黄檗宗・慧日山永明寺HP | ||||||||||||
隠元禅師詩偈 |
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〔解説〕 黄檗宗研究の泰斗である平久保章氏は、その著「隠元」(吉川弘文館発行)の中で、禅師ほど詩作の多い方は例を見ないと記されている。 ここでは、それらの中から、ジャンル別に数首を列挙してみる。 〔凡例〕 ○ 〔 〕書き数字は便宜上付記したものである。 ○ 〔 〕書き数字の後の算用数字は、隠元全集掲載頁を示す。 上4桁は掲載頁、下2桁は何首目かを示す。 |
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《 警 僧 》 |
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〔一〕 153906 153801 |
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僧と為って戒を持た不れば 胡作(なんす)れぞ無碍なると云わん 業(ごう)盈(み)ちて面目更(くわ)わる 甘んじ去って人の債めを還す |
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〔大意〕 僧となって戒律を保たないようなら どうしてとらわれのない世界に居るなどと言えようか 善悪の報いはそれなりにその人に反映される 人としての責めは何時か負わねばならないのだから心するように 〔注〕 雲濤集(153801)では3句目の「業盈面目更」が「業盈換面目」になっている。 |
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〔二〕153802 |
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僧と為って禅を明らめ不れば 口を開くこと狂顛(きようてん)の若し 舌枯(か)れ 眼脱落して 未だ牛頭の鞭(むち)を免れん |
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〔大意〕 僧になっても禅を明らかに出来ないならば 何かを話してもその言葉は狂人が話しているようなものだ 舌も眼も役立たずになったとしてもそれだけで済むものではなく 牛が鞭打たれるのを免れないのと同じ様なものだ |
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〔三〕153806 153907 |
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僧と為って福を惜ま不れば 便ち是れ魔の宗族なり 威徳日に消鎔(しようよう)し 神は呵(か)し并びに鬼は録す |
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〔大意〕 僧となって周囲の人たちに福を授けられないようなら これは魔の集団の一員である 僧としての威徳は日に日に消え 神は笑い鬼は閻魔帳に記録するだろう |
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〔四〕 |
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僧と為って参学せ不れば 猶を屋を穿つ雀の如し 寧んぞ宇宙の閒を知らん 別に沖宵の鶴の有ることを |
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〔大意〕 僧となって学ばないようなら 同じ所をつつく雀のようなものだ どうしてこの深遠な宇宙を知ろうとしないのか 別世界には大空を自由に飛びまわる鶴がいるのに |
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〔五〕 |
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僧と為って骨力無ければ 終日牆壁に椅るなり 一旦眼晴枯れれば 苦しい哉黒漆々 |
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〔大意〕 僧となって気骨がなければ 終日ただ障壁にもたれてぼやっとしているようなものだ ひとたび眼力も失せれば あとは真っ暗闇の世界だ |
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〔六〕 |
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僧と為って品格無ければ 流俗明徳を昆ず 面目觀るに堪え不らん 人天焉んぞ則る可けんや |
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〔大意〕 僧となって品格がないようなら ただ市井の一般人と変わらないではないか いったい僧の面目とは何なのか 悟った人と僧でない人の違いすら分からなくなってしまうではないか |
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〔七〕 |
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僧と為って愛に纏被れれば 笑うに堪えん亦た憐れむに堪えん 俗情割断せ不んば 出格の驢牛を待たん |
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〔大意〕 僧となって愛に振り回されるようでは ただ笑うしかないしまた哀れむだけだ 僧は一般人と違うのだから 情愛を断ちきれないようなら まだ優秀なロバや牛の方がましというものだ |
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《 参 禅 》 |
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127201 |
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参禅に時節無し 悟を以って徹(てつ) 爲(な)ることを期す 生死(しょうじ) 百千翻(しょう) 一刀 便ち血を見る |
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〔大意〕 参禅に時節などあろうはずがない ただ悟りが叶えられるように徹底することを期すだけである 生死を百回、千回と繰り返すほどに 刀を振り下ろせば一刀のもとに血を見るのは明らかなほどに徹底するのだ |
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127202 |
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参禅生死を超え 驀直(まくじき)に当陽に去る 本来人を勘破すれば 渾身生鐵(しょうてつ)を鑄る |
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〔大意〕 参禅は生死を超えたものだ 一直線に日の当たる場所へ突き進ましめる 本来の人間性を看破すれば 満身生身の鉄を鋳るようなものだ |
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127203 |
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参禅は力を得ず 病 死の偏執するに在り 癩馬(らいば) 枯椿に繋ぐ 驢年(ろねん) 草を得て喫せしむ |
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〔大意〕 参禅は力を必要とはしない 禅病は誤った命の投げだしかたにある 病気にかかった馬を枯れた椿の木に繋ぐようなものだ 枯木から自由に離れられるのに参禅の期を失い草を食べるだけだ |
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127204 |
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参禅は直截(ちよくせつ)を貴ぶ 切に忌む邪師に惑わさるることを 一字胸中に入る 千生も救うことを得ず |
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〔大意〕 参禅はためらわずに判断することを尊ぶ 是非とも避けて欲しいことは邪師に惑わされることのないように たった一言の誤った言葉がいつまでも胸に残る そうなれば千回生まれ変わろうが救うことは出来ない |
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127205 |
※は大漢和辞典31132番 |
参禅は※鹵(ぼうろ)有り 卻って紙糊の虎に似たり 踞坐人の驚くことを得るも 一吹すれば骨便ち露わる |
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〔大意〕 参禅を軽々しく扱うものがある よくみれば張り子の虎のようなものだ その姿に人は驚くが 風が一吹きすれば飛んでいくように本来の姿が現れる |
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