黄檗宗・慧日山永明寺HP

永 明 寺 歴 代 住 職


   当山歴代住職の交替は順調に行われていず、不明な時期が多いものの、
現時点で判明する限りの記録を掲載します。

 
 
 
勧請開山
てつぎゅう どうき

鉄牛道機 (1628〜1700) 世寿73才

  長門市に生まれる。 姓は益田氏。 縁あって、鳥取県龍峰寺・提宗慧全について得度した。
  
  隠元禅師渡日の報を聞き、長崎に向かおうとしたが果たせず、後、隠元禅師の弟子であった木庵禅師の弟子となる。(師の提宗禅師は隠元禅師法嗣である。)
  
  修行は進み「紫山の英傑」と称せら、機鋒峻烈さでも知られた。

  鉄牛道機の名は木庵の命名になる。 後、潮音道海、慧極道明禅師とともに「木庵下三傑」と称せられた。

  非常に小柄な方であったというが、千葉県東庄町・補陀洛山福聚寺(鉄牛寺ともいう。)ほか、全国に多くの寺院を開く一方で、椿沼の干拓を指導するなど、社会事業でも知られ、鉄牛の名は津々浦々に知れ渡り、逸話も数多く残されている。元禄13(1700)年8月20日示寂。
 


 

開山(第2代)
 
どくしん にょじゃく

独心如寂 (?〜1681)
  
  出身地等不明。 富士市・福寿山瑞林寺第3代。
  諱は当初「如寂」、後「元寂」。 勧請開山・鉄牛禅師とは長崎以来の法友であったと思われる。

  鉄牛禅師語録「自牧摘稿」には久しぶりに出会った独心に鉄牛が詩を寄せた記録があるが、宗鑑録上では、独心が鉄牛の印可を受けたこととされているので師資の礼をとっていたものと思われる。 

  さらに、独心は、酒塩谷から移転した年に、鉄牛禅師をたずね江戸へ下向しており、天和元(1681)年2月10日、福寿山瑞林寺で示寂したこととなっている。


 

第3代
かっしゅうげんげん

活宗元眼  (?〜1705)

  諱は当初「如眼」、後「元眼」。 福寿山瑞林寺第7代。宝永2(1705)年8月22日示寂。



 

第4代
 かくしゃ げんりん

確車元輪  (?〜1711)

  諱は当初「如轍」。 富士市・神護山法田寺第2代住持の後、当山に入山したものと思われる。
  宝永8(1711)年4月4日示寂。



 

第5代
けいしゅうじょうこう

桂宗浄香
 (?〜1753)

  千葉県東庄町・補陀落山福聚寺第5代。 宝暦3(1753)年3月9日、奈良県喜福寺にて示寂。


 

第6代 永明寺中興
だいてつじょうしん

大徹浄真 (?〜1732)

  補陀落山福聚寺第7代。 浄住寺世代。 享保17(1732)年2月18日示寂。

   この世代の時に酒塩谷から柏原宿内に移転され、山号も「万松山」から「慧日山」に改称された。


 

第7代
たいさん じょうこう

岱山浄香 (?〜?)

  経歴不詳。


 

第8代
だいばいじょうほつ
大梅浄發  ( ?〜1763) 

  元文5(1740)年5月13日入山。 この世代によって当山「入祠堂規約」が作成され、菖蒲原から寺ヶ鼻(現在地)への移転が実施される。 
  千葉県東庄町・補陀落山福聚寺第7代。 宝暦13(1763)年6月3日、群馬県大梅庵にて示寂。



 

第9代
せんぽう えんし

千峰衍止  ( ?〜1761)

  宝暦7(1757)年5月、裏山に高さ約2.4mの多宝塔を建立。 宝暦11(1761)年12月18日、京都・浄住寺にて示寂。


 

第10代
ばんこう えんじゅ

萬江衍珠
  ( ?〜1766)

  明和3(1766)年4月1日、当山にて示寂。


 

第11代
せきじゅにょどん

石寿如鈍  ( ?〜 )

