(3) 前触れは、あった。『ただいま』の一言もなく、力任せに閉められた玄関の戸。どたど たと廊下を近付いてくる、やけに勢いのある足音。そして乱暴に横に叩き付けられた台所 の引き戸。しかし、夕希が残していってくれた田舎煮とロールキャベツをタッパーから器 に盛り付けていた渓一は、 その声を耳にするまで何にも気付きはしなかった。 下を向いたまま何気なく、手を休めずに呟いた「お帰り」という言葉の後に、不自然な 間が空く。 「……お兄ぃ様ぁ」 この場合の様は尊敬や親愛ではなく、怒りと軽蔑を表している。顔を上げた兄の視線と かち合った河鹿の目は、完全に据わっていた。 未だ事態を良く飲み込めていない渓一の手元に、薄い茶封筒が叩き付けられる。 「おい、これは……」 「佳月の前を通りかかったら、夕希さんが一人でお茶してた。お相手しに行ったらどこか 様子が変で、しかも兄ぃと行こうとしてたはずのジャズのチケットをくれた。 ――その日、一緒に聴きに行ってくれそうな他の友人の心当たりが無いとかで」 成程と納得して再びタッパーに目を落とそうとした渓一に、河鹿はぴしゃりと言い切る。 「説明して」 「何をだ?」 「だから、どうして夕希さんの折角の誘いを断ったのかを」 ききわけの無い子供を相手にしているかの如く、一言一言に強いものを含んだ声で河鹿 が問う。どうして妹が怒っているのか分からず、渓一は目を細くしてその表情の奥にある ものを読み取ろうとする。 「……その日は別の人間と先約があってな。仕方あるまい」 「その予定、変えられなかったの?」 「変えようがないから、断ったんだ。守れない約束はしない。守りたくない約束もしない」 本人にそのつもりはないのだろうが、言葉遊びにしか聞こえない訓示に、河鹿はしばし 沈黙した。 やがて、流しにタッパーを浸けている渓一の背に投げかけられた言葉は、まだ不機嫌な 響きを残してはいたものの、幾らか落ち着いていた。 「――分かった。で、兄ぃ。フォローはちゃんとした?」 「フォロー?」 その返事が如実に答えを表していた。一瞬にして、河鹿の声のトーンが跳ね上がる。 「信じられない! そこまでしておいてもらって、断った挙げ句に何のフォローも無し! 最っ低ぇ!」 「おい……」 「男のくせして女から誘わせるだけでも救いようなく情け無いのに、その好意を踏みにじ る様な真似しといて、さらにお詫びに食事の一回、映画の一本、『別の日に、どこかへ遊 びに行きませんか』の一言ぐらいの気も回せなかったの!」 「いや、その……」 「普通の人が相手でも、それぐらい最低限の礼儀ってものじゃない。しかも夕希さんよ、 夕希さん。友達いなくて女っ気も無い兄ぃに、手料理作って来てくれるような奇特で、し かも兄ぃには犯罪的に釣り合わない、本物の美人じゃない!」 「あのなあ……」 「本当に分かってるの? 自分が何をやったのか。 ああっ、嫌っ。こんな甲斐性無しが自分の兄貴だなんて、絶対に、嫌!」 「…………」 面と向かってそこまで罵られ、さすがに腹は立ったものの、それ以上に言われて初めて 気が付いた己の配慮の足りなさに、渓一は苦く奥歯を噛み締めた。 しばらくじっと考え込んでいたが、やがて相変わらず睨み付ける妹の前で、短くだが深 い想いのこもった息を吐く。 「――確かに。この件に関しては、俺が悪いかな」 多少は溜飲が下がったのか、河鹿は器用に片眉を釣り上げた。しかし足元を見ていた渓 一はそれに気付かず、半ば以上自分に言い聞かせる意味で言葉をつなげる。 「次に会った時にでも謝って、何か適当に誘ってみるか」 それを聞いて、河鹿の中から怒りが消え、代わりに明確な殺意が湧き上がった。 「――兄ぃ。いい? 夕希さんは今、傷付いてるの。次に会う時まで、兄ぃは悠長にして いられるかもしれないけど、夕希さんはずっと辛い想いをし続けるの。 分かったら、さっさと佳月に――」 「しかしなぁ」 妹の低い声を落ち着いたと勘違いして、渓一は髭の伸びていない顎を指で掻いた。 「 もうそろそろ夕希さんだって、家に帰っているかも知れんし、第一こんないきなりじ ゃ、何に誘えばいいのか良い心当たりが無い」 「……あのね、何に誘うかじゃなくて、誘うことの方に意味があるの。行き先なんて、 後からでも変えちゃえばいいじゃない」 ここまで話して渓一は急に何やら気恥ずかしくなり、誤魔化そうと苦笑する。 「だが――面倒くさい」 次の瞬間、河鹿は無言で流し台へと向かい、そこに立てかけてあった木製の俎板を手に 取った。長年に渡って使い込まれ、それでもまだ充分に頑強な色を見せる俎板の、一方の 両端をしっかり掴んで、振り返ってにっこりと兄に微笑む。 「『女子高生、実の兄を俎板で撲殺!』明日の朝刊はこれで決まりってカンジ」 そして大きく振りかぶると、河鹿は手加減抜きで俎板を叩き付けた。 