賤々岳砦

伊香郡木之本町大音


■創築年

天正十一年(1583)
■創築者  桑山重之
■形式 山城
■遺構 削平地、堀切
■別称 -
■標高  423m
■面積 -

 明智光秀の滅亡以来、破竹の勢いで名を上げる豊臣秀吉ならびに織田信長の一の家臣であった柴田勝家との確質は日ごとに高まり、天正十一年(1583)柴田勝家軍の先鋒佐久間盛政が柳ケ瀬山に陣を築くと、それを伝え聞いた秀吉は五時間で大垣から木之本へ駆け戻ります。

 そして賤々岳での両軍最後の決戦の火蓋が切って落とされました。

秀吉側には『賤々岳の七本槍』で有名な福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則をはじめ、大岩山山中で討ち死にした中川清秀や丹羽長秀などの勇将が並び、一方勝家軍には佐久間盛政をはじめ、勝家の身代わりとなって主君を北の庄へ逃がした毛受(めんじゅ)兄弟、横山長隆などの働きが目覚しく、賤々岳から余呉湖の周辺は、激しい戦いに辺り一面が血の海となったと伝えられる。

この戦いで敗れた勝家は、越前北の庄でお市の方とともに自害し、

北端に築かれた堀切と土橋

賤ヶ岳砦北面の大防禦線の大堀切

一方勝利した秀吉は信長の跡を継いでついに天下を取ることとなりました。 合戦には桑山修理亮、羽田長門守が布陣。

賤ヶ岳砦北面の大防禦線 New!

 賤ヶ岳砦は賤ヶ岳の合戦の折、柴田軍の砦と尾根続きであり、、砦から見て北面に対する何らかの防禦線を構えていると思われます。縄張り図の範囲では上記↑北端の掘切までしか明記されておらず、あれだけの大合戦に対する防禦としてはあまりにも貧弱と感じてきました。

 2003年春にこの尾根筋を探査したところ、砦から北へ約500mの所に、最前線の防禦として相応しい規模の、切り通し(アチラ坂峠)を加工した大堀切が築かれているのを発見!深さ約20m×幅20m、北近江では最大規模であろうと思われ、佐久間盛政軍が大岩山城を攻めた時に、余呉湖畔のルートを選択した謎も解けました。