  経歴不詳。


 

第12代
りょうさん にょうん

龍山如雲  ( ?〜1786 )

  
天明6(1786)年12月12日大阪市・生安寺にて示寂。


 

第13、15代
しょうこうにょげつ

照江如月 ( ?〜1813) 

  小田原市・長興山紹太寺第12代。 文化10(1813)年2月24日、彦根市・景徳寺にて示寂。


 

第14代
めいしゅうにょげん

明宗如眼  ( ? 〜1791 )

  富士市・神護山法田寺第5代。 寛政3(1791)年11月24日
、当山にて示寂。




第16代
ばいれいえんえい

梅嶺衍栄  ( ?〜1829)

  小田原市・長興山紹太寺第13代。 享和元(1801)年4月11日入山。 文政3(1820)年11月29日、当山にて示寂。




第17代
 けいしにょけん

敬之如顕  ( ?〜1843

   萩市・護国山東光寺世代。 東光寺世代中には長州藩の多くの人に影響を与え維新改革の思想形成に大きな役割を果たした。 

  黄檗僧では、黄檗山第39代霖龍如澤が薫陶を受けている。

  天保4(1833)年3月開戒の第26会及び天保14(1843)年3月開戒の第27会三壇戒会で、二度羯磨阿闍梨を務めている。 

  天保14(1843)年10月24日示寂。

 


第18代
 とうご にょこう

東呉如江  (?〜1826〜1842)

  長崎の人。 初め津山千年寺の石窓衍劫和尚の下で薙髪し、後、玉傳寺や本光寺に住持する。 その後当山の請拝を受け、文政9(1826)年9月8日登檗して入寺の敬を行い、同月15日晋山開堂した。
  のち、伊達公に招請され、仙台・両足山大年寺第21代住持として入山した。 しかし、病にかかり、宇都宮・慈雲山真福寺に退隠し、天保13(1842)年示寂。 真福寺に塔する。
 語録三巻が有るという。




第19代
ぎょくでん

玉傳○燈  ( ? 〜 )

  経歴不詳。




第20代
だいてんにょしょう

大顛如笑 ( ?〜1843〜?)

  天保14(1843)年3月26日入山開堂。




第21代
えじょう しんかい

慧定真戒  (1784〜1853) 世寿70才

  姓は佐川氏。 三学軒と号す。 蒲生町に生まれ、日野町正明寺・華頂文秀禅師のもとで修行。 香火で読書するなど努力を重ね、24才で華頂禅師の印可を受けたと言われる。

  内外の書籍に通じ、書は王義之に拠る細字を能くしたという。 また詩をよくし、大塩平八郎との応酬もあった。

  華頂禅師の示寂後、上梓される法語集の校正は、慧定禅師が行ったと言われる。 

  天保10(1839)年、正明寺の住持となり、多くの経典を提唱したと言われている。

  弘化4(1847)年3月8日開戒の第28会三壇戒会では教授阿闍梨を務めている。

  嘉永3(1851)年冬、慧定禅師は五個荘町清水鼻の慈恩寺に隠栖し、自ら幻居と称していたが、永明寺四檀家から住持に就いて欲しいとの招請を受け、承諾。 翌嘉永4(1852)年3月20日晋山開堂した。
  この時、50余名の僧侶が参列し、中には曹洞宗・妙応寺(現・岐阜県不破郡関ヶ原町今須)の僧も10数名参列したという。

  嘉永6(1853)年3月8日開戒の第29会三壇戒会で二度目の教授阿闍梨を務めたが、その後微熱を示し、11月には後事を四檀家に託したという。 
  その際、自画讃の「隻履達磨像」(当山蔵)を掛けて拈香のあと、遺偈の代筆を弟子に委ねた後、 『年を歴てこの世に心なかりせば先の世までもそっと一睡』 と言い終え、右脇にして示寂。 世寿70才。 当山と正明寺に塔す。

  世事に疎く、九九を諳んぜず、人の優れた点は大いに讃え、曲がったことは大いに諭したという。 
                                      〔参考「檗林僧傳」、「黄檗文化人名辞典」〕



