(2) 「──美しさに欠く」 そう呟き、ワープロの前でじっと腕を組む男の頭に、後ろから二本の手が伸ばされた。 マニキュアこそ塗ってないが、きちんと手入れされた指は、彼の頭を両側から挟み込む。 そして後頭部に向かって、吸い込まれるかのように膝がとんだ。 「兄いっ!」 かいていた胡座の上に半身を折って呻く実兄の背を台代わりに、手をついて少女は画面 を覗き込む。次々に流れていく文章を、その内容にも関わらず可愛い顔で平然と読み進む 姿は、ノートパソコンで友人からの電子メールにでも目を通しているぐらいにしか見えな い。 あらかた目を通したところで、下の方からくぐもった声があがった。 「……なあ、妹よ。いろいろ気恥ずかしい年頃だというのは、良く分かる。だが、もうち ょっと普通にコミュニケーションを取ってはくれんか」 「……こおいうものを書いておいて、そおいうことを言うか」 後頭部をさす擦りながら妹を払い除けた稲荷渓一は、「仕事だ」の一言で切り捨てた。 自分達の生活費の出所をちゃんと理解している彼女も、いい加減飽きたネタでそれ以上兄 をからかおうとはせず、ジーンズの膝の辺りを払う。 これを契機に一休みするかと、湯呑みの中のすっかり冷え切った焙じ茶を、窓際の観葉 植物の鉢に注いで回りながら、それでと渓一は尋ねた。 「一応問うが、何か用か?」 この妹は高校一年生にもなり、歳相応以上の分別も持ち合わせてはいるが、兄に対して はかなり頻繁に理性や知性の安売りをする。最も、今回はちゃんとした行動理由があった らしく、わざとらしい溜め息が返された。 「やっぱり、聞いてなかったか。 お客さんだよ」 「それは悪かった。で、誰が――」 「夕希さん。もう一時間近く下でお茶飲んでる」 名前で軽く開いた眉が、続く言葉で一気に寄せられた。低い声で、復唱する。 「一時間?」 素知らぬ顔で、積み上げられた収納ボックスから兄のシャツや布パンツを引き出し、手 早く色を合わせながら彼女は弁解した。 「ちゃんと、夕希さんが来たときに私は言ったって。で、兄ぃも『ん――』って返事した し」 「……それを返事というのか?」 「念のために『私、可愛いよね?』って確かめたら、『ああ』と……」 確信犯。読書中と原稿を打っている間の兄は、遠い国の人になると知っていて、わざと 何でもない様に声を掛けたのだろう。黒いタートルネックのセーターを一番上に、選んだ 服を手渡しながら無邪気に首を傾げてみせる、そんな妹が何時にも増して小憎たらしい。 すぐに着替えて降りるから、もう少し夕希さんの相手をしていろ、と廊下に追い出され た彼女が、再び細く開けた襖の隙間から首を差し入れる。 「着替え手伝ったげようか?」 「……いらん」 音高くワープロを閉じ、そんな自分に溜息をつきながら首をぱきぽき鳴らす渓一に、ま だ部屋の入り口にいた妹が呼び掛ける。 「ねえ、兄ぃ」 「何だ?」 「相変わらずのそのやらしい小説だけど――たまには興奮した私が、思わず股の間に指入 れてかき回したくなるような、すごいのを――」 「河鹿っ!」 兄の説教より早く、高笑いを上げて妹は階段を駆け下りる。 奥歯を噛み締め、河鹿の残していった襖の閉め忘れを見詰めながら、これまでの自分の 教育方針について、客の存在も忘れ真剣に顧みる渓一であった。 顔を洗い、さして代わり映えしないとはいえ髪に櫛を通した渓一は、台所の食卓の上に 一枚の置き手紙があるのに気付いた。渓一にしろ河鹿にしろポケベルと携帯電話の両方を 持っているが、ちょっとどこかに出掛けるときには一声掛けるか、このようにいらなくな った紙の裏に行き先を残してゆく。