小谷城は長浜平野の北東隅に突き出した伊吹山系の一支脈である小谷山に築かれていて、浅井三代の居城であった。
背後に伊吹山系の深山幽谷を控え、前面に丁野山・山脇山・虎御前山・雲雀山のなどの小丘をもつ自然の要害であるうえ、城郭の築かれている最頂部大嶽から南西に馬蹄形にのびる尾根は、断崖絶壁であって、鉄壁の守りとなっている山である。
交通の面においても枢要の地であり、越前と美濃を結ぶ北国脇往還があり、南には戦国時代の大動脈・中山道が、西には中山道から分岐して越前にむかう北国街道が、更に背後の伊吹山系の山中には、越前や美濃への間道が張り巡らされている。
織田方のもう攻撃により、天正元年(1573)八月二十八日小谷城は落城し、浅井家は滅びますが、長政とお市の方の間に生まれた三人の娘、お茶々(秀吉の側室・淀殿)、お初(京極高次の正室)、お江(徳川秀忠の正室)となり浅井家の血は後世へ受け継がれたのである。
浅井三代の墓 脇坂甚内安治屋敷 小谷城絵図 小谷城の隠れた遺構を検証
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虎御前山砦から望む小谷城 |
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大石垣 |
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小谷城案内図-クリックすると拡大します |
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