黄檗宗慧日山永明寺HP
 
瓜 頂 和 尚 『 祖 録 』 漫 解 帖

『 一 味 禅 』

                   
    慧極道明禅師口述  
〔解説〕 
  慧極道明
(えごくどうみよう)禅師は、寛永9(1632)年4月11日、山口県萩城下に生れた。 父は小田四郎兵衛、母は岩佐氏という。 
  初め妙心寺派の僧、竺印祖門とともに黄檗僧也嬾性圭(隠元禅師法嗣)の渡来を長崎で待ったが、也嬾が溺歿したため、やむなく隠元禅師法姪である道者超元禅師の膝下で修行した。 
  禅境は大いに進み、「怜俐斑」と称されていたが、隠元禅師が渡来したことから道者が帰国してしまったので、慧極も帰郷した。 
  しかし、十年後、隠元が黄檗山を開創したことを知り、弟子20人を連れて隠元のもとへ掛錫した。 
  この時、隠元は已に松隠堂に退隠しており、木庵性瑫の下で修行している。 
  鉄牛道機、潮音道海と共に「黄檗三傑」と称された。 
  白隠禅師は29才の折、82歳の慧極禅師に参禅している。
  道号: 慧極(旧号・慧班)、法諱:道明(臨済正宗第34世)
  法系: 塔頭聖林院を開き聖林派開祖。 嗣法師: 木庵性瑫(寛文11(1671)年2月嗣法)
  享保6年8月23日示寂。 世寿90才。 遺偈は、『風顛手段 九十年来 虚空落地 大機現前』
  塔所は、河内の大宝山法雲寺
  萩・東光寺、河内・大宝山法雲寺、加賀・献珠寺、慈光寺等を開き、嗣法者は70余人を数える。
  著書に『瑞聖慧極禅師語録』、『慧極禅師東光寺語録』、『一味禅』がある。
  参考書として李家正文著『慧極道明禅師伝』、『緑樹』等がある。

〔凡例〕
○ 原文は、李家正文氏著「黄檗三傑慧極道明伝」(昭和36年大蔵出版発行)に依った。
○ 原文には読点(、)が無く、句点(。)ばかりであるが、読み易くするために、敢えて句読点に変更した。
○ 原文は、文節の区切りもないが、便宜上改行することとした。 なお、片仮名のふりかなも原文通りである。 
  ただし、平仮名で記したふりがなは、管理者が特に付したものである。
○ 読者の便宜をはかるため、段落毎に連番を付し、また便宜上標題を付したが了承されたい。


 
 

 

慧極道明禅師 『一味禅』 目次
 
   解説     凡例 
 1 はじめに   2 坐禅の勧め 
 3 工夫について   4 無味の公案 
 5 純一無雑の心   6 邪見のこと 
 7 好時節  8 誤った見所 
 9 徹底して疑い尽くす  10 邪悪の念に注意 
11  修行が進まない理由   


 
 
1 はじめに

  山僧モトヨリ、 大倭
(ヤマト)言葉ニウトシトイヘドモ、 信心ノ人ノ所望ニヨツテ、 ヤムコトヲエズ、 コノ仮名(カナ)法語一篇ヲ書シテ、 カノ求メニ応ズ。

  ハジメヨリ文段
(モンダン)ヲ揀(エラ)ハズ、 タダ心ノ移リユクママ、 筆ニマカセテ、 ヲボエズ寐寤(ミゴ)幾多(イクバク)ス。

  言葉至ツテ、 拙
(ツタ)ナシトイヘドモ、 ミナコレ、 自己ノ胸襟ヨリ流出(ルシュツ)スルガ故ニ、 幸(サイ)ハイニ人ヲ欺ムクノ語ナシ。

  只
(タダ)諸人ノ見ヤスカランコトノミヲモヘリ。 

  ヨムモノ心ヲ得テ、 言葉ヲ取
(トル)コトナカレ。

  〔大意〕
  小衲は、日本語には疎いけれども、信心の人のたっての希望で、やむなくこの仮名法語一編を書き、その人の求めに応じた次第である。

  始めから、文章の顛末を選ぶこと無く、ただ心の思いつくまま筆にまかせ、知らず知らずに寝ても覚めてもということを何回か繰り返した。

  言葉が極めて拙いものの、みなこれらは小衲の胸の内からほとばしり出たものなので、幸いにも人を欺くような言葉は無い。 

  ただ、多くの人に読みやすいようにと、そればかりを考えた。

  だから、これを読まれるかたは、小衲の心を汲むように心がけ、言葉尻をあげつらわないようにしてほしい。


  


