Web説法
仏教を学び、実践する者として
天台宗 東雲寺 大乗峰 伊吹山寺 住職 吉田慈敬
 死がわからない
 小衲の僧侶としての発心は、自身の交通事故と祖母の死であった。
 北海道生れの小衲は、高校時代を比叡山高校で過ごした。寺の生まれでもなく、親は一檀家として仏教徒ではあったが、確たる信仰心があったわけでもない。厳格な校風で知られていた比叡山高校ならば、下宿生活も安心できるという親の思いがあった。朝礼での「般若心経」読誦、10分間の止観(座禅)と仏教の授業。年に一度の三塔巡礼(比叡山の諸堂を巡る)。今思い出すと、一年生のときに、伝教大師の『願文』の話しを聞いた。真面目な高校生とは言えないが、友人等には恵まれ、卒業。大学も遊びとアルバイト三昧ながら4年で卒業した。
 その後帰郷して就職。学生時代に交際した、寺生まれで寺だけには嫁にいかないと宣言していた九州生れの女性と結婚し、ささやかながら順風満帆に見える日々であった。
 ところが結婚半年目、交通事故に遭い、頚椎帯骨折で長期入院。加害者とその周りの人間関係で人間不信にも陥った。そのうえ、看病疲れからきたのであろう妻の同時入院と、一度に不幸が訪れた。重症ではあるが、3ヶ月を過ぎると病状も安定し、体調がいい日もあった。そんな廣_で考えるのは、「人間の幸・不幸」「人間とは」「心とは」等々。時間は充分にあった。
 治りたい一心で、針、カイロプラクティック、少しでもよいと聞くと九州までも出向いた。最後にここまでだと諦めたのは、北大病院で精密検査の後、「生まれたときからそういう身体の人もいる」という医師の一言であった。
 そんなころ、祖母が同じ病院に入院。三度の危篤の後、医師と看護婦、そして小衲に見守られ、その人生を終えた。
 安らかな死であった。車で帰宅する間、小衲が抱えていたが、その身体は小さく感じられた。
 家に着くと、叔父、叔母、祖父がすでに迎えの準備をしていた。菩提寺のご住職が早朝にもかかわらず枕経にかけつけて、懇ろにお勤めをしてくれた。そして遠方からも親戚が集まり、通夜。僧侶の読経、法話、親類・知己の悔やみの言葉と、あっという間に時が過ぎ、翌日、葬儀となった。祖母とのさまざまな思い出が浮かんできたのは、亡骸を荼毘に付している間であった。
 人の死をこのように身近で経験したのは初めてだった。「祖母はどこへ行ったんだろう」。ご住職に尋ねると、「西方十万億土に極楽があり、そちらに旅立たれました」。
 ああそうかと変に納得し、高校時代に習った「般若心経」を読み、妻は実家で習った「正信偈」を唱えた。だが、日が経つにつれ、極楽とはいったいどこか、阿弥陀如来とは、十万億土とはどのくらいの距離なのか、等々疑問がわいてきた。
 仏教書を求め、読んでいると、そうかなと思うが、数時間もすると、疑念でいっぱい死なって杷。法蔵菩薩が四十八の請願をたて、願が満ちて阿弥陀如来になられたとするところなど、「なんで請願が満ちたんだ。それなら、世の中に苦しむ人も悩む人もいないだろうに。そんな馬鹿な話がどこにある」と本気で考えた。
 ここで「死」が納得できなければ、このまま小さな幸を続けても納得できない、という強い思いがあった。周りの人に「仏教を学びたい」と相談すると、異口同音に「何で?」と言われた。修行すれば何かがわかる気がした。職業にする気はなく、知りたい、納得したいの一心だった。当時住んでいた小さい自宅を売却し、高校の恩師が「君にはいい」と薦めてくれた、解行の双修の叡山学院に進んだ。

仏教を学ぶ

 叡山学園で得度を受け、法名を慈敬とつけていただいた。学院には当時、各宗から諸先生が出向され、浄土宗、浄土真宗の先生もおられた。「先生、阿弥陀さんているのですか、見たことはありますか」等、唐突な質問をぶつけては諸先生を困惑させていた。ついた徒名は「極楽トンボ」。極楽のことばかり聞いて歩いたからかと思う。
 ある日、そんな小衲の話を聞かれたのか、師僧が「慈敬、天台では『唯心の浄土、己心の弥陀』と言う。今のお前には難しいだろうけどな。一生懸命勉強しろよ」とおっしゃった。信心も持てず、解悟する能力もない自分には、その言葉の真の意味は理解できないものであった。
 師僧の持坊は比叡山の横川院内の華蔵院で、毎月3日、四季講堂での院内講がある。師僧は小衲にお大師さんの手伝いを薦めてくれた。四季講堂は看経地獄と比叡山の三地獄に数えられる所だ。小僧の小衲にとって、見るもの、聞くものすべてが初体験だった。
 不思議だったのは、葬儀をしない、死者を主とする仏教でないことだった。師僧も生涯を通して葬儀の導師は3度のみだった。それまで、仏教というと葬儀、法事、何となく訳のわからないものというイメージがあったが、全く違うものだった。「イワシの頭も信心から」の言のように、よく信心が第一だと言われるが、私には何を信じてよいものかという疑問があった。
 ところが、この横川での体験が、その疑念を解決する糸口を与えてくれた。仏教は、本来は「覚心」であり、自分の心(仏性)に正しく目覚めることである。釈迦以来、多くの先達が人間として生まれ、人間として目覚められた事実がある。これを如来とも菩薩ともいう。この事実を、私どもも認識し、大変なことではあるが、我々もなれる、その事実を信じる。そのために努力すること、生涯を通じて努力し続けることが大事なのではないかと。そして、自己をまず見つめ直すことが大切で、一に掃除、ニ・掃除、三・掃除、四、五がなくて六・看経と、小僧の頃は先輩の小僧さんに教示された。その掃除を通じて、自分を少しは見つめ直せたかとも思う。
 比叡山行院での加行(天台僧として、一番初心の者がする行)は、小衲にとっては物珍しさと好奇心が半分だった。
 そこで学んだのは、自身の情けなさ、座ることすらできない自分、理屈ではないこと、そして愚かな自分との出会いであった。知らぬこととはいえ、行院長はじめ諸先生、諸先輩に多大の迷惑をおかけした。
 行院の遂行の後は、生まれて初めて、自分なりに学び、それなりの努力をしたと思う。研究科、専修科、あっという間に卒業の時期を迎えた。卒業後は、社会にもどり、働くと決めていたが、師僧が「勉強を続ければ」と、現在入寺している寺にお世話してくださった。

