(2) そこまで読んだところで、彼は体の中に溜まっていたものを、勢い良くティッシュペーパ ーへと放った。熱く濁った粘液は、周囲に飛び散ることなく受け止められ、薄紙越しにぬめ りを指へと伝える。 「……やだ、兄ぃ、汚い……」 妹が横になったまま、呟く。たった二人の兄妹だからこそ、一緒にいる時は相手を不快に させない最低限の気は遣って欲しいと、言外に訴える。 「……すまん」 朦朧とした頭で反射的に答え、稲荷渓一は再び大きく鼻をかんだ。 実の所、風邪で具合が悪いのを押してまで仕事をしている彼の部屋に入り込み、用もない のに寝っ転がって雑誌を読んでいるのは河鹿の方なのだが、渓一はその事を言わなかった。 熱のせいで、そこまで考えが及ばなかったのだ。現に今とてワープロに向かい、原稿を読み 返してはいるものの、目は字を追っていても、内容は視神経を通ってそのまま後頭部から抜 け落ちている。 大丈夫かな…… そんな兄を心配している素振りは見せずに、河鹿は雑誌に視線を落としたまま、心の中で 呟いた。何気ない顔で、ページをめくる。そして―― うげっ。やっぱり駄目だ。えぐいなあ、もお。 形の良い鼻の上に皺を寄せ、本を閉じる。その表紙は皮製の下着やゴムマスク、アニメキャ ラクターのイラストに、美少女フィギア人形、パンティーストッキング等が乱雑に積み重な り、一番上に真っ赤なハイヒールが乗っているというものだ。内容は所謂フェチ、中でも特 に深く濃く倒錯した方々を紹介している。暇潰しにこれを彼女は読んでいたのだが、少々、 許容範囲を越える事例が出てきたらしい。しかめっ面のまま、本棚へと戻す。 壁際に低く並んでいる黒い本棚は、基本的には整頓されている。だが、納まり切らなかっ た本が溢れ出し、幾つもの小山をその周りに形成していた。内容は主に三種類、渓一が過去 に読んで気に入っている本と、買ったのはいいが、まだ手の付けられていない本、そして仕 事関係の資料である。写真集、小説や漫画の類に、雑誌、雑学本、更にはアダルトグッツの 通販カタログから、インターネットで落としてきた資料を紙に打ち出したものまで、かなり の量がある。友人どころか親兄弟にさえ見せられない本棚だが、渓一と河鹿は互いに気にな どしていなかった。 渓一にしてみれば、成人向け小説書きという職業を選んだ以上、下手な隠し立てはかえっ て悪い結果になると考え、妹が本棚の資料本を読んでいても、渋い顔をするだけで止めはし なかった。ただ、それで彼女の世界が狭くなることを恐れ、『自分の読みたい本を五冊読ん だら、何でもいいから興味の無い本を一冊読むように』と教えている。 一方、当然のことながら河鹿は初め、渓一がこういった本を集めることを嫌がった。しか し、毎月十数冊ものエロ小説に真面目に目を通す兄の後ろ姿に生臭さが全く感じられないた め、今では仕事は手を抜かずにきっちりこなす、という彼の遣り方に、感心すらしている。 それどころか、女性の裸など三日見続ければ飽きるものだと公言して憚らない彼が、若枯れ して変な趣味に走りはしないかと、密かに心配までしていた。 人間、物事に慣れるのは容易いもので、河鹿もすぐに年頃の興味が赴くまま、渓一の本棚 からこっそりと本を借り出しては、自室に隠れて読み耽った。最も、渓一の言っていた通り、 幾らか読み漁ったところで食傷気味になり、再び普通の本にも手を伸ばすようにはなったが、 それでも堅い小説よりは漫画や雑誌の方が読み易い。 雑誌を戻した河鹿は、次は何を読もうかと本棚を眺め回していた。その耳に、派手な音が 飛び込む。振り返ると、渓一が顔面からワープロのキーボードに突っ伏していた。 「どうしたの、兄ぃ?」 微動だにしない彼の横へとにじり寄り、平手で後頭部を叩く。 「おーい、けーいちくーん。稲荷渓一くーん。おーい、おーい」 ぺしぺしぺしぺし。べしべしべしべし。 次第に力を込めていた彼女は、ふとその手を彼の頭に当てたまま、動きを止めた。不自然 に、熱い。 「ちょっと、兄ぃ!」 慌てて渓一を起こし、薄っすらと赤くキーボードの跡が残るその額に、自分のおでこを重 ねた。 ――洒落になっていない。 「バカ!」 そう叫ぶと、後ろから兄の両脇の下へ手を回し、全身の力を込めて意識の無い渓一を引き ずり出した。 