 ですから、この縁に逢って安らぎを得ようとされる方は、この名号を自分のものとして、ただ唱えるだけで安らぎの境地が得られると確信して、行住坐臥、常に妙号を唱えることが大事なのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【増上縁】 四縁の一つ。 あらゆるものは他のものが生ずることの妨げとならないことから、いかなるものも増上縁となる。 【称名念仏】 阿弥陀仏の名号を唱え、心に仏を念ずること。 なお、口に出して唱えることを口称念仏、心に念じることを臆念念仏といい、我が宗門では臆念念仏を勧める。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
3 「見性成仏」ということ ○ 夫レ一切衆生如来同体ノ佛性ヲ具(ソナ)ヘタレハ、 宜シク其佛性ヲ知ルコソ見性(ケンショウ)成佛トハ申スナレ。 夫レ佛性ト云ヘルハ、此ノ世界他ノ世界森羅萬象生死涅槃モタタ此ノ一佛ノ法性ナリト知ルヘシ。 サレハ我等ハ彼ノ一佛ノ光明ノ内ニ攝取セラレタル者ナレバ、イカデカ凡夫トハ申スベキ。 サレトモ一念ノ迷ヒニ因リテ自(ミヅカ)ラソノ本性ヲ昧(クラ)マスガ故ニ、 今ハ流転(ルデン)ノ身トハ成レルナリ。 之レヲ憐(アハレ)ミ玉ヒテ久遠(クヲン)ノ如来假リニ法藏因位(インニ)ノ誓願ヲ建テ、 此ノ六字ヲ成就シ、 此レヲ我等ニ與ヘテソノ本具ノ佛性ニ皈(カエ)ラシメントノ大慈大悲ナレバ、 コノ名號コソハ我等ガ往生成佛スル公案トハ知ラレタレ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | 世間の誰もが如来と同じ仏性を具えているのですから、自己の力でその仏性を知ることを 「見性成仏」 というのです。 「仏性」 というのはわたしの今住んでいるこの世界や宇宙、森羅万象、そして生も死もあるいは涅槃すらも自己の本心を映し出す真実ありのままの本来の姿であると知るべきです。 そうであるならば、私たちは、そのままにみ仏の光の中におさめとられた身 (つまり我が身こそが仏) ということになりますが、どうして凡夫などというのでしょうか。 実は、一瞬の迷いのために自らその本性を見失ってしまっているがために真理を求めてさまよう結果となってしまっているのです。 これを憐れみくださった無窮の如来が、仮に真理を究めた菩薩にならんとの誓願を立て、この弥陀の名号の六字を完成し私たちに与えてくださったものなのです。 もともと私たち自身がこの身そのままに持っている仏性に気づかせようとの有り難い大慈大悲のお心からなので、この名号こそが、私たちが極楽世界に生まれ正しい悟りを得るためのよるべき公案(手だて)となる重要な言葉であると知っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【見性成仏】 自分の本性を徹見して悟ること。 禅宗の根本主張である。 本性を徹見することによって覚者となり得るということ。 【往生】 念仏の功徳によって、死後、阿弥陀仏の浄土である極楽世界に往き生まれ変わること。 |
|||||||||||
サレバ一声モ此ノ名號ヲ唱ヘン者ハ、 是レ則チ見性ナリ。 一念モ此ノ名號ヲ臆念(オウネン)セン者ハ、 是レ則チ佛性ナリ。 此ノ故ニ行住坐臥ニ此ノ名號ヲ執持(シフジ)セン者ハ、 念々スナハチ佛性心々則チ見性ナレハ、 コレヲ坐禅トモ悟道トモ申スナリ。 此ノ外ニ奥深キ道理ヲ穿鑿(センサク)スルハ偏ヘニ仏祖ノ憐ミニモ洩(モ)ルゝ者ナリト知ルヘシ。 只寤寐(ゴビ)ニ念仏スルヲ、 聖體(シヤフタイ)長養(チヤウヤフ)トモ、 正念相続(サウゾク)トモ申ス者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | したがって一声でもこの名号を口に出して唱えようとされた方は、禅宗が言う 「見性」 された方、つまり真の自己に気づかれた方です。 