(3) 「渓さん、渓さん」 優しく揺すぶられ、夢現から渓一が目覚めると、そこには何故か夕希の顔があった。 「お薬貰ってきたから、飲んどこう。でも、その前に少しだけでもお腹に御飯を入れた方 が良いだろうから。――御粥、作ったんだけど、食べられる?」 「……ああ」 しばらくは状況が掴めず、ぼんやりとしていた渓一だが、やがてゆるゆると昨晩の記憶 が戻ってきた。 昨日、おかずのお裾分けを持ってきてくれた夕希が、ついでに寝ていた渓一を見舞って くれていた時に、河鹿が明日は学校を休むと言い出したのだ。学校などには行かず、渓一 の看病をするのだと。 彼女にしてみれば、数日前から兄の具合が悪いのは分かっていたはずなのに、彼が普段 通り家事をこなしていたため、それに甘えて兄が倒れてしまうまで、何も手伝おうとしな かった自分への後悔も、そこには含まれていたのだろう。 だが、渓一は言下に言い捨てた。 「学生の本分は勉強だ。馬鹿なことは考えずに、ちゃんと学校ヘ行け」 「馬鹿とは何よ。 人に気を使ってもらって、有り難うぐらい言えないの」 「有り難う。だが余計なお世話だ」 「……その言い草、喧嘩でも売ってるつもり?」 「事実を述べているだけだ。大体、側にいてもらっても何にもならん。風邪が移るだけだ」 「あの……」 険悪に見詰め合う兄妹に、夕希が声を掛けた。そこでようやく彼女の存在を思い出し、 二人は気まずげに口を閉ざす。 「もし良ければ、河鹿ちゃんが帰ってくるまで、私が看病してようか? 明日は仕事も休み だし」 一拍置いて、二人は同時に声を上げた。 「そんなことをしてもらう訳には……」 「やった!」 睨む兄に、河鹿は笑顔で言ってみせる。 「夕希さんが看病してくれるなら、私は安心して勉学に励めるな、うん」 「幾らなんでも、そこまで迷惑を掛ける訳にはいくまい」 慌てて夕希が口を挟んだ。 「看病って言っても、そんなに大した事は出来ないけど」 「そんなことないよ。夕希さんがいてくれるだけで十分」 「いいや、駄目だ。それぐらいなら、いっそ――河鹿」 「私は学校に行くからね」 「なら、一人でも……」 「兄ぃ、往生際が悪い。」 なおも反論しかけた兄の口を、『これ以上、ウイルスを撒き散らすんじゃない』の一言 で封じ、河鹿は勝利の笑みを浮かべた。健康時ならともかく、熱で気力も思考力も萎えて いた渓一は、結局押し切られる形で、夕希に一日だけの看病を頼んだのだ。 そんなことを渓一が思い出しているうちに、夕希は食事の用意を整えた。小さな折り畳 みの机の上に、薩摩芋のレモン煮、ほうれん草とベーコンの炒め物、漬物や梅干しといっ たおかずを一口ずつに盛った小皿が並べられてゆく。粥、と彼女は言ったが、小さな土鍋 で湯気を上げているのは、三葉や鮭の入ったむしろ雑炊と呼ぶべきものである。 夕希に淹れてもらった御茶を啜りながら、ふと、渓一は尋ねた。 「夕希さん、自分の食事は?」 「もう、とっくに」笑いながら、尋ねる。「渓さん、もうすぐお昼だって、気付いてる?」 時計を見ると、針は十時半を少し、過ぎていた。 「……そうか、まだ午前中か」 その答えに、また夕希が笑う。 湯飲みを置くと、渓一はゆっくりと箸を運び始めた。かれこれ昨日の昼から何も胃には 入れてないが、特に食欲はない。だが一つ一つの料理をしっかりと味わって、渓一は余す ことなく全てを平らげた。 最後に薬を飲んで、再び横になる。今度の眠りは速やかに訪れた。 寝ている渓一の額に乗せた濡れタオルを、冷たく絞った新しいものに替える。