 
第22代
かいしゅうつうじん

懐宗通仁 ( 1832〜1915) 世寿84才

  明治15(1882)年3月8日開戒の第32会開戒の三壇戒会で、尊証阿闍梨を務めている。

  大正4(1915)年6月21日、正明寺にて示寂。



第23代
せんりんこうだん
栴林弘檀  ( 〜1903)

  姓は北島氏。 明治7年4月30日当山住職を拝命。 のち、群馬県笠懸町、鳳陽山国瑞寺第10代。
  明治36(1903)年12月21日、同寺にて示寂。



第25代

しんりゅうじゃくじょう

神龍寂驤 ( 1832〜1905) 世寿74才

  姓は谷氏。 大津市大鳥居の出身。 20才で印可を受けたと言われる。

  明治5(1873)年大教院に勤務した後、本山に勤務している。

  その後、長崎市・分紫山福済寺第26代住持となる。 さらに各地を巡教し、管長にも選出されたが、任に非ずと辞退し、当山住持に請われて開堂を行う。 この際、「永明寺開堂録」一巻を遺している。

  のち伊吹山松尾寺住持となり、なお美濃加茂の大慈山小松寺の住持にもなったが再度、松尾寺に戻っている。 平常、読書を好み、また書を善くし、文書に長じた。

  明治38(1905)年2月11日示寂。 遺偈に曰く。「快活快活 七十三年 自由自在 七十三年 喝」(画像、遺偈ともに松尾寺蔵)
 塔所、松尾寺。




第26代
そくじょうこうき

即成弘機  ( ?〜1913)

  姓は渓(旧姓・青山)氏。 幼少より懐宗禅師に仕え、その法を嗣ぐ。 大正2(1913)年2月18日示寂。
  書を能くし、歴代の中では比較的在住期間が長く、「毘沙門即成」を名乗る。




第27代
しゅんがいこうてつ

俊崖弘鉄 ( 1877〜1922) 世寿46才

  姓は服部氏。 現・東洋大学の前身である哲学館で学び、「望月仏教大辞典」の編纂事業に当初からかかわったほか、鉄眼禅師の事蹟研究に没頭した。
  大阪瑞龍寺時代には羅漢寺に結社された「廓清会」で『通玄』誌を編集。
  将来を嘱望されたが、横浜市にて関東大震災に罹災し、若くして他界。
  著書に「鉄眼禅師」(鳳林社 大12)、「白隠禅師言行録」(内外出版協会 明43 < 偉人研究 第64編>)、「隠元禅師の大精神」(黄檗山万福寺 大11<真空大師と黄檗>) ほかがある。





第28代
ぎみょうじんしん

義明仁信 (?〜1930)

  臨済正伝第42世。 姓は福島氏。 昭和5年、住職に就任。 




第29代
しんじょう

真浄廣○ ( ?〜1997)

  姓は村田氏。 のち還俗。



第30代
こうせんこうゆう 
光泉廣湧 (1912〜1994) 世寿83才

  姓は住谷氏。 醍醐寺理性院において真言密教を修行後、檗門に入る。 
  臨済正伝第43世。 
正眼寺第14代住持を経て永明寺に晋山開堂。 詩や俳句に優れていた。




第31代 ( 現 住 )
うじょう ちこう
瓜頂智厚
 (1946〜)

   姓は住谷。 滋賀県東近江市出身。 臨済正伝第44世。 宝蔵派。  
   現・慈雲山瑞龍寺住職(通称鉄眼寺、第60代、大阪市浪速区元町1−10−30)、
   兼務・慧日山永明寺(米原市柏原、長松派)、伊吹山松尾寺(米原市上野、緑樹派)第十六代住職。   
   元・黄檗山塔頭宝蔵院住職(第66代)。 
    本山勤務後、現黄檗宗布教師。元宗会議員。
    著書・月刊『煎茶道』誌連載寄稿。仏教雑誌『大法輪』等。   




 



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