 
2 坐禅の勧め

  ソレ仏法、 端
(ハシ)(ヲゝ)シトイヘドモ、 畢竟坐禅ニ、 スギタル法ナシ。

  坐禅ノ徳タルコト、 持戒精進モヲヨブコトアタハズ。

  コノ故ニ古人モ、 法門広
(ヒロク)シテ無辺参禅第一義、 モシ真(シン)ノ獅子児ナラバ、  他ノ群隊ニ入ベカラズト、 云ヘリ。

  又一時ノ坐禅ハ、 一時ノ仏、 一日ノ坐禅ハ、 一日ノ佛ト、 イヘリ。 

  坐ハ外形
(カタ)チノ閒(シズカ)ニシテ動(ウゴ)カザルヲ云。

  禅ハ内
(ウチ)心ノ静(シズ)カニシテ、 喘(アエ)カザルヲ云。

  カクノ如ク、 内外閒静
(カンジヤウ)ナレバ、 事ニ無心ニ、 心ニ無事ナルガ故ニ喜トシテ、 成就セズト云コトナシ。

 
  〔大意〕
  仏法には優れたことが多いが、つまるところ「坐禅」ほど優れたものはない。

  「坐禅」が優れていることについては、「持戒」や「精進」も及ぶものではない。

  この故に古人も 「法門は広く限りが無いが坐禅こそ第一義である。 もし真の僧侶たらんとするなら、他の法門に入るべきでない」 と言っている。

  またある人は、「一時の坐禅は一時の仏。 一日坐れば一日の佛。」と、言っている。

  「坐禅」の「坐」とは、外見上、静の状態で動きの無い様を言う。

  「禅」とは、内は、心を静に保ちあえがない様を言う。

  この様に、内外ともに静かであれば、事に当たっても無心で当たれ、心も無為自然なため、しこりがとれ成功しないなどということはない。

  
 
   〔注〕  【一時ノ坐禅ハ。一時ノ仏。一日ノ坐禅ハ。一日ノ佛。】 一休宗純作道歌に 『一寸の線香 一寸の佛 寸々積み成す丈六の身 三十二相 八十種好』 がある。




 
3 工夫について 

  工夫トハ隙
(ヒマ)ト云ヘル義ナリ。

  前ノコトク、 内外閒静ナルハ心身ノヒマナリ。 

  ソノトキ余念余事ニ渉
(ワタ)ラズ、 純一無雑ニ本参ノ話頭(ワトウ)ヲ提撕シ、 疑(ウタ)ガヒ来(キタ)リ、 疑ガヒ去テ、 急ナラズ緩ナラズ、 日久シク月深(フケ)テ切切ニツトメバ、 ソノ功(コウ)アヒ積(ツモ)リ、 ツヰニハ、 大疑現前シテ、 行住坐臥打成(タジヨウ)一片(ヘン)トナルベシ。

  若ヨクカクノ如クナラバ、 頓悟成仏ウタガヒナシ。


  〔大意〕 
    
「工夫」とは「隙(ひま)」という意味である。

  前述したとおり、内外共に静かになれるのは、心身が隙だからである。

  その時は余計な考えや他の事柄に関わらず、純粋に本題の話題と取り組むことである。 

  疑いが起こり、この疑いが去り、急ぐでもなくゆったりするでもなく、日が過ぎ月も深まるほどに心を込めて坐禅に努めるならば、その努力は積み重なり、ついには最大の疑問が浮かび上がり、不断にそれだけに専心出来るようになる。

