応仁から文明年間(1467〜1487)に、柳ヶ瀬秀行が城を構えていた。
近江と越前の国境の重要な位置を占めていましたが、「賤々岳の合戦」時には、越前北の庄から南下してきた柴田勝家の本陣として、秀吉軍と最後の決戦地となりました。
天正十一年(1583)佐久間盛政を先陣に、柳ヶ瀬山に陣を敷いた勝家は短期間に強大な城郭を築きましたが、本丸跡に立つと、この地に勝家が城を築いた理由がよくわかります。東側眼下に北国街道を見下ろし、北には越前境、南は谷間から余呉の町、そして遠く湖北平野の琵琶湖まで見渡せます。
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