別に取り決めたわけでもないが、二人で暮らすように なって、自然とそうなった。ひょっとしたら、もういない母の癖を忘れないためかもしれ ない。 ふと、自分が複雑な顔で微笑んでいるのに気付き、老けたな……と思いつつ、渓一は手 紙を取り上げた。 親愛なるお兄様へ りょうchanのところにお泊りしてきます。5時ぐらいに、お泊りセットを取りに 帰ってくるかもしれないけど、気にしないでね。 あなたのbeautifulな妹より P.S. 兄ぃの布団のシーツは、ちゃんと洗ってあります。 避妊は、しっかり考えてやること。 頑張れ。成功を祈る。 黙って渓一は手紙を紙吹雪にすると、生ゴミ用のポリバケツの中に降らせた。そのまま 応接間へ向かおうとして考え直し、机の上のバナナを三本ばかり口の中に押し込む。その 皮で紙吹雪が隠れるよう、覆い被せているうちに、やたらと惨めな気分になってくる。 (……昼食を抜いておいて良かった、ということにでもしておくか) 口直しに水道水をコップで飲みながら、渓一は自分の甘さにほとほと嫌気が差してきた。 応接間の日溜まりの中、絨毯の上に形の良い足を崩して座っていた伊藤夕希は、軽いノ ックの音に俯いていた顔を振り向けた。それに合わせ、短く切り揃えられた髪の上を、光 の帯が滑り移って行く。きしむドアから渓一が顔を出したとき、二人は期せずして同じ表 情を浮かべた。 「いらっしゃい」 「お邪魔さま」 それ以上、余計な言葉は続かなかった。夕希はごく自然に河鹿の用意しておいた三つ目 のティーカップに紅茶を注ぎ、渓一は黙って彼女の前に座り、待った。 「どうぞ」差し出しながら、夕希が穏やかに笑う。「味の保証はナシ」 「有り難う」一口啜って、渓一が満足げに目元を和ませる。「おいしい。しかしこれじゃ、 どちらが客だか」 もう一度、カップを口元に運んでから、改まって渓一は延々と待たせてしまったことを 詫びた。 「いいよ。都合も聞かないで、いきなり押しかけたのはこっちなんだから。久し振りに河 鹿ちゃんとゆっくり話も出来たし、ね」 「本当に、申し訳ない」 「だから、いいんだって――仕事中だったんでしょう? 仕方ないわよ。寧ろ待たされて 当たり前」 その言葉に、渓一の笑顔が気付かれぬ程度、強張る。そして気付かないからこそ、夕希 はその話題を進めてしまう。 「また、雑誌の記事か何かを書いてるの?」 「……まあ、そんなところだ」 「ふうん。読んでみたいな」 期待を込めた目で見詰められ、今度ははっきりと渓一の顔が引きつった。 渓一は自分がいやらしい小説を書いていることを、隠していない。更に言うなら、恥じ てもいない。生活の糧を得るために働くのは当然のことだし、世間の一部ではこういった 18禁ものを取り締まろうとする向きもあるが、渓一自身はむしろ無い方が問題になるだ ろうと考えている。性欲の発散対象として、学校では教えられない性教育の教材として、 この手の存在は欠かせない。 それに何より、物を創作する者の一人として、己が子供とも分身ともいえる作品に対し、 手を抜くことはもとより、他人を気にして自分が作者だと名乗れないような代物に仕上げ ているつもりは毛頭無かった。この、彼にとっては至極当然で、彼以外の人間にとっては 『変わり者』の分類札を付ける一因にもなっている考えに従って、渓一は自分の仕事を隠 してこなかった。結果として、妹や友人はもとより親類縁者、大学の恩師、行き付けの床 屋の亭主、さらには夕希の両親にまで、知人と呼べる人間の多くに彼の職種はそういうも のとして受け入れられていた。 