佐和山城

彦根市佐和山町


■創築年

建久年間(1190〜1199)

■創築者 

佐保時綱/石田三成

■形式 山城
■遺構

石垣・土塁・本丸・二の丸・井戸

三の丸・太鼓丸・腰郭

■別称 佐保城
■標高  232.9m
■面積 1100m×600m 

 佐和山城は松原内湖に面した独立丘の佐和山山頂に築かれ、大手道は鳥居本に面している。中山道と北国

 関ヶ原の合戦で敗退した石田三成に代わり、井伊直政が入城したものの、慶長11年(1606)には、その子直勝により彦根城が築かれ、幕府及び井伊家によって石田色を一掃しようとしたため、石垣や多くの遺構が破壊されたが、比較的旧形状は保存されている。

 城は佐和山の最高所に本丸を配し、北側に二の丸、三の丸を配しており、大手に面している。

本丸の南には鐘の丸がありその西南には太鼓丸が続いている。この鐘の丸、太鼓丸には城内幹線とも言うべき切通しが有る。

 佐和山の南麓(搦め手)には石田屋敷をはじめ重臣の屋敷跡が続き、百間橋を通じて松原内湖を渡って彦根山寺に通じている。

 一方、大手の大部分は田園に変わっているが、大手門の両側の土塁が良好な形で各70mに渡って残っており、更にその外側には12m幅の堀が残っている。そして、この大手門の東250mには中山道が通っている。

大永年間(1521〜1528)には、佐々木定頼の命により小川左右大輔が城主となった。

 京極氏に代わって湖北の雄、浅井氏が台頭し、その将磯野伊予守員吉、その子員昌が入城し、元亀ニ年 (1581)〜元亀三年(1582)に掛けて織田軍と戦っい、ついに開城するに至った。

 本能寺の変後、秀吉は当城の良好な立地条件を踏まえて、天正十一年に堀 秀政に五万石を与えて守備させている。その後は激しく城主が変わり、天正十三年には堀尾吉晴が、同十八年には石田三成が十九万石をもって城主となっている。三成は改めて城を整備し、城下には善政を施していた。

二の丸北端の大堀切

二の丸東面直下の郭から望む二の丸の切岸

石垣 千貫井 太鼓丸の土塁 西の丸の土塁 大手門の土塁