真言宗智積院末寺の神照寺のある所で、北端と西端に中村川が流れる。また、条里制施行以前と思われる真北の地割に沿って四方約300mの寺域を有し、当字は寺域の北西に位置している。
当寺は観応2年足利直義を討つべく足利義詮の布陣や尊氏の宿泊があり、天文7年には京極高慶と京極高広の対立の時高慶が在陣し、浅井亮政は京極高延を擁して一時当寺に滞在している。また、京極高清の父持清は嫡子勝秀の菩提を弔うため田地を寄進し、その後元亀頃に織田信長によって焼かれたが、羽柴秀吉が寺領を安堵し江戸初期に再興された。
当地は寺の要塞化したもので、中村川を堀とし、この川の内側に北面東西80m・西面南北60mにわたってわずかに土塁が残っている。南面のはこの土塁に続く土盛り跡が現在の内門前から稲荷神社横にかけてもあったといい、かって参道沿いにあった池は、東側にコの字形の大きなものと西面に二つの計三つと伝える。明治期の絵図によれば、神照幼稚園の東方で熊野神社参道の延長上に外門があったとしており、中村川から分かれたなまず川が熊野神社や般若院を取り囲んだ内堀と、鬼川とその引水路を利用して外門の外側に巡らせた外堀の二重堀が有ったと考えられる。なお、当寺の住職は無量寿院学頭職が兼務し、当時は御室御所の別院であったとする。
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