大字長沢の旧国道8号線東側の家並みの一画に比定する。この地域は南と北にそれぞれ幅1m弱の水路に挟まれ、東は水田により区画されている。同字に残る明治時代に描かれた『熊野神社絵図』には、北国街道(旧国道8号線)の東、街道に面した帯状の一帯を「長沢の関」としている。確かにこの地域は地籍区画に乱れが見られると共に、南北双方の水路や、民家の間の通路が変形をきたす等不合利な要素が伺える。その規模は東西約50m×南北約100mの帯状であり絵図に描かれた状況に近い。
長沢の関については資料不足であるが、『下坂文書』には天正13年(1544)京極高広が下坂左馬助に対し長沢関攻撃の戦功を賞することが記されているが、これは天文11年に浅井亮政逝去していらいの京極高広の攻動の一環として受け止められる。言い換えるならば当時の長沢の関は、浅井氏の統括する機関だったということになる。
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