また、たった一度でもこの名号を心の奥で念じてみようとされた方は、それは仏性がそうさせているわけですから仏そのものといってもいいでしょう。 このために行住坐臥にこの名号を唱え続け念じようとされる方は、念じる毎に仏そのものとなり、そのたびに真の自己に気づくこととなるわけですから、これを 「坐禅」 とも 「悟道」 ともいうのです。 このほかに何かもっと深い教えがあるのではないかなどと道理を穿鑿しようとすることは、このようなすばらしい名号を与えてくださった如来の憐れみの心に応えないものであると知らねばなりません。 ただ、寝ても覚めても念仏することを聖體長養とも、正念相続ともいいます。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【寤寐】 寝ても覚めても。 【聖體長養】 修行して仏の果報を得ること。 禅宗では、専ら悟った後の修行のことをいう。 【正念相続】 八正道の一つ。 邪念を離れ、仏道を思い念ずること。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
4 「即心即仏」とは ○ 夫レ本宗ニハ即心即佛ト云フヲ宗旨トスルナリ。 彼ノ聖道門ノ如キハ三祇ノ修行ヲ経サレバ等覺(トウガク)ニハ至ラサル者トイヘリ。 然ルニ初祖達磨(ダルマ)大師ハ釋尊ヨリ佛ノ心印ヲ相承(サウジョウ)シ玉ヒテ成佛ノ一大事ハ此ノ一心ニアルヿヲ伝ヘ玉ヘリ。 コレヲ以心傳心トハ申スナリ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | 黄檗宗では「即心即仏」と言うことを宗旨としています。 自らの能力をたよりとし厳しい修行を積み重ね現世で悟りを得ようとする聖道門の世界では、長い年月の修行を経なければ仏の悟りを得ることは出来ないといわれています。 しかし、禅宗初祖菩提達磨大師は、釈尊から代々伝えられた仏の心印を受け継がれ、正しい悟りを得ることの一大事は、この一心にあるということを伝えられたのです。 これを「以心伝心」といいます。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【即心即佛】 私たちの心がそのまま仏であるということ。 【宗旨】 禅宗では、仏法のおおもと。 如来禅の生粋のところ。 根本思想。 修行のよりどころ。 【聖道門】 自らの能力をたよりとし厳しい修行を積み重ね現世で悟りを得ようとする実践。 具体的には密教、天台宗、華厳宗などをいう。禅宗を聖道門に含める人が多いが、禅者の多くはこれを否定している。 【三祇】 三大阿僧祇劫の略。 菩薩が修行して仏になるまでの時間。 【等覚】 正覚。 仏の悟り。 【心印】 仏心印の略。 【以心伝心】 禅宗で悟りの極意を伝えること。 言語や文字を使用しないで悟った内容をそのまま他人の心に伝えること。 |
|||||||||||
扨其一心ト云ルハ別ノ義ニ非スシテ一句ノ阿弥陀佛ト唱フル一心ナリ。 心ト云ルハ即チ念ナリ。 蓋(ケダ)シ此ノ一念ノ稱名ノ所ロニ成佛スル謂レアルヲコレヲ即心即佛トハ申スナリ。 又其一念ニ成佛スル謂レト云ハヽ、彼ノ佛無量劫ニ於テ萬善萬行ノ功徳ヲ成就シ、其功徳ヲ此ノ名號ニ収メ玉ヒテ我等ニ與ヘ玉フ者ナレハ、此ノ名號ヲ執持セン者ハ、必ズ其願力ニ託(タク)スルガ故ニ、歸命スル一念ニ於テ浄土ニ往生スル者ナリト知ルベシ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | さて、その「一心」というのは別に意味があるわけではなく、一句の「阿弥陀仏」と唱えるあの一心のことです。 心というのは、つまり念ずるということです。 思いますに、この一心不乱にお唱えしようとする称名に悟りを開くことができるいわれがあり、これを「即心即仏」というのです。 またその一念によって悟りが開けるいわれというのは、昔、仏が量り知れぬほどの時間をかけ、あらゆる善行を積まれたことによって成就した恵を、この六字の名号に収められて私たちに与えて下さったということですから、その名号をいつも念じようとする人は、必ずその仏の衆生済度の願力に心を託すこととなるわけで、その一念に於いて浄土に往生するものだと知っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【一心】 心を一つに集中させるさま。 |
