黄檗宗・慧日山永明寺HP
 


檗 僧 逸 話 選 集

 
 



  黄檗宗には禅僧特有の機知を持った僧が数多く、伝え残したい逸話が数多くあります。

  隠元禅師のように『禅僧逸話選』名で書籍(※)としてまとめて発表されたものもありますが、それ以外は意外と知られていません。

  それらを順次発表していきます。

                                       ※『隠元禅師逸話選』禅文化研究所編、同発行


〔注〕 
 ① 配列は、大凡の時代順に並べました。 
 ② 逸話末尾に出典書籍名等を掲げました。 参考にしてください。


 
 
檗 僧 逸 話 選 集 目 次
 
  ○ 鹿苑に莨(たばこ)なし     
  ○ 平らになった石の話     
  ○ 無隠元晦禅師石塔のこと     
  ○ 小躍りした木庵禅師     
  ○ 法のためには死を決せり    
  ○ 鉄牛禅師 死の一棒     
  ○ 鉄眼、卍山、公慶の三大願     
  ○ 鉄眼禅師を救った柳の一枝     
  ○ 大事な桜がまた枯れました (1)  路上に投げ出された一文銭     
  ○ 大事な桜がまた枯れました (2)  奉行はあのお武家さん    
  ○ 土地争いに損得無し      
  ○ 大眉和尚の申し出     
  ○ 覚悟の了然尼     
  ○ 法眼和尚と円通和尚の茶屋参り     
  ○ 女ほどめでたきものはなし     
  ○ 高泉和尚と第一義の額    
  ○ これぞ西湖     
  ○ お殿様、法の話しならお寺へ聞きに来られたい     
  ○ 白刃にも驚かぬ霖龍和尚    
  ○ 団扇が色なら空は何じゃ ・ 如来禅と祖師禅    
  ○ 本山を取り壊すのは宮城を取り壊すのと同じこと    
  ○ 年忌の法要は当主の前でのうては      
  ○ 関取と柏樹禅師     
 

 

 
  ○ 鹿苑に莨(たばこ)なし

  これは、隠元禅師の中国時代の話だそうです。
  禅師は大のたばこ嫌いであったといいます。

  今日、たばこを吸う僧侶はざらですが、昔は、決して許されるものではありませんでした。
  ましてや隠元禅師は戒律に厳格でしたから、修行僧の中には隠れて吸うものがいたようです。

  たばこを吸う者は気づかないかもしれませんが、吸わない者には、たばこの臭いはすぐに分かるものです。
  あるとき、隠元禅師が本堂へ来られると、たばこの香りがプーンと鼻をついたようです。

  翌朝、隠元禅師は雲衲を集め、一偈を与えて説諭されたということです。

    一管狼烟呑復吐 恰如炎炎鬼神身
    當年鹿苑有此草 不説五辛説六辛

      〔和訓〕 一管の狼烟 呑み復た吐く 恰も炎炎たる鬼神の身の如し
            當年 鹿苑に此の草有り 五辛を説かず六辛を説く 

      〔大意〕 たばこの煙を吸っては吐く様は あたかも炎に包まれた鬼神のようだ
            今年はどうしたことか この神聖な修行道場にこの草が生えているようだ
             これでは五戒どころか六戒を説かねばならぬな

                                     出典・間宮英宗著「佛教逸話選集」ほか

     

 

  ○ 平らになった石の話

   隠元禅師が45才の年、獅子巌で修行をしておられました。

  その頃、黄檗山からしきりに住持となるように招請があったのですが、禅師は辞退しておられました。 しかし、再三の願いに断り切れず、請を受け入れられる前のことです。

  禅師がいつも修行をされる場所には舟形の側石があり、この石が平らでなかったことから、信者たちは嘆いていました。

  禅師は、 「時節が来たら、きっと平らになることでしょう」 と言っておられ、ある日、石の上に坐り、香を焚きながら大悲咒(だいひしゅ)というお経を三遍読まれて「私の誠が行われ、黄檗山が繁栄するならその証としてこの石はきっと平らになることでしょう」 と祈られ、部屋に戻られたということです。

  翌朝、弟子が「奇妙なことです。 石が平らになりました。」 と禅師に告げにやって来ました。

  そこで、隠元禅師はこの石を 『自平石(じへいせき)』 と名付けられ、 「石は平らかなるにあらず。 我が心誠ならず。 心既に誠あればその石自ずから平らかなり。 既に平らかに且つ誠なり。 我が道其れ行われん。」 と刻まれたということです。 

                                     出典・「普照国師広録」、「隠元禅師年譜」ほか

 
〔注〕    この話の出典は、もともと『黄檗開山普照國師年譜』の崇禎9年丙子(宗祖45才)の項に有ります。 このため、禅師来朝以前に一部の日本僧にも膾炙されていたようです。 従って、京都所司代を勤めていた板倉重宗が普門寺へ禅師を訪ねたとき、この話題が出たことが記録に残っています。

【大悲咒】正式名称は 『千手千眼無礙大悲陀羅尼』 と言う名称のお経で、禅宗では朝夕に必ず読誦される経典。



 

  ○ 無隠元晦禅師石塔のこと 

  この逸話の主人公である無隠元晦(むいんげんかい)禅師とは、豊前の出身で、延慶元(1308)年に中国・元に渡り中峰明本禅師のもとで修行され、嘉暦元(1326)年に帰国後、京都建仁寺の住職となられた臨済禅の高僧です。