「バカ、バカ、バカ、バカ!」 部屋の真ん中まで来た所で、廊下の先にある狭い階段の存在を思い出し、彼女は部屋の中 を見回して、隅に畳んであった布団を急いで渓一の横へと敷いた。 どうにかそこへ彼を寝かすと、河鹿は大声で呼び掛けた。それに答え、渓一が細く目を開 ける。 「……何だ? どうかしたのか?」 「何だじゃないわよ、この馬鹿兄ぃ! こんな酷い熱をだしてまで、仕事してんじゃないわよ! 大丈夫? 救急車、呼ぶ?」 怒っているのか心配しているのか判然としない妹の声に不思議と安心し、渓一は力ない笑み を浮かべた。 「……いや、いい。少し寝かせてくれ……」 そう呟き、瞼を閉ざす。彼が落ち着いた寝息を立てるまで、河鹿はじっとその側に座り続けた。 人の気配に、渓一が微睡から覚めると、意外な人物が部屋に入ってくるところであった。 「起きろ、見舞いに来てやったぞ」 「冬飼さ……」 言いかけて、激しく咳き込む。どうやら、寝ている間に喉までやられたらしい。 「無理するな。ほれ」 枕元に置かれていたコップに、同じく用意されていたペットボトルの清涼飲料水を注ぎ、 布団の上に半身を起こした渓一に手渡す。 「……すいません」 かすれ声で呟き、渓一は一息に飲み干した。たっぷりと寝汗をかいた体に、心地良く水が 染み込んでいく。 その間に男は外套と荷物を下ろし、渓一の横へと座った。長い足を折り、腰を降ろす。たっ たそれだけの動作が、随分と様になっている。服装は地味な色合いのものを上手く合わせて 着こなすことで、逆にその卓越した趣味の良さを示し、顔は野生味の漂う端正な彫りの上に、 茶目っ気と皮肉の入り交じった笑みを貼り付けている。 顔良く、趣味良く、遊びも一流なら、仕事も出来る。ただ、性格が少し別の方向へと良い ため、ついぞ彼女の長持ちした試しがない男。渓一の大学時代の先輩で、今の仕事を紹介し てくれた、現担当編集者。冬飼克である。 何故ここに、と渓一が問うより早く、表情で察したか冬飼は説明した。 「北村先生の所に原稿を貰いに行ってきた帰りだよ。ふと、お前さんの方の調子はどうかと 思って駅から電話を掛けたら、河鹿ちゃんが出て『兄ぃは風邪で動けません』って言うもん だからな。 これ、土産だ」 そう言ってスーパーの白いビニール袋を差し出す。パイナップルや房バナナに混じって、 ワインと日本酒の五合瓶が入っていたが、あえて渓一は追求せず、礼を伸べた。 「それから」 鞄から、かなり大き目で厚みもある茶封筒を冬飼は取り出した。 「今月の我が社(うち)の新刊だ。お前さんの『天然きゅうり』も入っているからな」 渓一は受け取ると、これはそのまま中味を検めることもなく、先程の見舞い品の横に置いた。 で、と冬飼が尋ねる。 「具合の程はどうなんだ? 倒れたって聞いたが」 「は?」 怪訝な顔で渓一は答えた。しかし、よくよく考えてみれば、しばらく前に風邪薬を飲んで 寝巻に着替えるまで、自分は普段の室内着で寝ていた。それに原稿をチェックするためにワー プロを立ち上げはしたが、その電源を切った覚えも、更には仕事を切り上げて布団に潜り込 んだ覚えもない。 短い沈黙の後、そう言えば、と渓一は呟いた。 「……記憶が所々、とんでいますね」 「おいおい」 そのまま気怠さに任せ黙っていたが、ふと、嫌な空気に渓一は横を向いた。 「――何ですか?」 眉をひそめる渓一とは対照的に、冬飼はろくでもない笑みを浮かべていた。とぼけた口調 でのたまう。 「いや、な。これはあくまで俺の知り合いの、別の編集者の話なんだがな。そいつの担当し ている作家に、一人、困ったのがいたんだよ。締め切りはちゃんと守るし、人当たりも悪く はない、作品だって結構面白いものを書く、有望株の新人だったらしいんだが、ただいった ん執筆を始めると、体の限界を考えずに無茶ばかりしてたんだそうだ。『先生はどれだけ言っ ても、自分の健康を省みてくれない。今度倒れたら、それこそ大変なことになるんじゃない かって、俺は心配で心配で夜も眠れないんだ』って、一緒に酒を飲む度に、あいつはこぼし ていたな。 ところが先日、久し振りにそいつに会社で会ったら、いやに晴れ晴れと、吹っ切れた顔を してるんだよ。