西端の尾根筋に築かれた大堀切

 

玉城

岐阜県不破郡関ヶ原町玉


■創築年 -
■創築者  不明
■形式 山城
■遺構 土塁、掘切、竪掘、郭
■別称 -
■標高  307.5m

 『岩手明泉寺記録』には、「玉城 浜六兵衛 弘治年中(1555)より岩手竹中家臣杉山内蔵之介」とある。浜六兵衛に付いては全く不明である。杉山内蔵之介は竹中家臣であるから、玉城主となったのは、永禄元年(1558)に竹中氏が岩手に移ってから以後の事と見るべきである。

 玉の城は江濃境目の要害で、戦国期にはしばしば重要な拠点と成ったであろうが、史料にその記述は殆ど見られない。

 山頂に北東〜南西に約150m北西〜南東100mと長細い削平地を築き、削平された規模としてはかなり広大なものである。

 防禦遺構は、南〜西〜北に掛けて、一定のピッチで竪堀を築いき、尾根続きの西面に対しては土橋を付設した大堀切で処理されている。

 古式の切込みの甘い防禦や削平部分に対して、西端面の大堀切とその周辺に配された竪掘は非常に明確で、後で改修された事が伺える。

西北の竪掘

 

 

これら防禦の方向から、竹中氏と浅井氏がこの境目で対峙していた時期の、竹中氏の最前線の境目砦であったのではなかろうか?玉城の西には谷間を挟んで浅井方の長比城が築かれている。

 その後、浅井氏は玉城を超えて、一気に松尾山城まで勢力を拡大し、玉城の必要性が無くなったものと思われる。 関ヶ原の合戦でも利用された形跡は無く、境目の城で有りながら、位置的には中途半端な城郭だったのであろう。