ついでに 顔の汗を拭き取っていると、不意にその手が掴まれた。 「きゃっ! ……け、渓さん、起きてたの。もう、驚かさないでよ」 その夕希の手をしっかりと掴んだまま、渓一は体を起こす。いつもとは違った彼の雰囲 気に、夕希も気を飲まれる。 「渓さん?」 「好きだ」 単純な、言葉だった。そして、ずっと彼女が待ち続けていた言葉でもあった。 「あ……あ……」 渓一は、じっとこちらを見詰めている。早く、何か反応を返さなければいけないのに、 溢れ出る感情が全ての言葉を壊してしまう。 そんな彼女を、渓一は黙って抱き寄せた。そっと顔を近づける。夕希は、逃げようとせ ず、ただ彼の唇を受け入れれば良いだけだった。 静寂の中で、濃密な時が流れる。やがて渓一は舌を抜くと、強く、だが優しく夕希を布 団の上に押さえ付けた。その上に、ゆっくりと覆い被さっていく。 「夕希……」 「渓さん……」 下から伸びた夕希の手が、すがるように渓一の背をかき抱く。 「…………」 「あっ、渓さんっ……」 「んなわけはないか」 醒めた声で呟くと、河鹿は弄んでいた妄想を放り捨てた。溜息を吐いて、窓の外の曇り 空を見上げる。 場所は高校の教室、周囲は昼食時の喧燥に包まれている。 「どうかしたの?」 机の向こうから、友人の清水鏡子が声を掛けてきた。 「ううん、何でもない」 「でも、朝から元気がないじゃない」 「大丈夫だって。兄貴が風邪で寝込んでるの。ただ、それだけ」 と、それまで横で黙々と弁当をかき込んでいた男子学生が、呟いた。 「男、だな」 「……そりゃ、兄貴は普通、男だけど」 しかし、彼は首を左右に振ると、手の平を向けて河鹿を押し止めた。 「いや、皆までゆうな。言わぬなら聞かぬが、友の勤め。 さあっ、心ゆくまで青春の苦悩に打ち震えるがいいっ!」 握り拳に力を込め、天を仰ぐ。その彼の隣で弁当箱を手にしているもう一人の男子生徒に、 河鹿は尋ねた。 「これ、もうちょっとどうにかならない?」 「まあ、苅野だし」 そうそうと、パンを片手に鏡子も頷く。そっか、苅野だもんねー、と河鹿も自らを納得さ せ、食事に戻る。 しばらくして、鏡子が癖のない長髪を鬱陶しそうにかきあげながら、眼鏡越しに問うてきた。 「で、本当のところはどうなのよ?」 「何が?」 「……おとこ」 「だから、違うんだって。鏡ちゃんだって知ってるでしょう」 「何だ、つまんない。そんなの、正しい女子高生じゃ、ないじゃない」 「そういうそっちはどうなのよ」 期待せずに返した言葉だったが、鏡子はにっ、と笑みを浮かべた。 「聞きたい?」 「えっ」 「どうした」 途端に、横田正造――苅野歩の隣にいた男子学生――も、好奇心に顔を輝かせ、体を乗り 出してきた。少なくとも河鹿達の知る限り、最近の鏡子にそういった話はない。だが、彼女 は一度こうと心に決めると、それからの行動が、並外れて素早かった。 手で招かれ、二人は椅子を鳴らして鏡子に顔を寄せる。 「へっへー。実はねー」 「なんだ、じらすなよ」 「早く早く」 次の瞬間、彼女は大きく腕を広げた。 「ぜーんぜん、なしっ!」 河鹿と横田が、机に突っ伏す。 「……もう、変な期待させないでよ」 それまで、一歩引いた場所から三人を眺めていた苅野が、大真面目な顔で言った。 「そうだ。キツネは真剣に恋の炎に身を焼いているんだ。からかうのは良くないぞ」 「しつこい。――本気で言ってるの?」 しばし、苅野は真剣に考え込んだ。 「……半分ほどは」 溜息と共に、河鹿は再び窓の外へと目を向ける。 今頃、誰もいない家に、兄と夕希は二人っきりだ。