三田村館

長浜市三田(旧東浅井郡浅井町三田)


■創築年

-
■創築者  三田村氏
■形式 平城
■遺構 土塁、堀跡
■別称 -
■標高  -

  姉川と草野川の間に位置する三田村の集落を中心とする居城で、今の伝正寺が館跡です。四方60m程の敷地を有し、その四方端には今も土塁が残っている。西面は約幅4m、最高値3.5mの南北にのびているもので、寺の正面にあたるやや南寄りに参道入り口が設けられ、参道は鍜状に折れて本道に続いている。鐘楼はこの土塁のほぼ中央にあるやや広めの削平部分に築かれており、参道入り口は虎口跡、鐘楼には見張り台的な施設が存在していたものと思われる。

 北面の土塁は東西21m強だが、かってはこの土塁が東西の土塁と溝口を隔てるまで続いたといい、西端の外側には小さな沼池もあったと伝えている。南面の土塁は最高値2.5m、最大幅5mあり、北西の土塁に対して幅がやや広く低めになっている。この中央やや西寄りに溝口が設けられ、寺内の庭園を経て北東に抜けるため、内堀があったものと思われる。東西の土塁は伝正寺の東にある景流寺・北野神社との境目をなし、北端から35m程南下した所でL字状に5〜7m位寺城側に折れており、更に再び南に折れて南面の土塁と繋がっている。なお景流寺の敷地南面には伝正寺の外溝がそのまま続いているため、三田村一族の屋敷地が伝正寺周辺に群集していたと考えられ、小字北の里・南の里・西の里・東の里はいずれも孫字名に屋敷地の名を残している。

 三田村氏は京極氏の根本被官であったといわれ、無年「清水寺領目録」の中に「三田村郷」の名が見え(大徳寺文書)、当時は湯次上庄に属していた。文明18年(1486)11月草野庄段銭分を知行していた大館政重は当庄の半分を三田村某が押領したと幕府に訴えているが(室町御内書案)、「江北記」文明14年条には三田村某の知行地という草野庄半分の代官職が下坂秀隆に与えられたとあり、京極氏の老臣多賀宗直の反乱に乗じて、三田村又四郎が多賀宗直方に付いた事がわかる(三田村文書)。その後三田村氏は京極高清に仕え明応5年(1496)には浅井直種らと共に美濃斎藤利国の援軍として出兵し(船田後記)、分亀元年(1501)には上坂家信の篭もる今浜城攻めに参戦したが(江北記)、浅井氏勢力の拡大に反感を持つものが出て一族に内紛を生じたらしく、大永5年(1525)、六角高頼が江北に進軍したときに、三田村伊賀守・同与次郎・同彦八・同帯刀左衛門・同五郎兵衛・同八郎兵衛・同七郎左衛門の同名衆7名と、草野・嶋寺・徳山を名乗る土豪5名が六角氏に属している。浅井方に付いた三田村忠政は浅井亮政の娘と縁付いた三田村定頼の補佐役を務め、忠政の子直政は敵方に下った帯刀左衛門の旧領地を賜って、享禄4年(1531)の箕浦合戦で活躍したらしい(以上三田村文書)。また、永正16年(1519)5月付け三田村勝元書状には同氏相伝の地が大路村地先にあったといい(黒田文書)、天文頃には三田村大蔵・同伊予守が井奉行浅井亮頼の命を受ける等、浅井氏治政の拡大と共に重きをなし、天文5年(1536)付け「伊福貴神社奉加帳」には三田村政範、永禄3年(1560)9月24日付け門池吉信書状には三田村伊予守(総持寺文書)、永禄9年推定の「蒲生野陣立書」には浅井方第5番の守蒋と言う三田村光頼の名が見える(山中文書)。当城の城主と言う三田村左衛門は今井定清と縁籍の関係にあったと「嶋記録」にあり、元亀元年織田信長が攻めて来たときは、横山城の城守を務めていたと「信長公記」に見える。姉川の合戦後は小谷城中ノ丸の篭もっていたが、同3年8月27日秀吉を通じて降参したものの、討伐されたと「総見記」は伝えており、姉川合戦のよって当城は廃城となった。

 伝正寺は三田村城の本丸的な存在であったと考えられ、朝倉景健が本陣を当寺に置いた可能性は高く「佐々木南北諸士帳」には三田村左衛門大夫氏光、同相模守、多賀備中守が居住したと伝える。