山本山城

東浅井郡湖北町山本


■創築年

平安時代末期
■創築者  山本義経又は父義定
■形式 山城
■遺構 本丸、二の丸、三の丸、土塁、竪堀、掘切、土橋、帯郭、虎口
■別称 阿閉山城
■標高  324m

源義家の弟、新羅三郎義光の流れを汲む清和源氏の一族が近江を本拠として十五代続き『玉葉』には、治承四年(1180)山本義経(義経二人説の一方として知られる)の本拠地を平知盛・資盛が攻撃したことが記されています。源氏の旗揚げとともに、平氏打倒の挙兵をし、木曽義仲の上洛を助けますが、義仲の滅亡とともに没落してしまします。

その後は歴史の流れに翻弄されるように、浅井氏の支城として阿閉氏の居城となり、木下藤吉郎に攻められて織田方となり、「山崎の合戦」時は明智方となり、その戦いに敗れるとついに城は落ち、廃城となります。

城の遺構は、土塁が多用されていること等から姉川の合戦以後に大きく改修されたようで、それ以前の顕著な遺構は確認できない。本丸は四方を2mの土塁で囲んでおり、内部は23×38mのほぼ長方形となっており、南東、北西、東側の3箇所に虎口が開かれている。南側の曲輪(二の丸)は、長さ70m・幅40mのU字型傾斜面ではあるが、近年ブルドーザーによって遺構面が削られ原型を留めていない。

本丸の東側は二の丸から回り込んだ帯曲輪と、その下には武者隠しや堀切を配し、約50m下がって三の丸となる。この曲輪は、内部で東西24m・南北20mの不整四角形であるが、西側の土塁中央から南西部にかけてブルトーザーによる破壊を受けており、かっては土塁囲みになっていた可能性が高い。本丸の北側は急斜面に続いて掘切がもうけられ、これより200mの間は細尾根を削平して一・二・三番目の馬場等の8箇所の曲輪と6条の堀切が交互に配され、北側からの侵入に備えている。さらに60〜80m北方付近には、風化した堀切2条・土橋・小曲輪の跡が見られる。尾根の分岐にあたる事から番所や木戸がが設けられていた可能性が高い。

なお、かつての山本山の西側及び南側は、湖沼が山麓まで迫っていたと言われており、今よりはるかに要害の地と成っていたことを念頭において、登場の防禦性の高さを考えて見る必要がある。

 

【登り口】山本山の南東にある朝日神社の脇から登り円乗院常楽時を経由して、道幅約1〜1.5mの登山道を登ると三の丸、二の丸・・に至り。遠景から見た山本山の斜面同様に勾配は若干きついが、約30〜40分で本丸に着きます。

【注意】近年、麓でを目撃・捕獲されていますので、シーズン中はくれぐれもご注意ください!

堀切と土橋