状況設定は完璧だし、今なら多少のこ とは熱のせいに出来なくもない。だが、兄は手を出すどころか、普段にも増して紳士的に振 る舞うだろう。そういう男なのだ。 「……ったく、本当に好きなら、押し倒すぐらいしてみなさいよ」 絶望的な溜息を、もう一つ。 自分が無意識に漏らした呟きに、友人達が呆然と言葉を失っていることに河鹿が気付くの は、まだ少し先のことであった。 頭を動かし、横顔を枕に押し付ける。まだ汗を吸っていない冷たいタオル地が、火照った 頬に心地良い。気怠さにまかせて、ぼんやりと飴色の畳を眺めていると、その向こうにある 見慣れないものに気付いた。本来なら本棚が並んでいるはずの奥の壁際に、何やら布の連な りが見える。それが、河鹿がシーツで隠した本棚だと思い当たるまで、若干の時間が要った。 昨日の彼女の慌て振りを思い出す。それにしても、良くあそこまで気が回ったものだ。自 分が無頓着でだらしない部分は、補うかのように妹がしっかりしている。 良い妹を持ったなと、熱に浮かされた頭で渓一は兄馬鹿なことを考えた。 頭の下、枕の向こうからは、水を使っている音が聞こえてくる。一階の台所で、夕希が食 事の後片付けをしていてくれるのだろう。 不思議なもので、他に人が一人いるだけで、家の中の雰囲気が違う。空気に流れがあり、 暖かみのある穏やかな騒々しさが、微細な粒子となってゆっくりと宙を舞っている。日頃か ら仕事で家に籠り、独りが当り前になっていた渓一にも、それは安らぐものだった。 大きく息を吸い込んで、ゆるゆると吐きながら、満足げに渓一は瞼を落とした。 昼食後の授業は眠気を誘う。少し暑目に効いているストーブと、老教師の穏やかな喋り声 がそれに輪をかけ、上がってきた欠伸を噛み殺すことなく、河鹿は手で塞いだ。 趣味でやっているような老教師、『西行』先生の現国は、受験の役に立ちそうもないこと を除けば、ほとんどの生徒に親しまれている。しっかりノートをとっている生徒にも、内職 に精を出している生徒にも、睡眠専門の生徒にも、そして、国語の苦手な生徒にも、勿論得 意な生徒にも。 そこそこ本好きで、七割程度の真面目さは持ち合わせている河鹿は、睡眠組に入ることを 辛うじて堪え、しっかりと黒板の方を向いていた。 ただし、頭の中身まで、そちらを向いているとは限らない。 とりとめもなく、彼女は家のことを考えていた。兄ぃと夕希さん、お昼は何を食べたんだ ろうな、とか、具合はどうなんだろう、または、兄ぃのことだから、やっぱり甲斐性はない だろうな、など。 あの二人が一日、一緒にいたとして、何を話すのか河鹿には皆目見当が付かなかった。ま あ、ずっと話しっぱなしということもないだろうが、それほど共通する話題があるとも思え ない。会話が尽きて、そこから良い感じになるとも思えないし、やはり無難に読書か何かで 夕希さんは時間を潰すことになるのだろう。 河鹿はそこで、本棚の様子を思い出した。他の問題になりそうなものは自分の部屋に運び 移したが、流石に本棚は動かすこともできず、念入りに布で覆い隠した。あれを見られない か心配だが、夕希さんは余程のことがなければ、そういった所を漁るような人ではないし、 第一、その前に兄ぃが止めるであろう。 また一つ、上がってきた欠伸に、河鹿は目尻を潤ませた。 渓一はぐっすりと寝ていた。少し物寂しい気もしたが、その方が良いのだと、夕希は彼を 起こさぬよう、静かに隣に座り込んだ。 そっと寝顔を覗き込み、いつもに比べ、格段に子供らしい渓一の顔を眺める。 やがて夕希は顔を上げ、改めて室内を見回した。