  さて、黄檗山の造営工事が始まった頃のことです。 

  現在の黄檗山の境内地は元々、後水尾法皇のご生母でおられる中和門院のご出身である近衛公の別荘地があったところでした。

  したがって開削工事や基盤整備は順調に進んでいました。

  ところが、黄檗山境内地は予想外に広大で、全部が全部、開かれた場所であったわけではなく、当然、手つかずの場所もあったわけです。

  工事は、幕府直轄の突貫工事のような仕事ですから、かり集められた人夫は、手当たり次第に開削していきます。

  多分、大きな塚があったことと思いますが、そんなことも気づかれず、どんどんと基礎工事が進められる内に石塔が一つ見つかりました。

  何か文字が書かれていますが、誰も文字が読めません。 中に字の読める者がいて、読んでみると「無隠元晦」と彫られていたといいます。

  知たり顔のその男は「隠元無くんば晦(くら)し」と、読み下したものです。

  そしてこのことは大評判になりました。

  「工事をしているこのお寺は、隠元禅師という中国の高僧のためのお寺と聞いていたが、ここは開かれるべくして開かれる地であったのだ」と言うわけです。

  ところが実は、この石塔は無隠元晦禅師のお墓だったらしいのです。 

  無隠禅師のことは禅僧の間では著名人であっても世間ではそれほど知られてはいません。 

  仕方が無いと言えば仕方の無いことですが、事情に通じた関係者がこの話を知ったときは、すでに遅しです。

  付近一帯は、きれいに不陸整正され、件の石塔は、大切なものだからと、もと在ったところに埋め戻され、もはや所在すら分かりません。

  直ちに無隠禅師のお位牌が作られ、回向の法要が厳修されたことは言うまでもありません。

  結局、石塔のあった場所は分からずじまいでしたが、言い伝えでは、塚のあった場所は、現在の「有聲軒」から「禅悦堂(食堂)」のあたりであったと言うことです。

  そこで、位牌は僧が毎日使う場所に安置しようと言うこととなり、「禅悦堂」の仏壇に置かれました。

  現在も、山内の僧は、三度三度、読経を唱えてから「禅悦堂」で食事をいただいています。

                    出典・護法第30年第3号、鷲尾順敬著「隠元禅師の盛誉」、本山伝承ほか




 〔注〕
 
【有聲軒】 黄檗山内の煎茶道の茶室。 天王殿に向かって右側奥にある。
【禅悦堂】 食堂(じきどう)のこと。 「大雄宝殿」に向かって右側の建物。  
 



 
  ○ 小躍りした木庵禅師

  木庵性瑫禅師は、「黄檗三筆」と讃えられた能書家です。

  しかし、そんな木庵禅師にもこんな一面があったという逸話です。

  天王殿が建立された時、既に木庵禅師が住持をされていたので、その額字を起筆されることとなりました。

  山門から続く長い参道を歩き続けると大きな階段が待ち受け、そこに参拝客を待ち受けるのが天王殿です。

  それまで、禅師の筆は細書きでした。

  しかし、天王殿の額は途轍もなく大きなものです。

  禅師は何枚か下書きをした後、意を決して一気呵成に書き上げました。  

  書き終わった後、あまりにも快心の作だったので、禅師は「良いかな、良いかな」と連呼しながら天王殿前の長廊下を走り回る狂気振りだったと言います。

  後世の書家曰く。 「なんと雄偉の中に素直さとまろやかさが加わった字であることか」と。

                                                   出典・書家伝承

 
 


  ○ 鉄牛禅師 死の一棒

  仙台・伊達綱村公は鉄牛道機禅師に帰依をされ、禅師のために大年寺という立派な寺院を建てられました。

  そこで祝国開堂というお祝いの法要が厳修されるということで各地から大名や各宗派の尊宿が招かれたということです。

  禅宗のしきたりとして、こうした法要の後には必ず商量(問答)が行われます。 

  案の定、ある僧が問答に進み出ました。 

  鉄牛禅師は、非常に小柄な方だったそうで、大音声で圧倒してやろうとの構えで問いかけてきました。

  お祝いに駆けつけた大名や尊宿が居並ぶ中、鉄牛禅師の力量を試そうとの魂胆です。  

  僧 「乾坤打破の時作麼生」(此の宇宙が崩れ去ろうとするときあなたはどうなされるか。)

  禅師 「蚊子鉄牛を噛む」(その程度の修行でなにを生意気なことを言うか。 蚊が鉄の牛を噛んだようなもので少しも痛痒を感ぜぬわい。 宇宙が崩れ去ろうが本心の自己は、微動だにせんわい。)

  僧 「既に呑了し尽せり」(禅師、貴方は蚊が鉄牛を噛んだと平気でいるようだが、私は既にその鉄の牛を呑み尽くしていますぞ。 ・・・・・・貴方の悟りには負けませんぞ。)

  禅師 「何に依って此の一棒を余し得たる」 (それなら、この棒はどのように受け取るのか。)

  鉄牛禅師は、持っていた拄杖を真っ向から振り下ろしました。 喝を吐くとか、持っている如意や拄杖で相手を突いたり、敲いたりするのは、臨済禅の家風です。

  ましてや鉄牛禅師の機鋒峻烈振りは已に斯界に知れ渡っています。
 
  なのに、相手の僧は油断していたのか、まともにその一棒を受けてしまいました。

  生憎 打ち所が悪かったのか、僧はその場で亡くなってしまったのです。

  固唾を呑んで一部始終を見守っていた伊達家の家臣たちほか参詣者は唖然としました。

  しかし、鉄牛禅師は意に介せず、直ぐさま堂々と引導法語を唱えたのです。  

    紅葉落時山寂寂 蘆花深処月団楽 
    提起向上那一刀 虚空砕成七八片

     〔和訓〕 紅葉 落ちる時  山 寂寂(せきせき)  蘆花(ろか) 深き処 月 団楽
           提起す 向上  那 一刀  虚空 砕けて 七八片 と成る

      〔大意〕 自然界は美しくもあるが淋しくもある その宇宙に対して振り上げたこの一刀をみよ 
          一切差別の大宇宙を木っ端微塵に打ち砕いてしまうだろう
            ・・・・・・この打ち砕いた姿が、即宇宙なのだ

