宮川の土豪垣見氏の分流の屋敷跡であると見られる。大東の垣見氏の名は、享禄4年(1531)と天文2年(1533)の『総持寺分書』の中に登場する。
遺構は大東町の集落の中心、小字西所地、中所地にまたがって所在する。ここは、最近まで当地の筧氏の屋敷であったが、同氏は中世文書に見える垣見氏の末裔と判断してよいだろう。
大東町には永禄3年(1560)の年記を持つ絵図が伝来している、絵図の成立は、その書体や、石高表示がること等からみて、江戸時代初期くらいまで下げる必要があると思われるが、図中には大東城の景観が非常に良く描かれている。
図と、現状を照らし合わせると、比較的その残りは良好といえ、四方の土塁・堀などはかなり旧状に近い。この大東城の特色は、北と東に二重の土塁・堀がまわっていたことで、さらに西側にも二重の土塁が存在した。
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