枝折城は米原町枝折の小字造座にあります。
”造座の地蔵さんを上がった所”(字の東南)が遺構になりますが、今では草と雑木林の覆われ、わずかな遺構が残るのみである。
枝折城主は土肥六郎左衛門實勝で、鎌倉頼朝公の家臣、土肥次郎の末裔で、箕浦庄の地頭として下向した御家人でした。番場、多和田、醒井に分住し、箕浦の三土肥と称しました。
現在も山手の方に『土肥八人衆』と呼ばれる家臣直系の家があり、お正月には八人が集まり、お伊勢参りをされる等、交流を深めておられるとのこと。
殿屋敷、隠居屋敷と呼ばれる大きな家もあり、枝折集落に面影が残ります。
集落を見下ろす背後の山に築かれた枝折城は、その構造も大変コンパクトであり、典型的な在地領主の「詰城」と考えられる。
【土肥八人衆、土肥八軒衆】
枝折集落の南方で正福寺付近の能勢様のご主人は当城山の持ち主でもあり、城山にも詳しく、登山道について事前にご説明頂きました。
お陰で城跡には、迷う事無くたどり着いたのですが、夏と言う季節がら蜂に襲われ逃げること多々あり、おまけにお城めぐりを始めて以来初めて、目前7mに鹿が現れた・・・!鹿でよかったが、自然の恐怖におののいて、早々に引き上げる結果となった。
土肥氏は関ヶ原の合戦で西軍に属し、敗退後は中国地方に逃げ落ちた。残された家臣8人は、枝折に残り今も多くの末裔が字内に住まわれている。
『土肥八軒衆』とは・・・能勢氏、野瀬氏(2件)、堀氏、江竜氏(2件)、百々氏、池田氏 計8氏(軒)
|