  もし、このようになれるならば一気に悟れることは疑いない。




 
4の1  無味の公案

  本参ノ話頭トハ、 先ニ面面ニ授
(サズ)クル処ノ、 無味(ムミ)ノ公案コレナリ。

  ソノ一二ヲ挙
(アゲ)テ云ヘシ、 古人云、 不是心、 不是仏、 不是物、 是(コレ)(コノ)什麼(ナンゾ)ト。

  カクノ如ク日用四威儀ノ中、 大疑団
(ギダン)ヲ起(オコ)シ脊梁骨(セキリヨウコツ)ヲ竪起(ジユキ)シ、 コレ心ニアラズ、 コレ仏ニアラズ、 コレ物ニアラズ、 コレ個(コノ)什麼(ナンゾ)ト、 打成(ダジヨウ)一片ニ、 工夫ヲナシ、 サテツチニ大願ヲ発スベシ。

  〔大意〕
  ここで取り上げる中心的話題は、先に皆さんに授けたところの「無味の公案」である。

  その一二を例に挙げよう。 例えば、古人は 『不是心
(ふぜしん)。 不是仏(ふぜぶつ)。 不是物(ふぜもつ)。 是(コレ)(コノ)什麼(ナンゾ)』 と言っている。 

  このように日常、行住坐臥に一大疑問心を起こし、脊梁骨を立て、「これは心ではない、これは仏ではない、これは物ではない。 一体これは何であろうか。」 と、坐禅に専念集中、工夫をして絶えることなくこれを解決せずにはおくものかとの大願を持っていくのである。

 
   〔注〕  【不是心、不是仏、不是物 無門関第27則「不是心佛」に 「不是心 不是佛 不是物」 があり、これを「南泉の三句」という。


 
 
4の2

  人身ハウケカタク、 仏法ハアヒガタシ、 今スデニウケ、 今スデニアヘリ。

  コノ身モシ今生ニ向ツテ度セスンハ、 サラニ何レノ生ニ向ツテカ度セント、 ミツカラハゲマシ、 自ラ策
(ムチ)ウツテイヨイヨ勇猛ニアヒツトメテ、 退屈ヲ生セズ、 決定心ヲ具シテ、 スコシハカリモ、 思慮分別ヲ入ス、 タゞ一ヘンニ、 是(コレ)什麼(ナンゾ)ナンゾト、 ウチカヘシ、 クリカヘシ、 今生ヨリ、 尽(ジン)未来(ミライ)(サイ)ニイタルマデ、 サトラズンバ已(ヤム)ヘカラズト、 真実長遠(チヤウヲン)ニ工夫ヲナサバ、 我コノ人ヲ保(ハウ)ス。 

  決シテ悟ラスト云コト有ヘカラス。

  
  〔大意〕
  人身は受け難く、仏法は逢いがたい。 にもかかわらず今已に逢っている。 

  「この身をもしこの生を受けている内に悟れなければ、幾たび生を受ければ悟れることができるのか」、ということばがある。 

  このように自分を励まし、自らにむち打ってますます勇ましく強く坐禅に打ち込み、修行の難しさに負けないよう、仏の助けはきっとあると確信して、少しの思慮分別も入れずに、ただ偏に「これなにか」と繰り返し、この世ばかりかあの世に行っても悟ることがなければ坐禅は止めないと、本心かけてじっくりと工夫をすれば、小衲はこの人を保証しよう。

  決して悟れないなどと言うことがあろうか。

  〔注〕  【人身ハウケカタク ・・・・   中峰明本禅師の『座右の銘』に 『人身受け難し、今已に受く。 仏法聞き難し、今已に聞く。 此の身今生に向って度せずんば、更に何れの処に向ってか此の身を度せん。』 がある。


4の3

  モシ時節イマタ至ラズシテ、 今生ニサトラズトモ来生カナラズ、 一聞
(モン)千悟(センゴ)ノ縁トナルベシ。

  イハンヤ、 今生
(コンジヤウ)日用面(マ)ノアタリ、 千差(シヤ)万別ノ因縁ハ、 解(ゲ)スルコトヲ求メズトモ、 坐禅力(リキ)ニヨツテ、 自然(ジネン)ニ解会(ゲエ)セズト云コトナカルベシ。