気になって聞いてみたら、『俺は気付いたんだよ。あの先生は書いて書いて 書きまくって、そして死ぬことしか出来ない人なんだ。いや、そうするために生まれてきた んだ。だから、俺は編集者として、今は微力ながら先生のお手伝いをし、亡くなられた暁に は盛大な追悼特集を組んで各書店でフェアをうち、完璧な全集を出して、そうして先生の名 を冠した新人賞を創設して、文学史上に過労死で死んだ素晴らしきエロ小説家として、その 偉業を燦然と記し残すことだけを、考えることにしたんだ』って――」 渓一は、現在感じている頭痛が、熱のせいか、はたまた隣のこの男のせいか自分でも分か らず、思わず眉根に手を当てて呻いた。 「……冬飼さん」 「ん、何だ? 銅像も建てて欲しいか?」 「……この風邪を誰が移したか、御存知ですか?」 上目使いに少し考え、冬飼は言った。 「伊藤さんか?」 「違います。あなたですよ」 「そうなのか? しかし、お前さんとキスをした覚えはないぞ」 至って真面目に冬飼は語り出す。 「確かに一週間程前まで、俺は鼻水で呼吸もままならないぐらいの酷い風邪をひき、苦しん でいた。そんな最中に、お前さんと会って打ち合わせをした途端、治りもした。だがな」白 々しく、渓一を見詰める。「やっぱり、キスはしてないぞ」 他人に移せば、風邪は治るとも言う。また、キスを交わせば風邪は移るとも言う。だが。 のろのろと横になり、渓一は布団を被った。 「……失礼。疲れたんで、寝直します……」 「そうか。しっかり寝て、ちゃんと治せよ。俺もそろそろ電車の時間だから、帰るわ」 そうして部屋を出掛かった所で、付け足しのように振り返る。 「ああ、それから、お前さんに今書いてもらっているやつな。別に急ぐものでもないから、 無理はするんじゃないぞ。じゃ、またな」 結局、何をしに来たのか良く分からぬまま、顔だけ出して冬飼は別れを告げた。 階段の登り口で、冬飼は花瓶を抱えた河鹿と鉢合わせた。 「あれ、もう帰られるんですか?」 「うん。まだ仕事があるんでね。本当はもっと河鹿ちゃんと話したかったんだけど」 渓一相手の時とは違い、張りのある声が優しく空気を震わす。女性用と皆が呼ぶ、冬飼の もう一つの地声だ。 ふと、河鹿の腕の中の花に目をやる。白い花瓶に、開きかけの小さな赤い薔薇が、あふ れている。 「ところで、その花は気に入ってもらえたかな? 河鹿ちゃんの好みが分からなかったんで、 一番、似合いそうなのを選んできたつもりなんだけど」 「これって、兄ぃのお見舞いなんじゃないんですか?」 「男に花を贈る趣味はないよ。笑顔の可愛い女の子にだけさ」 少しの嫌味も感じさせず、さらりと自然に言ってのける。兄からの伝聞と、実物で冬飼が どんな人間か知っている河鹿は、照れもせず満面に笑みを浮かべた。 「ふふっ、嬉しいな。でも冬飼さん、いつから守備範囲が広がったんです?」 「決まってるじゃないか。君に会ってからだよ」 本気でそう笑いかけられ、河鹿は綻びかけた口元を薔薇の花先で隠した。 「冗談じゃなくて、本当に凄いと思うよ。会う度に、河鹿ちゃんは綺麗になってるんだもの。 美人の知り合いなら何人かいるけど、どんどんそれに磨きがかかっていく人なんて、他には いないよ」 「ようやく子供っぽさが抜けてるだけですよ。あんまりからかわないで下さい」 「からかってなんか、ないって。 そのうちさ、また……」 そこまで言ったところで、冬飼は口を閉ざした。さりげなく笑顔のままで、階段の上を見 遣る。丁度、河鹿の位置からは死角になる場所、登り切った先の廊下に、渓一が這い出して いた。別に睨んでいる訳ではなく、むしろだらしなくへばった顔をしているが、その目には 一定以上の刺激で確実に溢れる劇薬のような凄みがあった。 「……うん、そうだった。とても名残惜しいんだけど、電車の時間があるから。そろそろお いとますることにするよ」 何も気付かず、河鹿は一歩下がって場所を空ける。その時、ふと見せた横顔に、冬飼は我 知らず息を飲み込む。 まだ、化粧で隠す必要もない滑らかな肌。少女の無垢と、大人の張りが、淡く入り混じっ た不思議な顔立ち。健康的な肢体を、トレーナーにジーンズといった気取らないもので包み、 大人なら心許した人間にしか見せないであろう無防備な笑みを、惜しげもなく晒している。 