応昌寺城

伊香郡西浅井町塩津中・野坂


■創築年

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■創築者  -
■形式 平山城
■遺構 土塁・郭
■別称 -
■標高  146m
■面積 500m×120m

 城跡は塩津小学校の南に面した標高146mの小山で、頂部一面公園施設になっている。

山の西麓の”応昌寺”には「元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があるが、このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構が有ったのではなかろうか。

 応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に祀られている。

応昌寺

 

 

一休和尚の師の墓