慶長6年(1601)関が原の合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が着工し、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。別名を雲浜城とも呼ばれる。
海と川とを取り合わせた要害の海岸城で、平地城としては慶長初期であり古く、石垣の慶長積みは特色である。
京極高次の子忠高に至る三十三年間の間に城の大半を造り、寛永十一年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭十一万三千五百石の藩主となり、天守閣の造立てに着手、寛永十九年(1641)四十余年の歳月をかけて小浜城は完成させた。
以来、酒井家十四代、二三七年間の居城となり、廃藩置県を迎える。
京極氏の後は寛永十一年から明治四年(1871)まで酒井氏十五代二百六十年間の居城であった。
明治四年十二月この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく改造工事中二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失し、現況は本丸の石垣を残すのみとなった。 |