大嶽城

東浅井郡湖北町伊部


■創築年

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■創築者  -
■形式 山城
■遺構 土塁,石垣
■別称 -
■標高  495m

 小谷山の最高所を占める立地条件と土塁等の風化の程度、及び曲輪間の縄張りや普請の技法に鋭さがかけるなどの条件から推して、浅井氏初期の構築にかかるもの思われる。長政の時代になってからは、小谷山の西半部に拡がる各尾根筋からの侵入に備える要的機能を持っていたと思われる。周囲の曲輪の配置状況からも下山田・丁野・美濃山方面を警戒していることが分かる。

特に西方面(下山田、丁野)への防禦については、2連の大堀切が築かれている。

1連目はの堀切は高さ約8m幅5m、2連目は高さ4m幅4mもあり、非常な強固さを誇っている。

 しかし、大嶽より六坊に下る尾根筋に残る多数の曲輪郡については疑問が残る。本来この方面は敵の侵入する可能性が低いはずであるにもかかわらず、比較的小規模ながらも、90か所近くの曲輪が、山王方面に対峙して配置されている。恐らくは、天正元年(1573)8月12日、織田軍による大嶽占拠より27日の本城への最後の攻撃を控えて、2週間ばかりで急造された織田方の「向い城」と思われる。

 

小谷城絵図