小浜城

福井県小浜市城内1丁目


■創築年 慶長6年(1601)
■築城者 京極高次
■形式 水城
■遺構 掘切、石垣、郭
■別称 雲浜城
■面積 

城地総面積:62、492u

本丸面積:10,347u


 慶長6年(1601)関が原の合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が着工し、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。別名を雲浜城とも呼ばれる。

海と川とを取り合わせた要害の海岸城で、平地城としては慶長初期であり古く、石垣の慶長積みは特色である。

 京極高次の子忠高に至る三十三年間の間に城の大半を造り、寛永十一年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭十一万三千五百石の藩主となり、天守閣の造立てに着手、寛永十九年(1641)四十余年の歳月をかけて小浜城は完成させた。

  以来、酒井家十四代、二三七年間の居城となり、廃藩置県を迎える。

 京極氏の後は寛永十一年から明治四年(1871)まで酒井氏十五代二百六十年間の居城であった。

明治四年十二月この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく改造工事中二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失し、現況は本丸の石垣を残すのみとなった。

現在の本丸跡は小浜神社となり、藩祖酒井忠勝公を祀っている。

酒井忠勝公=天正十五年(1587)六月十六日生

         寛文二年(1667)七月没

忠勝公は徳川秀忠、家光、家綱の三代に歴任し、大老職に居り、徳川幕府三百年の基を作った。常に江戸幕府に出仕し、小浜城に帰ったことは十数回で、延べ九ヶ月程だったと言う。

   

 常高寺にある常高院墓所

 常高院栄昌尼は若狭領主、京極若狭守高次の妻のお初の方で、浅井長政を父とし、織田信長の妹お市の方を母として小谷城(滋賀県浅井町)に生まれた。姉は豊臣秀吉の側室淀君であり、妹は徳川二代将軍秀忠の妻小督である。

 京極高次の没後、常高寺を建立してその菩提を弔い、寛永十年(1633)八月二十七日(67歳)江戸で没し、この地に葬られた。