朝妻の地は天野川が琵琶湖に流れ込む所にあり、古代から湖上交通の要衝地である。
城跡は現在の中島神社社地とされており、その痕跡は地上では認められない。ただ、小字「向蔵」は地元では”殿屋敷”と呼ばれており、近年まで南北200m東西200mにわたって濠が周囲を巡っていたと言う。この濠は用水路として東面、南面に残存している。
また、中島神社の周囲にも50m×50mの規模で濠が巡っていたと言う。これらの事から朝妻城は複郭の方形平城であったと考えられる。なお、付近には「馬場」の小字名も残っている。
新庄氏は俊名の代に坂田新庄(近江町)に住して新庄氏を称し、蔵人直昌が朝妻に築城した。
直昌の子直頼は浅井氏に属していたが、後に信長に降り、秀吉の馬廻りとなる。直頼は天正十一年(1583)摂津山崎へ移封されており、おそらくこの段階で朝妻城も廃されたものと考えられる。
昭和59年のほ場整備事業により、外堀の部分及び堀よりさらに外側で発掘を実施したが城に関する遺構・遺物は発見されていない。
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朝妻城址の中島神社 |
堀跡の用水路 |
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