|||||||||||
此ノ意ヲ永明(イヤフメイ)ノ先徳モ此ノ一念ハ是レ我ガ本師ナリ、此ノ一念ハコレ地獄ヲ滅スルナリ、此ノ一念ハ本性ノ如来ナリ、コレ則チ唯心ノ浄土ナリト云ヘリ。 サレハ即心即佛ト云ヘルハ唱フ一念ニ成仏スル謂レアルコレヲ即心即佛トハ申ス者也。 是レ則チ我カ禅宗念佛公案ノ趣キナリト知ルベキ者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | ここのところを永明延寿禅師も、この一念は、私の本師釈迦牟尼仏そのものである、この一念は地獄をも滅してしまう、この一念は、真に心の如来である、これこそは私の心の中にいます浄土であるといっておられるのです。 したがって、「即心即仏」というのは、名号を唱える一念で浄土に往生できるという、ここのところの境涯を「即心即仏」といったものです。 これこそが、わが黄檗宗が示した禅宗念仏公案の趣旨であると知っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【永明の先徳】 唐末の僧、永明延寿(904~975)のこと。 諡号は智覚禅師、永明宗照大師。 禅門法眼宗第三代の祖師であり、淨土宗六祖でもある。 仏学思想の特色は「禅」と「淨」を結合し、各論を取りまとめることにあり、密教の密行と法相、三論、華厳、天台といった「諸説」及び「淨土理論」の統一をなしとげたといわれる。 教宗と禅宗を統合する「教禅一致」、禅宗と浄土宗を統合する「禅浄一致」を説いた。 著述は多く、『宗鏡録』、『万善同帰集』、『唯心決』、『定慧相資歌』、『神栖安养賦』、『警世』等がある。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
5 「唯心の浄土 己身の弥陀」 ○ 夫レ真如法界ニハ生佛ノ假名(ケミヤウ)ヲ絶(ゼツ)スト云ヘリ。 此故ニ佛心宗見性ノ念佛ト申スハ、一超(チウ)直(ジキ)入如来地(チ)ナレバ、更ニ生仏(シヤウブツ)自他ノ思ヒヲ為スベカラス。 我宗ニ於テハ自力(ジリキ)他力(タリキ)ノ名相(ミヤウソウ)ニハ渡ラズ。 |
||||||||||||
〔大意〕 | さて、この世のありのままの世界はというと、衆生とか仏というように、仮に名付けられたものの世界であり、もとよりあるべきはずがありません。 このために仏心宗、つまり禅宗が徹見するところの念仏というのは、仏の世界に直ちに飛び込んでいくことをいうわけですから、衆生だの仏だの、あるいは自分とか他人とかの想いをいたしてはなりません。 我が黄檗宗はじめ禅門においては、自力とか他力などという名前には立ち入りません。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【真如法界】 ありのままの姿。一心の総名。 真如と法界は同義語。 「信心銘」参照。 【生仏】 生とは迷いの衆生。 仏とは真理に目覚めた者。 【假名】 実体の無いものに仮につけた名称。 【一超直入如来地】 人間が生まれながらに仏であることを自覚して修行者が直ちに絶対の境地に入ること。 「証道歌」参照。 頓悟をいう。 【自力】 自らの悟りの力。 【他力】 仏や菩薩の力によって悟りに導かれること。 【名相】 仮に名付けたところの現れた姿。 |
|||||||||||
