宮部城

長浜市宮部(旧東浅井郡虎姫町宮部)


■創築年 -
■創築者  -
■形式 平城
■遺構 -
■別称 -
■標高  -

 秀吉の臣宮部継潤を出した宮部氏の城館址である。継潤は湯次神社(浅井町湯浅)の社僧善浄坊清潤の養子で、比叡山で修行した後その後を継いだと言われる。また、宮部継潤は文明の頃『親元日記』に湯次下庄の庄司としてみえる善祥坊全潤の後裔として考えられる。『東浅井郡志』

織田信長の浅井攻めに際しては、元亀3年(1572)9月頃、虎御前山と横山の連絡を蜜にするため、信長側にょって改修が加えられている。『東浅井郡志』には、「是まで宮部城は、善祥坊の第館に遶すに土墩を以てせるに過ぎざりしが、今や新たに城濠を穿ち、五百川の水を引き之に湛へ、以て要害を堅固にせり。因りてその地を今尚木戸川と称す。」と述べている。

なお、信長は宮部城の改修と同時に、虎姫山より宮部まで軍道を開いたと言われる。『信長公記』には、「虎姫山より宮部迄路次一段あしく候。武者の出入りの為、道の広さ三間間中(三間半)に高々とつかせられ、其へりの敵の方に高さ一丈に五十町の間築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せ付けらる。」とある。現在宮部と三川を結ぶ道の内、宮部の小字溝跨、西林の2町分は、条里制の坪を斜めに横断する形で道が付けられている。これはこの軍道の名残ではないかと思われている。