あと数年、いやひょっとしたら数ヶ月足らずで、この笑顔は彼女に選ばれた忌々しくも幸 運な男のものになってしまうのである。 「どうかしました?」 河鹿が小首を傾げて尋ねる。 「いや、何でもないよ」 冬飼は苦笑して答えた。少なくとも今、二階を見上げるだけの勇気は、彼にはなかった。 稲荷家を出て幾らと歩かぬうちに、冬飼は近付いてくる人影に気付いた。街灯や家明かり に照らされ、辛うじてその姿が見て取れる。手袋をした片手に何やら袋をぶら下げ、鼠色の ダッフルコートを纏い、顔の下半分をぐるぐる巻きにしたマフラーで覆っている。 立ち止まり、向こうがこちらに気付くのを冬飼は待った。 「あっ」 「今晩は、伊藤さん」 夕希は彼の前で足を止め、マフラーをずり下げた。白い息が、立ち昇る。 「今晩は。――打ち合わせの帰りですか?」 「いや、渓一の見舞いに行ってきたところ」 「え?」 「あれ、知らない? あいつ、風邪で倒れたんだよ」 その言葉に、彼女の視線が冬飼の背後にある、稲荷家の二階に向けられる。不安げな夕希に、 冬飼は笑いかけた。 「まあ、意識ははっきりしてたから、大丈夫だろうけど。ところで夕希さん、これから稲荷家 に行くんだよね?」 頷き返され、冬飼は気まずそうに顔を歪めた。 「うん、そうしてくれると河鹿ちゃんも安心できるだろうし、是非とも渓一の見舞いはしてやっ て欲しいんだけど、ただ――」 「ただ?」 「渓一の奴、疲れて寝直したばっかりなんだよ。それをすぐに起こすのも可哀相だし、できれ ば時間を置いてから会ってやっては貰えないかな。 ――それとも何か、この後に予定でもある?」 「いえ、特には何も……」 「そう、良かった。なら、お願いできないかな。喫茶店で珈琲でも飲んで、一時間ぐらい潰し てさ。勿論、頼んだ手前、それぐらいは俺がおごるし、付き合うよ。だから――」 そこで、冬飼は言葉を止めた。ゆっくりと、振り返る。 先程、彼が辞去した稲荷家の玄関に、河鹿が佇んでいた。その、文句の付けようのない笑顔 に、階段の上から見下ろしていた渓一の顔が重なる。 「……と、思ったんだけど河鹿ちゃんが出てきたからには、別にもう行っても何の問題もない かな、なんて……」 「夕希さーん。そんな所じゃ、寒いでしょう。さあ、早く入って入って。 冬飼さん、電車の時間はいいんですか?」 「……良くないです」 喉の奥で小さく笑いながら、夕希は軽く頭を下げた。 「それじゃ、失礼します」 「うん、またね」 そして、冬飼は河鹿に手を振ると、そのまま駅へと歩き出した。振り返ることなく路地を一 つ曲がり、やがて歩きながら息を大きく斜め上に吐き出す。 「減点、一」 親指で額を弾くと、彼は夜の市街に去っていった。 下で何やら妹がたてている物音も気にせず、うつらうつらとしていた渓一だったが、流石に 河鹿が部屋の中に駆け込んでくるに至って、その重い瞼を上げた。 隣室の押し入れ奥から予備のシーツや厚手のタオルケットを持ち出して、それを彼女は本棚 へと被せてゆく。辞書や、見られても構わないハードカバーを積んで端を押さえ、本の日焼け を防いでいるように見せかける。 「おい、一体どうし……」 「夕希さんが、来た」 反射的に飛び起きた渓一を、いーからいーからと押さえ込む。 「もう夕希さんは下で待ってるの。下手に動いて、これ以上事態をややこしくしない。病人は 黙って大人しくしてる。分かった?」 「しかしだな……」 「ん?」 「……ん」 顔を両手で挟んで覗き込まれ、渓一は不承不承に頷いた。その返事に河鹿は笑みを浮かべ、 指先で乱れた兄の前髪を整えてやる。 それから、机の周りや部屋の中を見回して、問題になりそうなものをまとめて自分の部屋へ と移す。渓一の枕元にある茶封筒は、仕事か何かの書類だろうと、そのまま見舞い品と一緒に 放っておいた。 「それじゃ、夕希さんに上がってもらうからね」 そう言い残して、河鹿は階段を降りていった。 「ごめんね、かえって迷惑を掛けちゃったみたいで」 「そんなことないって。冬飼さんの来ていた後始末をしてただけだから」 階段の軋む音と共に近付いてくる二人の声を、渓一はぼんやりと待った。