物生山は佐和山城の山塊の北端部、宮田町物生山の西背後の山上にありますが、ここに城跡が有るとの記録は見当らないので、物生山城とはあくまで仮称である。
西方に続く城域には佐和山からの尾根と主郭を遮断する為に 3箇所の堀切を設けています。
主郭を中心に3方に放射状に広がった縄張りであり、西方に伸びた城域は尾根伝いに佐和山城まで、非常に整備された、ハイキングコースとして続く。このハイキングコースの距離は約1.7kmあり、多少起伏はあるものの道幅も約1m程あって歩き容易いものであった。
物生山城の堀切を最後に佐和山城の西の丸の北側の大堀切までの間に防御施設は一切見当たらなかった事から、物生山城は佐和山の城域の一部であろうとの説もうなずける。
元亀元年(1570)の7月1日の織田軍が佐和山城攻撃に際して、『信長公記』に「北の山に市橋九郎右衛門・・・・、四方より取詰めさせ」とあることにより、市橋氏の砦とする所であると見方できる。
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西方の土橋と堀切@ |
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西方の土橋と堀切A |
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