磯山城は、坂田郡と犬上郡の境界線に横たわる磯山山頂に築かれている。磯山は琵琶湖、旧入江内湖、旧松原内湖に突出した半島状の山稜で、琵琶湖と内湖間に形成された砂州上の浜街道を押さえうる位置にある。
遺構は非常に不明確なもので、切岸の甘い削平地が尾根の稜線に続くのみである。
磯山の南端は数段の削平地が認められる。両者の間には不明確ながら堀切、土橋が数本確認できる。あたかも別々の城であるかのような感が有るが、同一丘陵で隣接しており、周囲が内湖に囲まれている事などから、磯山城と磯山の南端の遺構は同時期に存在した、別城一郭の城であったであろう。
遺構が削平地のみで、他の明確な遺構が殆ど認められないのは、普請が古式の為であろう。
松原弥惣右衛門の城として六角方の城であったが、永正年間に京極家の手によって落城した、その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能していた。
元亀元年(1570)には織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つとなっている。
しかし、『信長公記』では「北の山」とし、『彦根古絵図詿』では「尾末山」と記している。遺構にも元亀年間の織田氏の築城形態は認められない。

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磯山城〜南端間の土橋 |
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