  なんと鉄牛禅師は、僧侶の 「乾坤打破の時作麼生」 の問いの答えを引導法語で示されたのです。

  この話は、禅師の度量の大きさ、臨済禅の棒喝の厳しさを如実に示されたものとして 鉄牛道機の名前は一層ひろまったということです。

                                        出典・「黄檗の教え」伊藤英国発行ほか


 


 
 



 
  ○ 鉄眼禅師を救った柳の一枝

  これは、鉄眼(てつげん)禅師が一切経(大蔵経)全巻開刻の発願をされて全国を勧進行脚をし、江戸からの帰路の話です。

  そんなことを何も知らない盗人は、鉄眼和尚の後を追っかけていました。

  場所は木曽川の渡しであったということだけしか分かりませんが、盗人は、遂に和尚の隙を見て、体当たりするなり和尚の胸ぐらから大切な寄進の金子を取り上げ逃げようとしました。

  和尚は、寄進していただいた大切なお金ですから、きっと体に巻き付けておられたと思いますが、あまりにも咄嗟のことで川へ転落してしまいました。

  和尚は必死でしたが、川に放り込まれてはなすすべがありません。

  木曽川は名だたる急流ですから浮つ沈みつもがいている内に手に当たった柳の一枝をつかんで、ようやく命拾いをしたとのことです。


  それから数年後のことです。

  日本中を行脚する鉄眼和尚の姿は評判になり、一切経の開刻事業も順調に動き出しました。

  版木を彫る場所は、隠元禅師が黄檗山の境内に場所を与えてくださったことから、宝蔵院と名付けそこが拠点となりました。

  然し、全国行脚の拠点とするには、黄檗山のある宇治の地では不便です。

  そこで和尚は浪速の地に拠点を構えられることとなり、昔から難波の地にあった薬師院を復興することとなったのです。

  難波の人たちは、この薬師院の復興にこぞって協力をしてくれることとなりました。

  その中に人一倍協力してくれる竹原という商人がいました。

  和尚はお礼を言おうとその竹原という商人に出会うと、急に竹原の顔色が変わりました。

  と、同時に和尚も数年前のことを昨日のことのように思い出したのです。 

  その竹原とは、紛れもない、和尚から大切な勧進の金子を盗んだあの盗人だったのです。

  お互いにどちらからともなく、声を掛け合いました。 「お前さんはあのときの ・・・・ 」、「鉄眼和尚とは和尚さんのことだったのですか ・・・・ 」

  二人のあいだに気まずい雰囲気の時間が流れました。 

  竹原は、正直にこう話し出しました。

  「私は何をしても失敗ばかりで、あのときやけになっていました。 その時お金をたくさん持っていそうな和尚さんが目にとまり、ついあのような事をしでかしました。 

  あのお金を元手に何か商売をと始めて見たところ、その後は順調で何をやってもうまく成功し、儲けたお金は何か為になることに使おうと思っていたとき、この薬師院復興の事を知ったのです・・・・」

  「やはり悪いことは出来ないものです。 どうか私をお白州へ着き出してください ・・・・ 」

  鉄眼和尚は、竹原の話を聞くうちに気持ちが爽快になってきました。

  「そりゃそうじゃろう。 やはりあのお金には皆の真心が詰まっているからな。」と笑顔に変わっていました。 

  鉄眼和尚は、今は盗人を怒る気持ちもありません。

  こうして薬師院の復興は大いに進み、名を瑞龍寺と改められました。 もっとも、浪速の人たちは、親しみを込めて「鉄眼寺」と呼びました。

  このあと、竹原は、鉄眼和尚の事業になくてはならない協力者の一人となったと言うことです。

 〔追記〕 竹原は「河内屋」を名乗る豪商だったそうですが、その後の消息は不明です。 ただ彼の死後、墓碑は鉄眼禅師墓碑のすぐ近くに建てられたといいます。 それは竹原の希望だったのでしょうか。 
  天和三癸亥年八月二日卒 (これは、鉄眼示寂の翌年にあたります。) 
  戒名は 「天悦即禅信士」 家嗣 甚兵衛敬立
  その子孫は不明だとか。


                                      出典・「禅十二講」、宝蔵派口承ほか


  



 
  ○ 大事な桜がまた枯れました (1)  路上に投げ出された一文銭 

  鉄眼禅師は、一切経開刻の発願以来、そのもっとも効果的な勧進の方法を思案しておられたといいます。

  結局、どのような方法であれ、最後は自分が、一切経開刻の必要性を説いて回るしかありません。

  初め、和尚は京都三条の橋の上で坐禅をし、これと思った人に勧進をお願いしようと心に決めていました。

  しかし、忙しそうに行き交う旅人に声を掛けるというのも中々難しいことです。

  その内、馬に乗ったお武家さんが向こうからやって来ました。

  「お願いです。 今、我が国には一切経の印刷技術が無く、高いお金を出して経本を中国から買っています。 小衲(わたし)は日本人の手でこの印刷のための版木を開刻し経典の全てを印刷したいと思っています。 どうかそのために寄進をお願いします。」

  必死でお願いする鉄眼ですが、武士は見向こうともしません。

  追いすがる鉄眼に、武士は馬の鞭を振るおうとすらします。

  峠を越え、山科へ。 そして何時しか鉄眼は大津の宿場まで追っかけていました。

  「しつこい奴じゃのう。 何故そんなにわしを追っかけてくる。」

  武士は、茶店でお茶を飲みながら鉄眼に聞いてきました。

  「小衲が行なおうとしている事業は、日本中の人のためになる事業です。 だから日本国中を歩いてあらゆる人々から寄進をお受けしたいのです。 しかしそれは大変なことです。 今日がその初日で御武家様がその一人目です。」