  ナンゾ学解
(ガクゲ)情慮(ジヤウリヨ)ノ輩(トモ)ガラト、 日ヲ同(ヲナ)ジフシテ話(カタ)ルベケンヤ。 

  ミナコレ、 自己ノ胸襟ヨリ、 流出スルガ故ナリ。

 
  〔大意〕
  もし時節が到来せずこの世で悟れないということがあろうとも、来世では必ず一声聞いただけで千の悟りを得る縁となるはずである。

  ましてや、現世で日常眼前にする種々の出来事も、敢えて理解しようなどと思わずとも、この坐禅の力によって理解でき無いなどと言うことはなくなってくる。

  以上は、坐禅についてよく理解しわかってくれている友人たちと話し合ったことではない。

  これらはみな小衲の心の中からほとばしり出た思いである。


 


 
5  純一無雑の心

  古人云。 釈迦弥勒ハ、 猶是他ノ奴
(ヌ)。 且(シバ)ラクイヘ、 他ハ是(コレ)阿誰(タソ)ト。

  コノ公衆モ前ノコトク、 一切放下
(ハウゲ)シ、 心裡空索索然トシテ、 少分モ他念ヲマシエズ、 タゞ親切ニ疑ヒ去テ、 他ハコレ是(コレ)阿誰タソ)ト、 工夫スベシ。

  カクノ如ク、 他念ニ渉
(ワタ)ラズ、 純(ジユン)一無雑(ザツ)ニツトメハ、 カナラズ心華(ゲ)頓ニ開クベシ。

  コノ故ニ故人モ、 参禅ハ頭燃
(ヅネン)ヲ救(スク)フガ如ク、 又考妣(コウヒ)ヲ喪(サウ)スルガ如シトイヘリ。

  ソノ余ノ、 アルヒハ死
(シゝ)ヲハリ、 焼ヲハリテ、 何レノトコロニムカツテカ、 安心立命スト云。

  アルヒハ四大分離ノトキ、 主人公イヅレノトコロニカ去ト云。

  アルヒハ誰カコレ、 死屍ヲ
(キ)キタルト云等(トウ)ノ公案、 ミナ右、 両則ノ公案ニ傚(ナラフ)テツトムベシ。

 
  〔大意〕
  古人も言ってるが、釈迦や弥勒もなおこのことについては他人様である。

  だから「これは何者か」と、前にも言ったように全てをなげうち、心の内に何事も感じられなくなるような状態で少しも他の思いを交えず、ただ自分の心のむかうままに「これは何者か」と工夫し続けるがよい。

  このように他のことに想いをはせること無く純一無雑に努めるならば必ず、心は一気に開花するはずである。

  このため、古人も「参禅ハ頭燃ヲ救フガ如ク。又考妣ヲ喪スルガ如シ」といっておられる。

  そのほかの方も、「死におわり焼おわりて何れの所に向かってか安心立命す」と言ったり、あるいは「四大分離のとき主人公いずれのところにか去る」といい、あるいは「死屍を曳きたる」などとの公案もみなこれらの公案に添って努めるべきである。 



 
6 邪見のこと

  一切処ニヲイテ、 工夫ヲナストキ、 第一心ヲモツテ、 悟
(サト)リヲ待ツコトナカレ。

  モシマツコトアレバ、 スナワチコレ迷
(マヨ)ヒナルガ故ニ、 日用迷悟ノ二端ニ渉(ワタ)ツテ、 心ヤスカラズ。

  是行者ノ大病ナレバ、 塵劫ニモサルコトナシ。

  只
(タゞ)(ゴ)アルコトヲ、 信得(シントク)(ギフ)シテ、 邪見(ジヤケン)ニヲツルコトナカレ。

  悟リヲ待ツ心、 ミナコレ邪見ナリ。

  ツヽシムヘシ。 

 
  〔大意〕
  あらゆる所において工夫を行うとき、最初に感ずるところの心をもって悟りだなどと想うことがあってはならない。

  悟りを待つ心があるとするならば、それこそが迷いというものであり、平生、迷いや悟りということに心が向かえば心は落ち着かないものだ。

  こうした想いは修行者の大病でありいつまでも去るものでない。 

  ただ悟りというものがあるということだけを確信して、間違った想いに陥ることがないようにしなければならない。

  悟りを待つという心そのもの全てが邪見である。 

  慎まなければならない。


 
     