只此ノ名號ヲ信ズル一念コソ是レ即チ菩提心ナレバ、此一念ノ所ロニ、無量劫ノ罪障ハ消滅シテ、已ニ蓮胎ニ投シ、金地(こんじ)ニ住スル諸佛同体ノ一念ナレ。 之レヲ正定聚(シヤウヂヤウジウ)トモ申シ、不退位(フタイヰ)トモ申スナリ。 此ノ信ノ一念ハ既ニ是レ菩提心ナルガ故ニ他力ト申スヿハ更ニコレ無シ。 他力ナケレバ自力ト申シ對スル所ハコレ有ルベカラズ。 此ノ故ニ自力他力ト申ス沙汰ハ全クコレナキヿト知ルヘシ。 、 |
||||||||||||
〔大意〕 | ただこの名号を信じる一念というものが菩提心といわれるもので、悟りを求め仏道を行じようとする心そのものですから、この一念によって量り知れない悟りの妨げとなるものはすべて消滅し、既に浄土に往生され寺院に安置された蓮台の仏と同じ気持ちであるといえます。 このように悟るまでは決して退くことは無いとの不退転の気持ちを持ち続けることを正定聚とも不退位ともいいます。 このような信の一念は、自らの菩提心によるものですから、他力などということはさらさらいう必要はありません。 当然他力が無ければ自力などとの対照的な呼び方もあるわけがありません。 このゆえに、自力とか他力などという呼び方は全く必要のないことを知っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【菩提心】 阿耨多羅三藐三菩提心の略。 悟りを求めて仏道を行じようとする心。 【罪障】 悪業のために悟りを妨げられること。 【蓮胎】 蓮華胎の略。 念仏して阿弥陀仏の浄土に往生する人は、すべて蓮華の内に生まれる。 その蓮華は恰も母胎の如くであるから、蓮華胎という。 【金地】 仏寺のこと。 金田とも。【正定聚】悟りまで退転無く進んでやまぬ菩薩の仲間入りをすること。【不退位】元へ退くことが無いこと。 |
|||||||||||
信ノ一念ハ 菩提心ナルガ故ニ佛心ナリ。 此ノ佛心我等本具ノ仏性ニシテ彼ノ佛ニ催サレテ計(ハカ)ラズモ一念ノ稱名ハ浮ブモノナレハ、其唱フル自性ハ又我レニハ非ズシテ、如来ノ方ナリト知レタリ。 此ノ故ニ先德モ念佛ニハ非スシテ佛念ナリト云ヘリ。 此ノ意ロヲ唯心ノ浄土自性ノ彌陀トハ申スナリ。 扨此ノ上ハ此ノ一念相續ハ暫クモ間斷アル可カラズ。 農ニマレ、商ニマレ、思ヒ出ルニ任セテ、行住坐臥ニ稱名スルヲ正念ノ相續ナリト心得ベキ者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | この信の一念は、まさに菩提心といわれる悟りを求める心であり仏の心そのものといえます。 この仏の心は私たちが本来具えている仏性であり、その仏の心に導かれはからずも一念の称名が浮かぶものですから、この名号を唱えようとする自分は、これまた私自身では無く、私自身の中にいる阿弥陀如来であると知るのです。 このゆえに、先人も「念仏」とはいうが、そうではなく、仏が念じているのだ「仏念」だといわれるのです。 また、その意味合いを「唯心の浄土 己身の阿弥陀仏」といっているのです。 そこで、このうえは、この一念を続けることはわずかの間も間断があってはなりません。 農業をするにせよ、商いをするにせよ、心の思うままに任せ、行住坐臥に称名することが正念相続だと心得るべきです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【正念】 正しい思い。 八正道の一つ。 |
|||||||||||
|
||||||||||||
6 禅宗檀信徒の心得 ○ 夫レ本宗ハ参禪悟道ヲ以テ宗旨トスルナリ、 敢テ他土ノ往生ヲ願ハンヤト、 誠ニ仏法ノ道理ニ不明ナル人ハカゝルヿヲモ思フラン、 偏ニ愚カナル心得ナリト云フベシ、 中峰ノ先徳モ禪ハ浄土ノ禪ナリ浄土ハ禪ノ浄土ナリト云ヘリ、 夫レ禪ト云ルハ佛心ナリ、 |
||||||||||||