  「最初の一人でつまづくようなことでは、きっと今後も続かないでしょう。 どうかご寄進をお願いします。」 

  武士は不承不承一文銭を路上に放り投げました。

  「ありがとうございます。」 鉄眼は、一文銭を押し戴きながら武士の前を去って行きました。

  ・・・・・・・・・・・・ 

  何年か後、鉄眼は奈良の吉野山に来ていました。

  勧進は進み、やっと版木を彫るところまでこぎ着けたのです。

  版木の用材は中国では梓(あずさ)の樹を使います。 それで印刷を仕上げるから「上梓する」と言うのです。

  しかし、我が国では使えるような大きな梓の樹はありません。

  版木はそっていては駄目です。 また節があってもいけません。 簡単に割れては用を足しません。
 
  つまり板目が詰まっていることが必須で、それには柾目取りの板が不可欠です。

  板の挽き方には、「板目」取りと「柾目」取りが有ります。 

  「柾目」取りは、樹の芯を外し、年輪に直角に挽きます。 当然、一コマの材木から少ししかとれず、木の多くが無駄になるのです。

  しかも鉄眼が作ろうとしている版木用の板は、縦26センチ、横幅82センチ、厚さ2センチ程度の柾目板、しかもこれが6万枚は必要です。

  このような板を取るためには、直径65センチ以上の太くて堅い材木が必要です。 

  彼は熊本の出身で樹のことは少しは知っていました。 しかし、自分の大願を叶えるために必要な樹が「桜」しかないことに気づいたとき、愕然としました。

  直径65センチ以上の桜の木、それも大量に・・・・・・。

  今、吉野山の桜の木々を見つめながら、自分の大願の無謀さに躊躇していました。

  この桜の木が使えるなら自分の大願は叶う。 

  しかし、この吉野の桜は幕府の管理下です。 果たしてこの樹の伐採を幕府が許可してくれるのだろうか。

  今、鉄眼は勧進以上に、困難な仕事に直面していたのです。    ・・・・・・<続く>

                                                  出典・宝蔵派伝承

 
    
 


 
  ○ 大事な桜がまた枯れました (2)  奉行はあのお武家さん

 
 桜の木と言えば、今日では誰もがソメイヨシノと答えますが、この樹は鉄眼が在世中は未だ存在していません。

  ソメイヨシノは、江戸末期に江戸染井村の植木屋が交配して作り上げたものと言われています。

  だから鉄眼が見上げていた吉野山の桜はヤマザクラです。 

  このヤマザクラは金峰山寺蔵王権現のご神木であるとされていたことから、修行者が競って寄進し、この頃すでに数万本が植えられていたと言います。

  一方で、管理が厳しく伐採することは許されていませんでした。 

  当時の奈良奉行はその名を溝口源左衛門義勝と言い、実直な方だったことから、これら吉野桜の管理も厳重だったそうです。

  鉄眼は意を決して奉行所へ向かいました。

  「変な僧が参っております。 御奉行へ直々に御願いしたき儀があるとか ・・・・ 」

  取り次ぎの声に、溝口は、その名前から、最近噂に聞く一切経勧進の僧だとぴんときました。

  通常なら、一元客に奉行が自ら合うことなどありませんが、この時は通すように申しました。

  「初めて拝謁いたします。 拙僧は鉄眼と申し、黄檗派の禅僧です。 ・・・・ 」

  旅で汚れた墨染の衣からは汗臭い異臭が漂っています。 

  溝口は顔を合わせ驚きました。 あのとき大津の宿まで自分を追ってきた僧です。

  そう言えば、その時もお経がどうとか聞いてはいましたが、追いすがる僧のしつこさに腹を立て、鉄眼という名前や一切経のことなどは覚えていません。

  ただ、鉄眼の顔だけはしっかりと覚えていました。

  「今評判の鉄眼とは貴方のことだったか。」

  鉄眼も驚きました。 しかし今の彼にとってはそんな過去のことよりも、吉野桜の伐採を許可するよう、何とか都合をつけてほしいのです。

  ひたすら、頭を下げ御願いしました。

  「必要なことはよく理解できます。 が、私の仕事はこの桜を守ることです。 第一、和尚の要望は僅かな量ではないでしょう。 いったい、どれ程を考えておられるのですかな ・・・・ 」

  鉄眼は臆せずに答えました。  「三千本ほどは ・・・・ 」

  溝口は開いた口がふさまりません。

  「和尚は承知しておられるのか。 この山の桜の木がどれ程あるのかを。」

  奉行にとっては、吉野桜を守ることが仕事です。 

  「この山全体で桜の木は三万本ほどです。 和尚様は、その一割を欲しいと言われる。 その木が元に戻るまでには ・・・・ 。 いったい一本の樹が花を咲かせるまでに、どれ程の年月を要すると思われるのかな。」

  溝口は、自分自身がいつになく言葉を荒げていることに気づきました。 と、同時に鉄眼が自分を追って、京都から大津まで追いかけてきたあのときのことを思い出しました。

  彼のことだ、断っても何度も直訴するだろう。 今日は願いを聞くことだけで済まそう。 場合によっては根比べだ、ぐらいに考えていました。

  そう思った溝口は、 「一週間待って欲しい。 改めて回答する。」 そう答えて奥へ引きこもりました。

  自宅へ帰っても溝口の頭から、鉄眼の顔が消えません。 段々憂うつになってきました。

  奥方も溝口の浮かぬ顔に気づき 「何かあったのですか」と尋ねてきました。

  溝口は滅多と仕事のことは口外しません。 しかし、何故か妻に相談してみたくなり、一部始終を話したのです。

  「私にはよくわかりませんが ・・・・  旦那様のお仕事は確かに桜の木を守ることも大切なお仕事ですが、桜の木を活かすことも大事なのでは ・・・・ 。 

  それに鉄眼和尚様の大願は、ご自分のためを思ってやられるのではなく、下々の為にもなることですから、お上もとがめだてたりはなされないのでは ・・・・ 。」 

  一言一言かみしめるように話す妻の言葉を聞いていて、溝口ははっと自分を取り戻しました。

  「そうだ、自分は今日まで誠実に仕事をこなしてきた。 しかし、それは独りよがりであったかも知れない。 本当に領民のためになることとしてやってきたかとなると必ずしもそうは言えない。」