が、どうした訳だか唯一人、古くからの付き合いであるはずの夕希には、知人に紹介し てもらって雑文を書き散らしている、程度にしか打ち明けられていない。更にこの二人共 通の友人には妙なところで気を回す者が多く、『渓一が黙っているのなら、自分から伊藤 さんに教える訳には絶対いかない』と、頼まれてもいないのに皆が口を閉ざしていた。 (……素直に話すべきだな。いつまでも黙っていられるものでもないし、隠すべき理由も 無い) そう腹を据えたものの、依然として顔面痙攣を繰り返すことしか出来ない渓一を見かね、 夕希は笑いながら手を振った。 「ごめんなさい。昔から書きかけの作品は絶対に見せてくれなかったものね、渓さんは」 そしてごく自然に話題を変え、言葉をつなぐ。 「そう言えば、さっき河鹿ちゃんに冷蔵庫に入れてもらったロールキャベツと田舎煮。そ んなに日持ちしないから、早めに食べて頂戴ね」 「有り難う――いつも本当に済まない」 「それは言わない約束よ、って誰か自分以外に食べてくれる人がいると、やっぱり料理に もし甲斐があるから。ああ、もちろん家族は別ね。お互い慣れちゃって、反応に面白味が 無いって母さんも良く愚痴ってるもの」 笑いながら、渓一は心の中で深く頭を下げる。両親が亡くなってから、家事は兄妹で等 しく分担ということになっていたが、渓一は出来得る限りを一人で引き受けていた。自分 が大学を卒業するまで親にしてもらったのと同じだけのことを、父母に代わってしてやら ねばという義務感、遊び盛りの貴重な時間を削らせたくないといった兄心、そして家が仕 事場であり、学校に通う河鹿とは違って主夫がやれるという現実的な理由が互いに縒り合 わさってのことだった。 世間の一般独身男性並みには不精だった渓一が、台所の流しをまめに掃除し、気が向け ば玄関や部屋に飾る花を買うようになるまで、意外とさほどの時間はかからなかった。大 した事は出来ないが、試行錯誤して最初は何時間もかかっていたものが、習慣として身に 付いた頃には、『ひょっとして、自分は家事に向いているのかもしれない』と、お定まり の勘違いもしてみせた。 だが、幾ら頑張ろうと、一朝一夕にはどうにもならない分野もある。その最たるものが 料理で、数少ないレパートリーの循環では、どうしても自然と栄養が片寄ってしまう。そ れを見兼ねた夕希の母親が、大目に料理を作っては週に二三度、娘に持たせてくれている のだ。 「ああ、この前に貰った唐辛子の料理。河鹿も俺も妙に気に入ったんで、今度挑戦してみ ようと思うから、おばさんに作り方を聞いておいて貰えないかな」 何気ない渓一の言葉に、夕希が顔を輝かせる。 「あの炒めた唐辛子を味噌だれに浸けたやつのこと? あれなら簡単に出来るわよ。今こ こで教えてあげようか?」 誰が、あの料理を作ったのか夕希は言わない。渓一も、あえて尋ねはしない。ただ顔を 寄せ合って、二人はレシピを書き始めた。 そうして他愛ない雑談を続けているうちに、陽は静かに落ちてゆき、渓一の明りを点け ようと立ち上がった。だが、カーテンは引かない。外から丸見えになろうとも、未婚の女 性がいるのだ。誤解を招くような真似は慎むのが当然のマナーだと思っているのだ。 この男友達の、時代倒錯風で、極めて個人的な信念による心遣いに気付いているのかい ないのか、夕希はそう言えばと、横に置いていたショルダーバックに手を伸ばし、茶色の 封筒を取り出した。二枚のジャズのライヴのチケットと、チラシを机の上に乗せて、窺う ように渓一を見上げる。 「こんなのが手に入ったんだけど――渓さん、次の週末もし空いているようなら、一緒に どう?」