僧侶として

 檀務の中、多くの方の死に、今度は僧侶として係わり、法務としての法事、行事に日々を過ごしている。
 葬送も、伝法を受けたように一分の違いもなく修法させていただいている。出発点で考えた、訳がわからなく見えたものは、一つ一つ長い伝統としきたりのなかで意味があり、謂れのあることだった。
 しかし檀信徒の方々はどうであろう。ュ恐らく小衲が最初に抱いたような疑念をもち、ひょっとすると疑念すらもたず、儀礼として仏教を甘受しているのかもしれない。否、仏教というよりも、それ以前の死者儀礼という他界観としての儀礼なのかもしれない。
 当地には、「寺ごと、村ごと」という言葉がある。「あたらずさわらず適当に」との意味だそうだ。長い封建社会のなかで考えられた言葉であろう。寺・住職は権威であったらしい。今も畏怖と権威は、残り火が消えんとしつつも残っている。何となく逆らうと悪いことがあるのでは、葬式には世話になるのだから…。僧侶を招いて、枕経、通夜、葬儀、中陰法要、年回法要をすれば、極楽に往生できる。生前の罪業が消え、善根を積むことができ能。人間だからしかたがない、そのために仏がいるのだから……。本当だろうか。
 入寺して間もない頃、夕方の寺の鐘つきに近所の子供が来ていた。「おしょうさん、ぼくこんど一年生になるので机を買ってもらった」と実に嬉しそうに話してくれた。そんなに裕福な家ではなかった。その家で法事があり、机が買える以上のお布施をいただいた。やっとのことで机を買ってもらったであろう子供の顔が浮かんだ。
 仏教を大衆化し、儀礼化する過程で、大衆の心根を汲み取り、その安心のためにマニュアル化した先達の努力は大変なものであったと考える。「少欲知足」などの教えも大変立派なものだった。しかし、それは、為政者のためであったり、まして僧侶のためのものであってはならない。
 老人会などにお話に行くと、小衲はよく「死」の話をする。二度とお呼びがかかることはない。せっかく死ぬことを忘れていたのに……ということらしい。
 そういう場で「ウケる」話とは、耳ざわりのよい、年寄りを賛美し、いつまでも元気で長生きしようというメッセージらしい。多くの人は「死」を直視したがらない。避け、忌み嫌う。
 人は死に際し、二つの不安がある。一つは、死んだらどうなるのか。「死んだらおしまいよ」と言いつつも、何かしら不安は残る。苦しかったら、痛かったら…。どこへ行くのか。本当におしまいなのか。僧侶は自信をもって答えなければいけない。お任せなさい。仏さんがいてくださると。心配しなくていいと。だから今を生きなければと。
 二つ目は、死んだ後、残された者はどうするのか。特に若くして病になり、死ぬことがわかった人。これは簡単に解決することではない。でも、もし自身の心に覚悟があれば、共に泣き、悲しむしかない。
 今年の一月から月一回ほどのペースで「お寺で学ぼうリヴィングウィル」と題して、参加者が互いに学びあうワークショップをスタートした。寺にはこれまで縁がなくても、テーマに関心をもつ人々の学びの場としても活用していただけたらと考えている。
 また、永代供養墓を計画している。
  縁起を知る者は法を見る
  法を見る者は佛を見る
 の言葉のように、生死を超えて「佛」としての生命の集える場にでき太と考え、「北びわこ安穏廟」として、新潟・妙光寺の小川英爾師より認可いただいた。特に故郷を「終の住処」とできなかった者たちが、かくいう小衲もそうだが、寄り添える場ができればと思っている。
 仏教は「覚心」を目指すものであるが、残念なことに、小衲にはその力がない。一人一人が意識し努力する以外には方法がない。そんなことを考える時の「心の道場」として、日本の中心である伊吹山寺(15年前に復興)の山頂「覚心堂」と山下「発心堂」が今夏完成予定である。
 伝教大師は、「遺戒」の中で
  我が為に佛を作る勿れ、
  我が為に経を写す勿れ、
  我が志を述べよ
 と。人それぞれにドラマがあり、人、一人一人に生命がある。生きとし生ける者すべてが互いに認め合い、真の善なる心を述べ伝え続けられる場にと考えている。
 理想と現実のギャップもある。しかし、テレビのニュースを見ても、新聞を広げても、「今こそ宗教者として行動を起こせ」と、背中を押されているような気がする。たとえ、非力であろうと、師僧が大切にされた「縁」と皆様のお力をお借りして、
 
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