  一週間後、溝口は鉄眼に桜の木の伐採の許可を与えたのです。

  しかも、彼は吉野山の現場で自ら伐採の陣頭指揮を執りました。

  「これと、これと、これを切れ。」 溝口の指図する桜の木は、どれも立派な木ばかりです。

  「えぇーっ、御奉行様、これも切るのでございますか ・・・・ ?」

  周りの人たちは驚くばかりですが、溝口は、あれも枯れている、これも枯れているとばかりです。

  その内、誰もが「御奉行様、大事な桜が又枯れました。」と、同じように伐採するので、鉄眼の必要とする木は、あっという間に集まったと言います。

                                                   出典・宝蔵派伝承

 
 〔注〕  【溝口源左衛門】 奈良奉行 溝口源左衛門豊前守信勝のこと。 『柳営補任』と言う書物には、寛文10戌年2月28日御使番より500石御加増 高2500石 天和元酉年10月22日辞む、とある。


 


  ○ 土地争いに損得無し
 
  
千呆性侒禅師は、即非如一禅師に随従して渡来された方です。

  即非禅師が何処へ行かれても千呆禅師はお供をしていましたが、即非禅師が小倉の広寿山の住職として就かれてからは、千呆禅師は長崎南京寺(崇福寺)の住持を任されることになりました。

  崇福寺は大きなお寺ですから、役僧もいます。

  実務はほとんどこれらの僧が取り仕切っています。

  ある日、隣地と土地の境界のことで厄介な問題が起きました。 奉行所へ訴えるべきかどうか迷うような大きな騒動となってきたのです。

  日常の些細なことなら監院和尚限りで処理するようなことですが、今回ばかりは、そう簡単に済みそうもありません。

  意を決して監院和尚は住職の千呆禅師にどうするべきか相談されました。

  ところが千呆禅師の答えは意外なものでした。

  「あなた方は土地の境界のことでもめていると言うことだが、心得違いではないか。 このお寺の境内地が減れば、隣家の土地が広くなることは分かるが、土地が無くなると言うことではあるまい。 その問題の土地が当山にあろうが、隣家にあろうがどのような違いがあるのか。」 と仰ったのです。

  これを聞いた隣家の人は、大いに恥じ入って主張を取り下げたとのことです。

                                                 出典・神沢貞幹『翁草』 


 
 
 

  ○ 覚悟の了然尼 

  了然尼は幼名をふさと言いました。  

  京都の富豪 ・ 葛山為久 の長女として生まれ、東福門院の孫に仕えておられたそうです。

  17才で医師に嫁がれたのですが、結婚に際し、子供が三人出来たら離婚することを条件にされていたといいます。

  そうして27才の時に離婚をし、出家後は 「了然」 と名乗り、後水尾天皇の皇女・宝鏡寺の宮(久巌禅尼)のもとで黄檗宗の修行をされたといいます。

  33才の時江戸に赴き、最初、著名な鉄牛禅師に弟子入りを請われたのですが、鉄牛禅師はその美貌のために断じて入門を認めようとはされませんでした。   

  やむなく了然尼は、鉄牛禅師と同門の白翁道泰禅師を訪ね入門を懇願されましたが、白翁和尚も同じように「尼僧の容顔美しきは仏道修行の妨げになる」 として拒絶されました。

  途方に暮れた了然尼は、門前の民家で休んでいるとき、妻女が使用している火熨斗(ひのし・こて)が目に入り、それで頬を焼いてしまわれたといいます。

  その後、了然尼は早速下記の詩と和歌を認め、焼けただれた顔で、白翁禅師に再度入門の懇願をされたといいます。

   昔遊宮裏焼蘭麝 今入禅林燎面皮
   四序流行亦如此 不知誰是箇中移

     (和訓) 昔宮裏に遊んで蘭麝を焼く  今禅林に入って面皮を燎く 
           四序の流行 亦た此くの如し 知らず誰れか是れ箇の中に移ることを

     〔大意〕 昔は宮中でお香を焚いていたが  今はこうして吾が頬を焼いている
           四季の移り変わりもこのようなものだ 誰もが一時一時の変転の中にいるのだ
 
   『 生きる世に 捨てやく身やうからまし 終ひの薪と おもはざりせば 』

  とうとう白翁和尚も根負けされ、了燃尼の入門を認められ、黄檗僧・了然元總尼がここに誕生したのです。

  了然元総尼は、5年の修行の後、ついに白翁禅師の法を嗣がれましたが、それを見届けたかのように白翁和尚は示寂されたそうです。

  了然尼は、師匠の恩義に報い泰雲寺という寺院を建立、66才で示寂されたそうです。

  書道や、絵画にも長じた了然元総尼の事績は、山東京伝等の小説等にも登場し、今に語り継がれているということです。 

                                          出典・永田泰嶺著「史実了然尼」ほか


 

 