この部屋に入ったのは、昨晩が初めてで はない。高校生だった頃や、卒業してしばらくは、友人達と連れ立って、たまにここを訪れ ていた。しかし、渓一達の両親が亡くなり、彼がここを仕事部屋として小説を書き始めてか らは、自分はお客さんということで応接間や、食堂、河鹿の部屋に通してもらうことはあっ ても、この部屋には招かれなくなった。 久し振りに足を踏み入れた渓一の部屋は、本棚の数が増えているぐらいで大した変化もな く、夕希はどこか懐かしい落ち着きを感じた。子供の頃、たまに遊びに行った祖父母の家の、 広い座敷を思い出す。 しばらくはそれで気も紛れていたが、程なく夕希は手持ち無沙汰になった。 「……何か、持ってくれば良かった」 自分の用意の悪さに、呆れる。この家のどこにテレビがあるかは知っているし、河鹿も渓 一も、好きにしてくれて良いと言ってはいたが、留守中に他人の家の中をいじることはした くない。 読みかけの雑誌か小説でも持ってくるべきだったと、しつこく悔やんでいる夕希の目にふ と、壁際の本棚が映った。 「……そう言えば、渓さんって、どんな本を書いてるんだろ。 一度、読んでみたいな」 耐えるだけの時間が終わり、開放の鐘が鳴り響いた放課後。早くも三分の一以下に人口が 減った教室で、河鹿は席を立ったものの、これからどうするか決め兼ねていた。 「あれ、どうしたの河鹿? 今日は部活、行かないの?」 「うん。……どうしようかと、思って」 鏡子に渋い笑顔で答える。早く帰って夕希と看病を代わるべきなのだが、あの二人のため を思うなら、適当に時間を潰してから帰る方が良いのかもしれない。 迷っている河鹿に、今度は横田と苅野が声を掛けてきた。 「よう、どうしたの?」 「あれ? そっちこそ、どうしたのよ」 鏡子に問われ、横田が首を傾げる。 「そのジャージよ。これから何かあるの?」 「ああ、これ? 今から部活でさ。久し振りに自主的な筋トレでもしようかと――」 「ちょっと待て。横田って、何部だっけ?」 変なことを聞くんだなという顔で、横田は鏡子に答える。 「知っての通り、科学部だ」 「……どうしてそれで、筋トレする必要があるのよ」 「いいじゃないか、科学部が体を鍛えたって。むしろ、色白もやしの眼鏡集団って、偏見に 歪んだ想像をする方が恥ずかしいぞ。 そもそも科学ってのは体力勝負な面があるからな。二三日、徹夜で実験したり、ひどい時 には何ヶ月も研究室に泊まり込むのだって当然だ。だから――」 「高校の科学でそれはないだろう。要は、適当に薬品を混ぜ合わせて爆発させても大丈夫な ように、体を作っておくんだろ?」 こちらは学生服のままの苅野に評され、横田の手が彼を捕まえようと宙を走る。そのうち、 子供っぽいじゃれ合いを続けながら、横田が問うた。 「ところで、まだ部活には行かないのか? できれば、いつもみたいにサイクリング部(そっ ち)のトレーニング器具を貸して欲しいんだが」 「あー、うん。それがね……」 意味のない言葉を連ねながら、そっと鏡子は河鹿を伺う。確かに、運動系のくせに鷹揚呑 気が売りで、他の部員達と顔見知りだとは言え、部外者の横田がサイクリング部の備品を使 うなら、正部員の鏡子か河鹿が間に入った方が良い。しかし相方の河鹿は視線にも気付かず、 自分の世界に籠もっている。 何度も繰り返し重ねた考えを、再び河鹿は積み上げていた。 夕希さんには悪いが、折角の好意だ。変に遠慮をするより、有り難く甘えておこうか。今、 急いで自分が帰ったところで、大した意味はない。