元来「岡山」というが、姉川の合戦時に徳川家康が陣を敷き、戦を勝利した事に因んで「勝山」と呼ばれるようになったと言う。 姉川の合戦場は元亀元年(1570)6月28日、当時の戦国大名である浅井長政と越前の朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍との戦いである。 この年4月、信長が朝倉氏を攻めたのに対し、浅井氏が従来より同盟を組んでいた織田氏から離れ、朝倉氏に味方した事が合戦の原因でした。 浅井軍は浅井町野村付近に、朝倉軍は同町三田村付近に布陣した。これに対して、織田軍は竜ヶ鼻の北西、徳川軍はここから千草町にかけての地域に布陣したと見られる。 戦いは、浅井軍の捨身の攻撃で劣勢であった織田軍にここ勝山の麓に陣をおいた徳川家康が激戦の末に朝倉軍を敗走させ、織田・徳川軍を勝利へ導く事になり、ついには天正元年(1573)の小谷城落城へとつながっていく。 さて、江戸時代以来「流岡神社」が鎮座していたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合祀されている。この「流岡神社」の社伝では、織田信長が戦勝祈願をしたと伝えられている。 境内の大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛び交って枝を折った為と伝えられている。 また、上坂神社には織田信長が金燈籠を寄進している。
|