この街で佳月と言えば、ほんの数年前までは月毎の異称を冠した菓子で評判の、老舗の 和菓子屋を指した。今ではそれに、佳月の前主人が経営する喫茶店『佳月』も含まれる。 この前主人、早々と店を息子に譲ると、店舗の隣にあった隠居所を改築、庭を生かして 四季折々の風情を楽しめる、小さな喫茶店を始めた。サンドイッチやにゅうめんといった 軽食だけでなく、佳月の和菓子も出せば、香り高い様々な種類の御茶を淹れてくれること でも有名だが、ごく一部ではそれ以上に開店前後から続く、あるごたごたで名が売れてい たりする。 高校生だった頃の渓一達にとって、当時まだ客の少なかった佳月は、自分達で見付けた 一種の隠れ家であった。学校帰りなどに親しい友人達と連れ立っては、よくここで何時間 も話し込んだものだ。誕生日を祝ったり、借りを返す、お礼をする、というのは佳月の和 菓子と御茶をおごることと同義であり、暇なとき、また無性に寂しくなったりして、誰か に会いたくなったなら、佳月の道路に面した窓際の席。そう決まっていた。 卒業してからもそれは変わらず、待ち合わせ、時間潰し、そして理由など無くとも気が 付けば彼等はここに足を運んでいた。 その佳月の窓際の奥、庭の見えるテーブルの一つで、夕希はぼんやりと外を眺めていた。 とうに宵闇はそこから望める全ての景色を塗り潰しており、窓ガラスは明るく客の少ない 店内と、彼女の顔を映す鏡と化している。それでも相変わらず暗い庭を見詰め続ける夕希 の向かいの椅子が、前触れもなく音を立てて引かれた。 「えっ?」 仏頂面で、どこかに打ちつけでもしたらしい左腕を擦りながら座る渓一の姿に、二の句 が継げない。彼は注文を取りにこようとしたマスターこと御隠居に塩昆布茶を頼むと、先 程まで夕希が見ていた方向へ視線を泳がせ、そのまま一拍置いて呟いた。 「何か嫌なことがあったらしくてな、河鹿が荒れているんで逃げてきた」 その一言でおおよその事態を察し、口を開きかけた夕希を、渓一は沈んだ声で遮った。 「頼むから――言えた義理じゃないが――謝らないでくれるか。ただでさえ自己嫌悪で死 にかけているのに、とどめを刺されるのは、ちときつい」 自嘲気味に顔を歪めると、渓一は夕希から視線を外した。そして夕希は夕希でまた、渓 一と目を合わせることが出来なかった。 一緒に行けるものなら行きたいが、用事があるから。そう断られても、あまり慰めには ならなかった。理屈ではなく、辛いものは辛いのだ。だから誰かに軽く愚痴って、落ち込 みかかっているこの気分を晴らそうかと、夕希は考えていた。ただその誰かに、たまたま 偶然とは言え河鹿を選ぶことだけはすべきでなかった。それは卑怯だ。 しかも今回は、それを無意識にやってしまった。後でどうなるかぐらいは、分かってい たはずなのに、だ。 ――そうして、気付かなかった振りをして、私は悪くないって思い込みたかったのかも しれない。なんて、ずるい。 俯いたまま、口唇を噛む。 しばらくの間、二人は共に相手の許しを待つかのように、沈黙を守り続けた。だが聞こ えてくるのは、四人連れの高校生が会計を済ませる声、火にかけられたやかんの立てる音、 そして小さく絞られたFMラジオから流れてくる音楽。幾ら待っても、そんなものだけだ った。 「――――」 聞き取りにくい小声で、渓一が何かを呟いた。え、と顔を上げた夕希の方へ、渓一も向 き直る。 「ジャズって、昔から聴いてたっけ?」 「えっ……と、あんまり」 再び、気詰まりな沈黙が舞い降りる。それを破ったのは、渓一の努力でも夕希の思い遣 りでもなく、御隠居の運んできた塩昆布茶であった。 一見無造作に塗られた釉薬の、緑の細かいひびが美しい湯呑み片手に、渓一が口を開く。 「じゃあ、ちゃんとしたジャズを聴く、いい機会だった訳だ。――悪いことをした」 「ううん、これが初めてって訳じゃないから。渓さんはジャズ喫茶とか行ったこと、あ る?」 「大学時代に、教授に引っ張っていってもらったことが、一度だけ」 そう言うと、なかなかに似合う慣れた仕種で昆布茶を啜る。一瞬、高校生だった頃に戻 ったような錯覚を覚え、夕希は小さく笑いをこぼす。 「うん? 俺がジャズを聴くというのは、そんなに変か?」 「ごめんなさい、違うの。――でも、どちらかと言うと、酒場でジャズに耳を傾ける渓さ んて、想像つくけど格好良いと思うな。ディスコに通う渓さんなんて、フィギュアスケー トをやる御地蔵さんみたいだもの」 「よく解らんが……ひどいことを言う」 渓一も屈託のない笑みを浮かべる。 そうして、ようやくいつもと同じ調子で喋り始めた二人を視界の隅に入れたまま、カウ ンターの向こうで暇そうにしていた御隠居は、声には出さず呟いた。 うちでも時々、ジャズはかけているんだがなあ、と。