それに、その間に兄ぃが面倒を掛ける可 能性と、二人が楽しく過ごす可能性とでは、心持ち後者に軍配を上げたい。 いや、そうとも限らないかもしれない。夕希さんはともかく、朴念仁の兄ぃのことだ。ひ たすら恐縮し、二人きりに耐え切れず、自分の帰りを待ちわびていることも有り得る。 「河鹿?」 まあ、あの兄ぃにはそれも良い薬かも知れないけど―― 「稲荷、どうかしたのか?」 それで夕希さんが不快な思いをするのだけは避けたいし―― 「キツネ、それはやっぱり恋だなっ」 それに、虫の知らせというのか、何となく嫌な予感がしなくもない―― 「ごめん」 そう笑顔を浮かべると、河鹿は迷いを吹っ切った。鏡子と横田、それに減らず口を力ずく で塞がれかけていた苅野が、いつも通りに戻った彼女の顔を見る。 「お待たせ。さあ、部活に行こう」 河鹿は兄を見捨てた。 もう、そんな歳でもないはずなのに。 照れくさいそんな思いとは裏腹に、紛れもない興奮で目を見開き、夕希は渓一の本棚から 拝借した本を読んでいた。 最初に見つけた時には、渓一にこんな趣味があったのかと、ちょっと意外に感じたが、幾 らも読み進めないうちに、恥ずかしくも自分までもが夢中になっていた。 「ハアッ……」 文章を追うことに集中し過ぎて、熱い吐息をこぼしたことにも気が付かない。 「凄い……渓さん……」 思わず、呟く。高校生の頃から、有名無名を問わず、どこからともなく面白い本を見つけ 出してくる渓一だったが、その能力は今もって衰えていないらしい。夕希は貪るかのように、 その小中学生向け児童文学の文章を追った。 確かに子供向けだけあって、言葉は分かり易く、話の展開は単純だ。だがそれは手を抜い た結果ではなく、鍛え上げられた肉体や、限界まで追求された機械が持つ、無駄を一切削ぎ 落とした、真髄とも呼べる単純さである。たった一種類の楽器のためだけに作られた無伴奏 曲にも似て、誤魔化しの効かない旋律を美しく連ねながら、他の何物にも、しかとは表現で きない世界をそこへと紡ぎ出す。 もはや行間を読むとか、文章がどうだというレベルではない。ただただ言葉の奔流に、夕 希は流され続けていた。 冬の乾いた陽射しが、窓を抜け、柔らかく夕希の周囲に降り注ぐ。普段、渓一が仕事に使っ ている座卓に、自分の好きな紅茶を満たしたコップを置き、彼の座布団を借りていると、何 やら自分の指定席にいるようで落ち着いた。こざっぱりまとめられた机の上や、露骨ではな い程度に日光を採り入れている位置関係に、自然と染み込んだ使い主の気配を感じる。 そんな雰囲気に囲まれ、夕希は本の世界に没頭していった。話はいよいよ最後の大詰めに 近付いている。どうしようもなさそうだった問題を何とか乗り越え、達成感と開放感に浸っ ている主人公達。だが、そこにじわじわと忍び寄る破滅の手には、まだ誰も気付いていない。 読者だけが、確実に迫るその時を、否応なく直視させられている。 ――覚えとけよ、坊主。誰も、その時が来るまでは気付かねえもんなんだ。そいつが、深 く関わっていればいる程にな。 唐突に、地の文に冒頭で酔っ払いが呟いた言葉が紛れ込む。 唾を飲み込み、喉の渇きを覚えた夕希は、無意識に紅茶へと手を伸ばした。 資料や、冬飼が持ってきた大きな茶封筒のすぐ脇に置かれたコップの、ほんの少し斜め横へ。 職場で派手なくしゃみを一発とばし、冬飼はかなり真剣に考え込んだ。 ――さて、誰の噂だ? いつもなら女の子を優先的に考えて回るが、今回は別に筆頭候補がいた。彼に手渡したも のを思い出し、喉の奥で意地の悪い笑い声を立てる。 