宇曽川の南側に広がる水田は、佐々木六角氏の命令により、高野瀬隆重が築いた肥田城が有った所。
戦国時代は「返り忠」(かえりちゅう)の世の中。「応仁の乱」後、京極氏にそそのかされた隆重は六角氏にそむきますが、佐々木六角高頼には許されます。しかし、隆重の息子秀隆が浅井氏に誘われ、再び六角氏にそむくと、佐々木六角承禎(じょうてい)(=義堅)は言語道断と自ら肥田城を攻めに掛かります。
永禄2年(1559)5月28日、大雨による洪水で失敗に終わったと言う肥田城の水攻めは有名ですが、堤防が切れたと言われる箇所には「廿八」(にじゅうはち)と言う小字名が残ります。
城は肥田町の北西、安孫子屋敷、勘解由屋敷、丹波屋敷などの名が残る地域に囲まれた山王と呼ばれる辺りから新田にかけてあったといわれ、明治9年(1876)には軍備金と思われる中国銭の入った壷が見付かっています。
南側と東側には集落を囲むように土塁が残っており。南の土塁に沿って外堀と思われる外川が流れます。
村への入り口に有る土塁の切れ目は敵と水を防ぐ為に狭くなっており、村に入ってから道が広くなっています。
特に高橋を渡ってからの広い道は昔のままで、ここでは馬駆けが行われていたということです。
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堀と土豪
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