  ○ 法眼和尚と円通和尚の茶屋参り  

  黄檗第四代獨湛性瑩禅師の法嗣は40人余りいますが、中でも法眼、円通の両和尚はなかなかのしゃれっ気があったそうで二大名僧として知られていたといいます。

  ある日、法眼和尚が 「京の祇園には茶屋というておもしろいものがあるそうな。 話の種に行ってみようじゃないか」 と円通和尚に呼びかけ、二人は出かけました。

  適当に選んだ楼閣に入り込んだ二人は 「ワシは根津の法眼じゃ」、 「ワシは紀伊の円通じゃ、ご主人に御意を得たい」と上がり込みました。

  当然、どこかの乞食坊主が来たと芸妓たちは相手にもしません。

  騒がしいので主人が出てみれば、音に聞こえた法眼、円通の両和尚です。

  「かような卑しい家業の所へようこそお運びいただきました。 どうぞお茶でも・・・・・・」
  主人は、すっかり恐縮しています。

  「時にご主人はとても良い娘子をお持ちになりましたのう。 折角うかがったご縁に三帰戒を授けてやろう。 皆ここへ集まり、手を合わせなさい。」 と如法に授戒を授けられました。
  
  芸妓たちを立ち去らせた後、二人が帰ろうとすると、主人は丁寧にお礼を述べ多少の布施を包んで差し出しました。

  そこで二人は、さらに仏壇の所へ参り読経をしてから帰られたとの事です。

  普通の僧侶には真似の出来ないことで、話題になったとのことです。

                                      出典・間宮英宗著「仏教逸話選集」

    
 〔注〕 【法眼】 法源道印禅師(宗鑑録には法源印。 臨済正伝第三十四世)、円通とは円通道成禅師(臨済正伝第三十四世)のこと。 円通の方が兄弟子である。 法眼は後水尾天皇の第一子とされる。 円通は近世畸人伝には「加賀円通」としてとりあげられ、二人とも豪放磊落であったことが伝えられている。


 


 
  ○ 女ほどめでたきものはなし 

  
  病気になった近江の僧・覚芝廣本和尚は、仲の良い京都の太田見良医師のところで養生することとなりました。

  奥さんがまめまめしく起臥を助けてくれることから、嬉しくなって戯れに一句詠んだのが次の歌です。

  「女ほど芽出度ものは又もなし 釈迦も達磨もひょいひょいと生む」

  この歌、誤って一休和尚の作として伝わったといいます。

  覚芝和尚は、俳句もたしなみ、基角の門人猩々庵原松と交わっていたそうです。

  かつて猩々庵が布袋和尚の図に題して 「小袋に大千入れて花ごころ」 と詠まれたとか。

  和尚は、笑って聞きながら、自分なら 「底抜けの袋に実あり芥子の花」 とするが、と言われたといいます。

                                              出典・「近世畸人伝」


 
 〔注〕 【覚芝廣本】 (1686~1740) 臨済正伝第36世。 東林派。  現滋賀県近江八幡市馬淵の巖倉山福寿寺開山である。
【太田見良】 字資斎、伊予大洲加藤侯の士。 
【猩々庵】 伊賀の人。 
  なお、上記三人は、売茶翁(月海元昭)とも互いに交わりがあったという。



 

  ○ 高泉和尚と第一義の額 

  高泉和尚が万福寺の住職になられたときは、隠元禅師が亡くなられて早くも20年が経っていました。

  和尚は書や詩文に長じ、世間から黄檗文化がまた開いたと言わしめた高僧です。

  丁度、三門(山門)の前にあった総門を建て替えることとなり、和尚はその額字を書くようになりました。

  弟子は一升もの墨をすり準備を整えて待っています。 いくら書が得意な高泉和尚でも、一度で気にいるような字は書けないからです。 

  しかも、たまたま傍らにいた長老の大随和尚が、「これでは第一義に叶いません」 とばかりに 書き上げたしりから破いていくものですから、高泉和尚もしかたなしに書き直されるものの、大随は一向に気に入ってくれません。

  だんだん嫌になってきました。  

  その内、大随和尚が厠へ行かれました。 和尚はそのすきに今一枚と一気に書き上げました。 

  丁度そこへ戻ってきた大随和尚はその字を見るなり、「これでこそ黄檗山の門頭に飾ることが出来ます。」と大喜びです。

  なんと、高泉和尚は、いつの間にか84枚も書いておられたのだそうです。

  この話は、たちまち評判となり、高泉といえば「第一義」、「第一義」といえば高泉和尚と言うほどになったということです。

                                            出典・橘南谿著「北窓瑣談」ほか


  〔注〕 【総門】 建て替えることとなった最初の総門は、日本式建築の長屋門で、松隠堂庫裡入り口の門として移築され、現在も保存されています。 また高泉禅師が建てられた総門は、中国風の牌楼に似せた建築で、「漢門」(別名・唐門)と呼ばれ、ここだけIしか見られないものです。 宗門では、「第一義門」と親しんで呼んでいます。
【大随和尚】 大随道機。 父は、武田信玄公の曾孫で母は片山氏。 二男一女があり、三人とも黄檗僧として出家し、兄は梅嶺道雪の弟子で雲峯冲といい、愛知県に名白寺を開く。 長女は了然元總尼といい、前述逸話の美貌の尼僧である。 大随は次男。 大随自身は、始め南禅寺の英中玄賢のもとで得度し、のち隠元に相見、木庵の印可を得た。 こののち南禅寺塔頭東禅院の住職となったが、しばしば高泉にも参叩し付嘱を受けたが、辞退している。 しかし、英中の勧めでこれを受け、高泉が晋山するに伴い、侍者となっている。 この逸話はその時のもの。




 
  ○ 池大雅と大鵬禅師 - これぞ西湖

  明和(1764~1772年)の頃、唐より来朝された大鵬正鯤禅師は、池大雅を呼んで、東方丈の襖に中国西湖の風景を描かされました。

  大雅がその構想をかたどるとき大鵬和尚は横におられましたが、上方に 峰一つを描き出すのを見られて驚き、「あれは飛来峰と思う。 私はあの国に生まれ、 あのあたりで昔はよく遊んだものだが、このように所違えず描くことが出来るとは、一体この国の人は、どうしてこのように出来るのか。」 と非常にお褒めになったといいます。