また一つ、小さなくしゃみをするまで、冬飼はその楽しい想像に耽った。 「ただいま――っ」 いつもより大きな声を上げ、河鹿は玄関をくぐった。 「お帰りなさい」 階段を降りてきた夕希の笑顔に、河鹿は小さな紙箱を差し出した。 「夕希さん、今日は本当にごめんね。これ、お土産。一緒に食べよ」 「有り難う。これ、佳月の?」 「うん。今月の和菓子だって」 そう言って靴を脱いでから、思い出したかのように付け足す。 「それで、兄ぃは?」 「それが……」 ちょっと恥ずかしそうに口籠もる。 「渓さんは、朝に飲んだお薬が効いたみたいで、ずっと寝ているだけなんだけど……」 「ん? どうかしたの?」 「渓さんの部屋で私、御茶をこぼしちゃって……」 兄ぃの顔にでもかけたの、と笑いかけて、夕希の言葉に続きがあることに気付き、河鹿は 口を閉ざす。 「……それで、机の上の紙袋を濡らしちゃってね……悪いとは思ったんだけど、中味を出し て拭いたの。今、乾かしているところなんだけど……」 「紙袋?」そこで、ぴんと来た。 「……ひょっとしてその中味って、色々な本……」 「あれ、河鹿ちゃん、知ってたの?」 大当たり。最悪の結果に、顔面蒼白になって河鹿は笑う。冬飼が来た後に置いてあったの だから、気付いて然るべきだった。彼の出版社の本だけならまだしも、今回はさらに兄の新 著『天然きゅうり』が入っているはずだ。 そんな河鹿の顔を見て、夕希も名状しがたい笑みを浮かべる。 「驚いちゃった。――渓さんも男の人だから、そういうのを読んでいても、ちっともおかし くはないんだけど、でもそれでも……あんな凄い趣味があるなんて、思わなかったから……」 言っていて、夕希は自分で顔を赤らめる。 違うの、あんなの書いてるけど、それは別に兄ぃの趣味じゃなくて、と河鹿が大声でフォ ローを入れる前に、彼女が続ける。 「本当にびっくりしちゃった。――あんなのをお見舞いに持ってくる人って、ドラマや漫画の 中だけだと思っていたから……」 「……え?」 その呟きに、夕希が首を傾げる。慌てて河鹿は言いつくろった。 「ああ、やっぱりそうだよね。本当にいるとは思わないもんね」 「うん。男友達って、そういうものなのかな」 「さあ。でも、半分冗談なのかも。冬飼さんだし」 名前を言ってから、しまったと思ったが、すぐに、まあいいかで河鹿は片づけた。 「それじゃ、今着替えてくるから。ちょっと待っててね」 そう言って、二階へと駆け上がる。途中、『ただいま』と小声で兄の部屋へ顔を出す。寝て はいるものの、その顔色は大分良くなっている。ほっと胸を撫で下ろしながら、河鹿は兄の仕 事机へと寄った。 「……確かにこれは……」 凄い趣味だ。直輸入ものなのか、裏本と呼ばれるものなのか、モザイクなしで女性達があん な事やこんな事をくんずほぐれつ、道具まで使って濃厚にいたしている写真雑誌が数冊、濡れ てでこぼこと成った表紙を上に並べられている。どうやら、それらが袋の上部に入っていたた め、下の渓一の新刊小説といったソフトなものは、夕希の目を免れたらしい。 渓一の本だけでも隠そうとした河鹿は、ふとそれらの隣に並べられた、一枚の紙に気が付い た。これが最も紅茶を吸ったようで、変色の度合いと範囲が大きい。 そこには、明らかに渓一とは異なる筆跡で、『見舞いだ。たまには、こういうも読んでみろ。 礼はいらんぞ』と書かれていた。 「なるほど、これの御陰か……」 この時ばかりは、河鹿は冬飼に感謝した。 「……風邪かなぁ」 冬飼は、再び出た小さなくしゃみに、不安げに呟いた。