 
7 好時節

  凡ソ工夫漸
(ゼン)ゼンニ功(コウ)ツモレドモ、 疑ガヒイマタ十分ニヲコラザレバ、 悟ルコトアタハズ。

  話頭
(ワトウ)(モツ)滋味(ジミ)ニシテ、 鉄ヲ咬(カム)ガ如クニアヒ似テ、 イカントモシ難キトキ、 多クハ退屈ノ心生ジ、 邪見ヲコルモノナリ。

  ソノ時精彩ヲ著
(ツケ)テ、 脊梁(セキリヤウ)ヲ竪起シ、 心ヲカヒカヒシクモチナシ、 第一話頭ヲ放捨セサレ。

  又願ヲ発
(ヲコ)スベシ。 

  コノタビ工夫成就セズンバ、 サラニイツレノ生ニカ成仏ヲ得ント、 イヨイヨ疑
(ウタ)ガヒヲ起シ、 コレナンゾナンゾト、 只一片ニツトメテ、 余念ヲ雑ユルコトナカレ。

  スナハチコレ、 分別モヲヨバズ、 思量モイタラズ、 総ニ理路ヲ絶スルトコロナリ。

  コレヲ好時節ト云。

  コゝニヲイテ切
(セツ)切ニ工夫シ、 久久ニ参究セバ、 カナラズ大疑現前シテ、 得脱ノ期(ゴ)(イタ)ルベシ。 

  預
(アラ)カジメ知ズンバアルベカラズ。

  〔大意〕
  工夫をするにつれて徐々に効果が現れるというものの、疑いの気持ちが十分に起こってこない場合は悟ることなど出来ない。 

  工夫すべき本題など味わうこともなく、轡を咬むような歯がゆい気持ちでどうにもしようが無いときは、多くの場合、怠慢な心が生じ、邪見の心が生じるものである。

  そのようなときは、気を持ちなおして、脊梁骨をたてて、心を元気にし、本来の話題を思い直すべきである。

  改めて願を持ち直し、今度こそ工夫が成就しなければ、いつ成仏できるものかと、いよいよ気をひきしめ、これ何か、これ何かとただひたすら努めて余念を交えることのないようにするべきである。 

  つまり、このところは、分別も及ばず、思慮すらも入らない、全ての理屈を通り越したところである。

  これを「好時節」と言っている。

  この段階で、心を込めじっくりと参究すれば、必ず、大いに疑うべき事が現れ、解脱を得ることが出来る。

  予め知っておかねばならないことである。


   〔注〕   【鉄撅】 撅は橛の誤りであろう。 橛は轡(くつわ)。


 

8 誤った見所 

  邪見起ルトハ。 前ノ如ク。 コレ什麼
(ナンゾ)ト工夫スルニ。 真疑イマダ起(ヲコ)ラサレドモ。 坐禅ノ功。 ツモルニヨツテ。 一旦空空トナリ。 妄念シバラクヤムテ。 心頭ノ涼シキヲ覚ユレハ。 人人多ク歓喜セルナリ。

  コレカエツテ、 塵ナルコトヲシラズ、 錯
(アヤ)マツテ、 本来ノ面目主人公ナドヽヲモイテ、 スナハチ認(トメ)テ、 無心ノ田地トナシ、 彼ノ一等ノ宗師ニ、 見所ヲ呈スルハ、 似タルヲ以テ、 シタシムナラヒナルガ故ニ、 彼ノ師モノシリ顔ニナリ、 ソレヲ印可ス。

