竪掘と石塁

 
番場城

米原市番場(旧坂田郡米原町番場)


■創築年

-
■創築者  土肥氏
■形式 山城砦、城館
■遺構 土塁、郭、堀切、石塁、水掘
■別称 殿屋敷城
■標高  200m

 砦跡は中山道を見下ろす、標高200mの丘陵先端に位置し、麓からの比高は100mを測る。

 尾根筋を大堀切で遮断し、最頂部(主郭)の削平地10m×10mと尾根先端の少し低くなった10m×20mの削平地からなっている。 主郭の東西両面に薄く土塁の址も見られる。

 北西斜面に竪堀と土塁が設けられ、北側から斜面伝いに南側へ回り込めないように防禦されている。

この竪掘りの途中に石塁が築かれており(上の写真)、竪堀に対してダムの様な構造となっており、水はけが悪く何の目的で築かれているのか?見当が付かなかった・・・。

 

 

主郭の南に付設する大堀切

城館の削平地の切岸に築かれた石積み

 明治6年の地籍図には、この城の北方100mの地点に方形で「殿屋敷」の記載がある。

 城山の南側の谷に広大な屋敷址があり、虎口の脇には水掘と思われる幅約4mの湿地があり今も水を湛えている。 奥の屋敷址は大きく50m×40m位の削平地が4段程連なり、非常に広大な空間となっている。

 谷合いの地形を利用して、2方は山に囲まれ1方は大土塁化した自然地形に囲まれ前面は水掘りと、まさに鉄壁の守りを固めている。

 削平地間の境にも水掘と石積みが築かれ、領域を明確に区切り、防禦を意識して築かれていた事が伺える。

 

 城主に関しては、立地が番場に近く、在地領主の城と思われ、鎌刃城が鎌倉時代に土肥氏によって築城されたと言われるが、その立地はあまりにも山奥で、在地の城とは考えられず、純軍事的な要素が強い。殿屋敷城こそ鎌倉時代の地頭として下向してきた土肥氏の居城であろう。

 

 

城館址と水掘