明智光秀の滅亡以来、破竹の勢いで名を上げる豊臣秀吉ならびに織田信長の一の家臣であった柴田勝家との確質は日ごとに高まり、天正十一年(1583)柴田勝家軍の先鋒佐久間盛政が柳ケ瀬山に陣を築くと、それを伝え聞いた秀吉は五時間で大垣から木之本へ駆け戻ります。
そして賤々岳での両軍最後の決戦の火蓋が切って落とされました。
秀吉側には『賤々岳の七本槍』で有名な福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則をはじめ、大岩山山中で討ち死にした中川清秀や丹羽長秀などの勇将が並び、一方勝家軍には佐久間盛政をはじめ、勝家の身代わりとなって主君を北の庄へ逃がした毛受(めんじゅ)兄弟、横山長隆などの働きが目覚しく、賤々岳から余呉湖の周辺は、激しい戦いに辺り一面が血の海となったと伝えられる。
この戦いで敗れた勝家は、越前北の庄でお市の方とともに自害し、
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