〔大意〕 | 黄檗宗では「参禅」することによって仏道を悟ることを根本思想としています。 従って私どもが住むこの国土以外の他の国土に敢えて往生したいなどと、どうして願いましょうか。 ところが実際には、仏法の道理を知らない方は、この様なことを思っておられるのです。 まことに愚かな考え違いとも言うべきことです。 中峰明本禅師も「禅とは浄土の意の禅であり、浄土とは禅の意味の浄土である」と仰っています。 つまり禅というのは、仏心のことです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【中峰明本】 (1263~1323)杭州銭塘県出身、元時代臨済宗楊岐派(破庵派)の僧。 師は高峰原妙。 諡号は智覚禅師、普応国師。 尊称は仏慈円照広慧禅師。 著作に『天目中峰和尚廣録』、『懐浄土詩』等がある。 儒と仏との調和融合を主張し、また「教禅一致」や「禅浄一体」をも主張した。 【禅は浄土の禅、浄土は禅の浄土】 中峯明本の思想を代表する有名な語句。 『天目中峯和尚廣録』巻五下に「示呉居士」と題して次のようにいう。 『禪即浄土之禪、浄土乃禪之浄土。昔永明和尚離浄土與禪為四料揀。由是學者不識建立之旨、反相矛盾、謂禪自禪、浄土自浄土也。殊不知參禪要了生死、而念佛亦要了生死。原夫生死無根、由迷本性而生焉。若洞見本性、則生死不待蕩而遣矣。生死既遣、則禪云乎哉。浄土云乎哉。』 |
|||||||||||
サレバ八萬ノ法門ト云ルモ、 皆此ノ佛心ノ謂レナレハ、 八宗九宗ノ差別アルモ、 其源(ミナモト)ハ此ノ禪ノ一字ノ外ニハ非ラサル者也。 コレニ因ツテ此ノ六字ノ名號ハ禪ニコモリ禪ハ又此ノ六字ニコモリタルガ故ニ、 参禪ト浄土ノ法門ト全ク差別アルベカラズ。 是レ即チ教外(キョウゲ)別傳(ベツデン)ノ所談(ショダン)ナレバ他流(タリュウ)ノ人ニ對シテ沙汰アルベカラズ。 佛心宗ノ門徒タルモノ、 カゝル道理ヲ會釋(エシャク)シテ、 更ニ六字ノ禪ニ参シテ悟道スル、 コレヲ佛心宗特別ノ心得ナリト思フベキ者也。 |
||||||||||||
〔大意〕 | ですから、八万の法門といいますが、あらゆる法門がこの仏心の意味を持っているわけですから、八宗九宗の差があろうともその源は、この禅の一字の他には無いといえます。 この様なことから、この六字の名号は、禅という言葉の中にこめられていて、禅という意味はまたこの六字の名号の中に込められているということがいえ、参禅も浄土の法門もともに全く違ったものとして差別されるべきではありません。 このことは、教外別伝の意味合いから申したことですから、浄土門等、他の宗派の人にとやかく話すことではありません。 仏心宗(禅宗)を信奉する方々は、この道理をよく理解して六字の名号のもとに参禅して悟りが得られるように極める、これが我が禅宗の特別の心得だと思っていただきたいのです。 |
|||||||||||
〔注〕 | 【八万の法門】 凝然大徳述 『八宗綱要抄』第一編[総論]、第一章[教理の綱要]、第一節[八万四千の法門]に出てくる言葉。 「問い。仏教に幾つの門が有るか。 答え。 釈尊の教えは数限りがないが、大まかに言えば、八万四千の法門がある。 釈尊の生涯のうち五十年間、説かれた法でこれに入らないものはない。 問い。 なぜ法門の数はそれだけ必要なのか。 答え。 全生命の八万四千の煩悩を滅ぼすために、そのために法門も八万四千必要なのである。 問い。 これらの法門は、大乗のみを指すのか、小乗にも通じるのか。 答え。 大小乗、それぞれに八万四千の法門がある。 『倶舎論』によれば「釈尊の説かれた法の数は八万ある」とある。 それだけでなく、様々な小乗経にも多く「法は八万四千有る」と説かれている。 これらはみな、小乗の説である。 大乗経の中にも、盛んにこの事は説かれており、根拠は非常に多く、説明の必要も無い。 そのため、大小乗の双方でみな八万四千あると言うのである。」 とある。
【教外別伝】 教えの他に仏心印を単伝すること。 禅宗の宗義を最も簡明に示した四句 「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」 の中の一句。 |
|||||||||||
![]() |