  コレヨリ油ラノ麵ニ入テ、 アラエトモヌケザルガ如ク。  

  偶タマ名師ノ説得ニアヘトモ、 曾
(カツ)テ肯(ウケ)ガフコトナシ。

  此輩
(トモ)カラ、 一生ムナシク過スノミナラス、 閻老(エンロウ)ノ鉄棒ヲ喫スヘシ。

  臨終ノトキニイタツテ、 苦ニセメラレ、 心身悩乱
(ナウラン)シテ、 ハジメテ非ヲシルトイヘドモ、 渇(カツ)ニノゾンテ、 井ヲ堀ニコトナラズ、 如何トモシガタシ。

  竟
(ツイ)ニハ地獄ニ堕(ダ)ス。 

  憐愍
(レンミン)スベキモノナリ。

   〔大意〕
  邪見が起こるというのは、前述したように、これは何かと工夫しても、それが本当なのか誤まっているかの判別すらできないにもかかわらず、坐禅をしてきた功績によって、一度、空空とした気持ちになり、妄念もしばらく起こることなく、気持ちが爽やかになった気分がし、多くの人たちは喜ぶのである。

  これはかえって妄想に似た塵のようなものであることを知らず、誤って、これこそが本来の面目である、主人公であるなどと思い違いをし、それこそが無心の境地と思い込んで、彼の一番の師匠の所へ見所を呈するわけであるが、旧知の間柄であるために、その師匠もしたり顔で印可をしてしまうこととなる。

  こうなると油の中に入った麵のようなもので、一旦付着した油を取り去ることなどできようはずもないようなことだ。

  たまたま優れた別の師匠から説得されようとも、聞く耳を持たないこととなる。

  この様な輩は、一生空しく過ごすばかりか閻魔親爺の鉄棒でも喫するべきである。

  臨終の時になって苦しみ、心身惑乱し、はじめて自分の間違いに気づいたとしても、喉が渇いたときになってから井戸を掘るようなもので、どうにもなすすべがない。

  遂に地獄へと落ちるだけである。

  かわいそうなことである。 


 〔注〕  【憐愍】 憐閔。 かわいそうに思う。 『憐憫』 




 
9 徹底して疑い尽くす
 
  参禅ハ。 千里ノ路ヲユクニ。 九百九十九マテユクトイヘドモ。 残ル一理ヲヨキツメザレハ。 ソノ処ニイタラザルガ如シ。 

  廓然トシテ。 徹底疑
(ウタ)ガヒノ破ルゝ処マデ。 疑ガヒ詰(ツメ)ザレハ悟ルコトアタハズ。 

  然ルヲ。 スコシノ修力
(シュリキ)ニヨツテ。 心内シバラク空寂(クウジャク)ニ覚ユルヲ。 スナハチ認(トメ)テ休歇(キウケツ)ノ田地トナス。 

  カクノ如キノ輩
(トモ)ガラ。 タゞ即効(ソクコウ)ヲ求メテ。 本ヨリ法ニヲイテ。 真実ノ志ナキガ故ナリ。 

  一旦生死到来。 自由ヲ得ザルニヲヨンデ。 ヲドロイテ後悔スレドモ。 何ノ益カアラン。 

  アラカジメ知テ。 フカク愧
(ハヂ)。 フカク怕(ヲソ)ルベシ。

 
  〔大意〕
  参禅は、千里の道を進むのに似て、九百九十九里まで行き着いたといっても、残された最後の一里が行詰められなかったら、目的地に辿り着かないのと同じことである。

  心がからりと晴れるかのように、徹底して疑いが消え去るまで、疑い尽くさなければ悟ることなど出来はしない。

  それなのに、少しばかり修行が進んだからか、心の内が少しは晴れたかのように感じたからといって、修行を休んでしまう。

  この様な人は、ただ功を急ぐばかりで、もともと真実の法を求めようとする本当の志が無いといえる。

  一旦、死を前にすれば、坐禅をしたといっても自由な境地など得られていないのだから、驚き後悔しても、その時には今までの成果など何の役にも立たない。

  予めこのことを知って、深く肝に銘じ心がけなければならない。

 〔注〕  【廓然】 心が広く、からりとしているさま。
 【休歇】 休む。 泊まる。


 