                                                  出典「黄檗案内」ほか

    
   〔注〕   この話題の襖絵「西湖図」は現在掛け軸として保存されている。 またその後に書かれた「五百羅漢図」(池大雅画)は、国立京都博物館に寄託保管されている。 
  黄檗宗と深い関わりのあった池大雅は、このほかにも黄檗山のためにたくさんの大作を描き上げている。 


 



 
 
 
 
  ○ 白刃にも驚かぬ霖龍和尚 

  幕末の傑僧として知られる霖龍如澤和尚は、容貌魁偉、眼光人を射てその上に声が大きかったから、近寄りがたいかというと、一度笑えば打って変わって親しみやすい好好爺ぶりで、人気があったといいます。

  和尚は、当時、豊浦(山口県)の万松院に悠々自適されていましたが、、毛利家の本藩主慶親公は一千石の俸禄を以て萩の東光寺住職に迎えようとされました。

  しかし、和尚は一向に動こうとされません。 

  そこで長府藩主元周公を使わされ、再度招請されましたが結果は同じことでした。

  時は、尊皇攘夷の吹き荒れる真最中です。

  元周公は周章狼狽して萎縮するばかりであったので、和尚は、「英雄死を決するは平生にあり (云々)」の詩を作られ一喝されたとかの話も伝わっています。

  このころ、人斬り勘九郎と呼ばれた野々村勘九郎の配下に、剽悍狼のような梶山鼎介というのがいて、土方歳三にも似ているところから有名であった侍がいました。

  若者たちの間では肝試しというのが流行っていて、この梶山は、「ワシが霖龍和尚を驚かしてやろう」とばかりに、或る夜、逢坂の林の中で待ち伏せをしていました。

  霖龍和尚は詩作を耽りながらでしょうか、月光の中を歩いてきます。

  梶山はそこを紫電一閃、袈裟懸けにと抜き身を持って飛び出しましたが、途端に和尚から例の大音声で「馬鹿者ーっ」と大喝一声され、とぼとぼと帰らざるを得なかったとのことです。

  これで収まらないのは梶山。 翌日、万松院の和尚のもとを訪ねました。

  「和尚、昨夜は何の異常も無かったかのう」。

  「何か子犬が衣にじゃれついてきてな」。 和尚は一向意に介さず、茄子や南瓜の育ちのほうを気にされていたとか。
                                
                                                出典・山口県郷土史話
 
    
 〔注〕 【霖龍如澤】 この逸話の数年後、和尚は断り切れずに黄檗山萬福寺第39代住職として進山したが、住山8ヶ月弱で示寂。 世寿79才。 教えを受けた者の中には狩野芳崖等がいる。 
【英雄死を決するは ・・・・ 】 この詩は,以下のものであると思われる。
  送兵士従軍
  英雄決死在平生 百戦何辞百万兵 莞爾跨鞍亂丸裏 相逢敵手是多情
【野々村勘九郎】 (1839~1865)長門長府藩士野々村合左衛門次晋の養子となるが、後に泉十郎と改名。 1864(元治元)年、長府藩寺社奉行・町奉行となり、翌年には改革派とともに報国隊を組織してその都督となるが、俗論派(保守派)と対立し、讒言にあって切腹させられた。
【梶山鼎介】 (1848~1933) 初名は喜代三郎。 幕末-明治時代の武士,政治家。 嘉永元年10月20日生まれ。 長門府中藩士。 戊辰戦争では報国隊軍監。 欧米に留学後,陸軍参謀局などにつとめ明治18年中佐。 その後内務省地理局長,朝鮮弁理公使などを経て衆議院議員となった。 昭和8年3月25日死去。 86歳。

  
 


  ○ 団扇が色なら空は何じゃ ・ 如来禅と祖師禅 

  黄檗山第44代柏樹曄森禅師が若い頃、豊後の養徳寺での結制があった時の話です。
 
  曄森禅師はいつも病室でごろごろしている隣の単の変な男にきづきました。 お前はどこじゃと聞くと、「宇和島だ」といいます。

  その男、玄節といい、いつしか知り合いになって、曄森が「もっと修行して文字法師にならんように」と言ったところ、「それなら如来禅と祖師禅とはどれだけの違いがあるか」と聞いてきました。

  「教えんでもないが、それなら先にお前が一番得意とするお経を講義しろ」 と曄森がいうと、玄節は般若心経を書けといいいます。

  書き上げた心経に玄節が註を入れようとするので、「そんなものはいらん。 今日はこれから如来禅と祖師禅との違いを俺が教えるのだから、お前はどんどん心経の講義をせい」 と曄森。

  周りにはいつの間にかたくさんの修行僧がそれを聞こうと集まってきました。

  講義は進んで、「色即是空」の句に差しかかりました。
 
  「色は形あるもの。 空とは形無きもの。 元来この色空の二つは別物ではない。 二は一にして、一にして二。 故に即の字がある。 ・・・・・・」 と玄節は得意です。

  この時、曄森が、「よせよせ、それでよろしい」 と言うと、玄節が 「よせ、というならよすが、よせばどうなる」 と聞き返してきました。

  丁度、周りにいた修行僧はみな信者から配られた団扇をあおいでいたので、曄森はその一本を取り上げ、「色即是空、『色』の団扇は今ここに持っている。 そっちの『空』をこっちによこしてみろ。」 と言ったら、さすがの玄節もおし黙って暫く考えこんでいます。

  「今まで、お経の講義をして何を調べてきたのじゃ。 そんなことをしているから如来禅とか祖師禅とかの差別ができるんじゃ。 達磨は釈迦の児孫じゃ。 はじめからそんな差別があるもんか。」と曄森。

  玄節は「なるほどそうか。 なるほどそうか。 それで合点がいった。」と喜んだとのことです。

  この玄節、後に禅界にその人ありと知られた不顧庵禾山玄鼓老師です。

                                              出典・高津柏樹著「まあ坐れ」


   

 

