佐野城

長浜市佐野(旧東浅井郡浅井町佐野)


■創築年

-
■創築者  佐野弾正恒種
■形式 平城
■遺構 土塁
■別称 -
■標高  -

 七尾山西麓の佐野の地に推定できる平城で、姉川中流域北岸で北国脇往還の西側に位地する小字轟内に佐野氏の居城。付近には現在「轟神社」があり、同社とその西に接する浅井南小学校旧地、及び現在佐野氏の畑地部分に土塁が確認でき、姉川に平行する形で残っている。学校跡地の土塁はプール敷地の手前から旧運動場の西面端に沿った南東から北西にかけて約50m続くもので有ったらしいが、今は削り取られて跡形もなくなっている。

 このプールの裏はかって沼地であったと言われ、堀の一部であったと思われる。

 佐野氏の畑地に残る竹薮は南北24m、東西30mのL字状をなす土塁であり、東西の土塁は更に東方にわずかな盛り土として15m程続く。最大8.5m最高地1.6mの土塁は保存状態も良く、その外にある水路は恐らく堀の役目を成していたのであろう。

 当城は弾正屋敷と呼ばれ、浅井氏に仕えた佐野弾正恒種の居城で有ったと思われる。

天正期には、木下秀吉に仕えたと言う「佐野市次郎」がおり、佐野城は信長が元亀元年(1570)横山城を攻め落とした時点で廃城となったと思われる。

 東に接する南池には旧六角方の伊庭氏一族がいたらしいが、伊庭氏の本拠能登川町伊庭の東方に佐野の集落があり、当地の佐野氏も旧六角方であったとも考えられる。