10 邪悪の念に注意

  一片ニ工夫ヲナストイヘドモ、 修行未熟ノトモカラハ、 動
(ヤゝ)モスレハ、 他ノ邪悪ノ念ニヒカレテ、 純一ニツトメカタキ者ナリ。

  コノ故ニ古人モ見聞ハスべカラク一度スベシ、 ツゝシンテ二度
(タビ)スルコトナカレトイヘリ。 

  十二時中、 縁二随ガヒ、 物ニマジハルトコロニヲイテ、 邪悪ノ念相続
(サウゾク)セサル様(ヤウ)ニ用心スベシ。

  モシ照顧スルコトアタハスシテ一悪念ヲ起サハ、 カナラズ急
(キフ)キフニ精彩(セイサイ)ヲツケテ、 悪念ヲ翻(ヒル)ガヘシ、 工夫ノ念ニウツスベシ。 
  
  モシカクノ如クナラスシテ、 只管
(ヒタスラ)他ニ随(シタ)ガヒアラバ、 工夫ヲ妨(サマ)タケラルゝノミナラズ、 又是ヲ不丈夫ノ人ト云ベシ。


  〔大意〕
  少しばかり工夫をしたからといって、修行の未熟な者は、ややもすれば他の邪な思いに引ずられ、まじめに修行が続けられないものである。

  このために、古人も 「見聞は一度は経験してみるものだが、度重ねてするものではない。」 といわれている。

  修行中、機会があって修行とは関係のない場所で、邪なことに心が奪われることの無いように用心するべきである。

  もし、我と我が身を省みること無く他事に心奪われ、修行のことを忘れるようなら、必ず急いで、気づき次第、本来の自分に戻って心を翻し、坐禅に集中するべきである。

  もし、この様にならず、心が他に移ったままであるならば、坐禅が続けられないばかりか、この様な人は、しっかりしていない人だと言うべきであろう。

 〔注〕 【精彩】=精采。 美しい彩りや、つや。 生き生きとして元気のあるようす。


 
 

11の1  修行が進まない理由

  今時ノ人、 学道成
(ジヤウ)シカタキコトハ、 病(ヤマ)ヒ何レノトコロニカアル。
 
  ヤマヒ不自信ノトコロニアリ。 

  信心ナキ人ハ人ニシテ人ニアラズ。 

  鳥ニダモ如
(シカ)ザルベケンヤ。 愧(ハヅ)ベクハヅベシ。

  又病
(ヤマ)ヒ。 師ノ教(ヲシ)ヘニシタカハザルトコロニアリ。

  仏モ。 声聞縁覚菩薩トナルコトハヤスク。 師ノ教ヘニ随
(シタ)ガフコトハ難シト説(トキ)タマヘリ。初発(ショホツ)心ノ人ハ。 道理明白ニ分チカタキ者(モノ)ナレバ。 只得(トク)ト不得トヲ管(クワン)セズ。 兎(ト)モ角(カク)モ師ノ教(ヲシ)ヘニシタガヒテ一片ニツトムベシ。

  コレ則ハチ道理明白ナルナリ。

  〔大意〕
  今時の人たちが修行を完遂できない原因(病)は何処にあるのだろうか。

  その原因は、何も信じないということに尽きる。

  信心の無い人は人であって人でないといえる。

  鳥ですらありえないことといえる。 恥ずべきことであり恥じるべきなのである。

  また、その病ともいえる原因は師匠の教えに従わないということにある。

  仏も、声聞、縁覚、菩薩となることは容易いが、師の教えに従うということはなんと難しいことかと経文に説いておられる。

  初めてこの道に入ろうとする人は、物事の筋道すら分からないわけであるから、納得がいこうがいくまいが、そのことは気にせず、兎も角、師匠の教え通りにひたすら励むべきである。