 
  ○ 年忌の法要は当主の前でのうては 

  維新直後の黄檗山を誰が担うか、それは宗門にとって切迫した一大事でした。 

  言うまでも無いことですが、当時は、大旦那の将軍家が倒壊し、菩提寺であるご本山はおろか末寺も大騒動だったからです。 

  幕末から維新にかけ、最も大変な時期に本山を守っておられたのは第34代瑞雲悟芳猊下ですが、心労がたたったのか、明治2年、任期途中でなくなってしまわれました。

  この大変な時期、ご本山を救えるのは33代良忠如隆猊下の法嗣の方々をはじめごく少数の方々です。 

  霖龍如澤、独唱真機、萬丈悟光、観輪行乗等がいましたが、みな及び腰です。
 
  結局、後任として白羽の矢が向けられたのは、福岡は柳川の独唱真機和尚で、当時57才でした。

  しかし、任に就いた独唱和尚は第30次授戒を終えると、僅か2年あまりでさっさと九州の江月寺(現みやま市)へ帰ってしまわれました。

  明治天皇からは紫衣と「眞空」の額を拝領されましたが、そんな名利には全く関心が無かったのでしょう。

  未だお年は、60才と言うことで、和尚の会下には観輪行乗、柏樹曄森、道永通昌などそうそうたる雲衲20~30名が集まったと言うことです。

  独唱和尚の日常の指導方法は峻烈を極め、坐香(坐禅のこと)は少なく作務がほとんどだったというのです。

  この作務が和尚の大事な接化時間であったわけです。

  あるとき、堂衆二人を連れて信者の家へ行った帰路、突然どしゃ降りの雨が降り出しました。 

  幸い網笠をかぶっていましたが足下はびしょ濡れです。

  「老師、白足袋が汚れます。」

  雲水の声に、和尚は、草履を脱ぎ捨て「ああそうか」と言って、笠も放り出しそのまま歩いて行かれたのです。

  呆然とした雲水は、慌てて草履と傘を拾い跡を追っかけたとか ・・・・

  また、あるとき、年忌法要に呼ばれて、弟子2~3人を連れてある造り酒屋へ出かけられました。

  読経を始めようとするとこの家の主人がいません。

  「ご主人はどうされたのかな」

  「奥にいますが急な仕事でどうしても出られないので、先に始めてくれということです。」

  これを聞いた和尚は、奥の間へ行き、帳面付けをしている主人に向かって、立ったまま読経を始められたのです。

  「仏間はあちらでございます。」 と主人が言うのを知らぬげに、和尚は最後までそこで読経を続けられたというのです。

  たまりかねた主人は、とうとう帳面付けを辞め、土間に頭をこすりつけたままの状態で法要は終わったというのです。

  和尚曰く。 「死んだ人の位牌の前で読経をするより、生きた人の中の仏様の前で法要をするほうが功徳があるワイ」

  この造り酒屋の主は、和尚の熱心な信者になったと言うことです。

                                            出典・「黄檗文華」第12号



   
   
  ○ 関取と柏樹禅師

  本山の用事で四国に向かった柏樹禅師は、今治波止浜の円蔵寺(現存)で逗留することになりました。

  この時、相撲興行に来ていた陣幕関一行も円蔵寺で逗留することとなり、ひいき筋との酒宴で関取衆と酒を酌み交わすことになったのですが、その中に非常に体格の立派な前頭の大浪(おおなみ)と言う力士がいました。

  ところが、この力士のひいきが柏樹禅師に言うには、「この男は大関にもなれる力を持っているのに、目上に対して臆病というか、どうしても勝てません。 残念なことです。 なんとか禅の妙用によって勝たせることは出来ませんか。」 とのことです。

  これを引き受けた柏樹禅師は、翌日早速大浪関にこの話をしました。

  ところが関取は「相撲道が和尚様に分かるはずがございません」と、取り合いません。

  周囲の者が、「このお方は本山の方で、何でもご存じだからきっと勝てる方法を教えて下さるはずだ。」と勧めるので、遂に関取もその気になって「本当は私も勝ちたいのです。 そんな良い方法があるなら是非教えて下さい。」 と懇願してきたとのことです。

  禅師は関取が赤心から自分を信じてきたと看破したので、彼に問いかけました。

  「お前さんの名は何という」 と聞くと、「大浪です」 という。

  「成る程、良い名じゃ。 しかし、名ばかりではいかん。 真の大浪になる工夫が必要だ。」 と、物我一如(もつがいちにょ)になる方法として坐禅を教えられたものです。

  「今晩、本堂に行って坐禅をするのじゃ。 そして、自分は真の大浪じゃ、本堂の柱も木魚も大波が呑み込むつもりで、ついには自分も忘れるほどに大浪になりきれ」 と教えられたと言います。

  翌朝、朝稽古が始まりました。

  大浪はうって変わったような強さです。 それからというもの、彼の強さは留まることを知りません。

  周りの者は驚き、どうしたのかとあきれるばかりで、彼に聞きただしたということです。

  大浪関がいうには、「始めのうちは気がもうもうとするのみで少しも集中できません。 やはり自分はただの大浪だ、と諦めかけていたところ、ふと手元にあったびた銭に手を触れたというのです。 

  その一文銭について考える内、これも日本国の一部だ、これが集まれば千円にも万円にもなるのと同じで、自分も日本国の男児と生まれた以上、一文銭に負けてたまるか。」 と思うようになったといいます。

  その内、周りのものすべてが 「大浪、大浪」 と思えてきたというのです。 

  朝の太鼓の音までもが 「大浪、大浪」 と呼んでいるように聞こえ、それからは、目に触れる物全てが自分と一体になる心地がしたということです。

  大浪関は、まさに心鏡一如、物我一如の端的を会得したのです。

                                              出典・柏樹禅師著「まあ坐れ」


 
 


 
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