小谷山の南北国脇往還道を挟んで、隣接する位置にあり、姉川の合戦後は小谷城守備のため浅井大学之介らが入った。
信長の小谷城攻めの折には、虎御前山と共に最前線の砦として機能した。
現在は北国脇往還道で寸断された形となっているが、当時は小谷山の波状尾根の一部として繋がりがあったと思われる。
山全体には多数の古墳が存在するものの、山頂付近は改修工事が加えられたと思われ、遺構は確認できない。
立地的には虎御前山より遥かに小谷山に接近しており、ここまで攻め込まれたら落城を覚悟させるほどの威圧感があったものと思われる。
|