  このような道理は明白なことである。

   
11の2

  又病ヒ。 即効ヲ求
(モト)ムルトコロニアリ。

  転
(ウタゝ)急ナレバ転ヲソキコトヲシラズ。

  又病ヒ。 世智弁聡
(ベンソウ)ノトコロニアリ。

  世智ノ多
(ヲゝ)キ人ハ。 教(ヲシ)ヘ聞トイヘドモ。 難シト説(トク)ハ。 ハヤク易(ヤス)シト心得。 有功徳(ウクトク)ト説(トケ)ハ。 ハヤク無功徳ト心得。 実相ト説ハ。 早ク無相ト心得テ。 事コト品シナ直(ヂキ)ニ聞(キゝ)入ズ。 己(ヲノ)レカ世智ノ如クニ了簡(リヤウケン)シ。 剰(アマ)ツサヘ。 コレヲ一ヲ聞テ十ヲ知ト思ヘリ。 

  コノ人成仏ハシバラク置
(オク)。 

  人道ヲ求ムルトモ成スルコトヲ得
(エン)ヤ。 カタカルベシ。 

  〔大意〕
  また別の原因があり、すぐに成果の現れることを期待することにある。

  先を進むことばかり急ぎ、じっくりやろうとすることを知らない。

  また別の原因がある。 世渡りの才能が強いことである。

  世俗に聡く賢い人は、教えを聞いても、これは難しいことと説けば、すべてを聞かないうちにすべてが判ったように易しいことと思い違いをし、功徳があると説けばすぐに無功徳と思い込み、これが本来の姿だと説けば、すぐさまこれには本来の形など無いと思い込み、事ほどすべてを素直に聞き入れず、これが世間の常識かのような思い違いをし、その上、一を聞いて十を知ったかのような思い過ごしをしている。

  この様な人が成仏できるかどうかは別にしよう。

  ただ、人としての道を成そうとしても成すことは出来ない。 難しいことであろう。

 〔注〕  【世智辯聰】 世俗のことにさかしく利口な様。 世渡りの知恵があり、賢いこと。 仏の正法を信ずることが出来ない八難の一つ。 


11の3

  又病ヒ。 学解
(ガクゲ)ニホコリ。 思慮分別ノトコロニアリ。

  少利ハ大損ト云世話ノ如シ。 

  古人モ。 此鈍根ノ漢ヲ求ムルニ。 竟ニ不可得ナリト大息
(ソク)シタマヘリ。

  マコトニ鈍ナル人ハ世智ナキガ故ニ。 正直ニシテ能
(ヨク)人ノヲシエニ随(シタ)カフ。

  是
(ココ)ヲ以テ。 物コト錯(アヤ)マリスクナク。 成就シ易(ヤス)キナリ。 

  成仏モマタ何ノカタキコトカ是アラン。 

  必竟人ヲ度スベキタメ。 マヅミヅカラヲ度スル修行ナレバ。 ヨクヨク子細ニスベシ。 

  アヤマツテ。 後悔スルコトナカレ。

  〔大意〕
  また別の原因がある。 己の才覚だけに頼り思慮分別しようとすることである。

  少しばかりの利益しか得られないのは大損とばかりに世間並みの考え方である。

  古人も宗教的に才知のにぶい人を探そうとされるが、結局不可能であるとため息をついてしまわれている。

  実際、才知の劣った人は、世間の考えに縛られることがないから、正直でよく人の教えに従うようだ。

  このように鈍根であることによって、物ごとに誤ることも無く、何事も成し終え易くなるようである。

  随って成仏もどうして難しいことなどあろうか。

  詰まるところ、人を済度する為に先ず自分を済度するというのが修行なのであるから、よくよく考えて綿密に修行すべきなのである。

  間違っても後悔することの無いように。

 
〔注〕   【学解】 仏教を頭だけで理解すること。 禅宗では特に実践的修行を重んじ、頭で理解するだけでは真の理解ではないと批判的に用いる。
 【鈍根】 才知のにぶい性質。 特に仏教で、宗教的素質・能力が劣っていること。 ⇔利根。


 

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