春の朝



 日記など学生時代以来数十年書いた事がなかったが、今度の出来事はどうにも書き留めておかなければならないという気になった。
 私はずっとごく平凡な日々を送っていた。しっかり者の妻と年頃の娘と暮らす「ささやかな幸せ」というものを満喫していた。
 一年前のある日、娘が「不思議な生き物が見える」と言い出すまでは。
 まもなく娘は女王候補として聖地に迎えられた。
 カタルヘナ家のような名門ならともかく、うちのような普通の中流家庭で、突然、あなたの娘が宇宙を統べる女王になるかもしれない、と言われたらただ驚くしかないだろう。ましてや、この宇宙とは違う次元にある新しい宇宙の女王ともなれば。
 我々にとっては目に入れても痛くないほど可愛い娘だが、とりたてて取り得も無い普通の女の子だ。無事に試験をこなせるのだろうかとやきもきし、おろおろと祈るように過ごす数ヶ月だった。聖地は同じ主星にあり、さほど遠くないとはいえ、試験中は会う事もかなわない。時折娘から届く便りには、元気でやっているから心配しないようにと書かれていたが、具体的な試験の状況にはあまり触れられていなかった。
 まもなく娘が育成を成功させたという知らせが入り、まさかあの子が女王になるとは、と驚き喜んでいたが、すぐさま娘が女王の座を辞退したと聞かされ、何倍も驚く羽目となった。無論我らも凡人だから、目の前にぶら下がっていた地位や名誉を失う事をひどく惜しく思った。だが、娘が手の届かない遠くへ行ってしまわずに済んで、少しほっとしたのも事実だった。数日経ち、ようやく落ち着いた我々夫婦は、娘には娘なりの考えがあって自分の進む道を決めたのだろうから、戻ってきたら暖かく迎えてやろうと話し合ったのだった。

 そんな折、娘からの手紙が届いた。夕食後のリビングルームで妻から未開封の手紙を渡された私は、封を切り、花や唐草の透かしの入った淡い色の便箋を取り出して、夫婦で顔を寄せて見慣れた娘の手蹟に目を落としたのだった。

 「お父さん、お母さん、お元気ですか」

 娘の手紙はいつもと同じ文章で始まった。

 「せっかく私が女王に決まったのに、辞退してしまって、さぞかしがっかりしていることだと思います。みんなの期待に応えられなくてごめんなさい。でも、私は後悔していません」

 私は無意識に頷いた。妻もかすかに首を動かしたように思う。
 が、次の行を読んで、私は目を見開いた。

 「実は、私は聖地で好きな人ができました。その人も私の事を愛してくれています。私は女王になるよりもその人と生きる事を選びました。私は今とても幸せです」

 我々は顔を見合わせた。
 手紙は更に続いていた。

 「彼がお父さんとお母さんにぜひ挨拶をしたいと言うので、月末の日の曜日に一緒にそちらに帰ります。彼に会ってください。よろしくお願いします」

 この後、私がいかにうろたえ、妻がいかにわめき続けたか、ここには書くまい。
 とにかく瞬く間にその日は訪れたのだった。

 ヒステリーと虚脱を三日ずつ続けた後、ようやく平静を取り戻した妻は、家の中を磨き上げて娘の帰りを今や遅しと待っていた。
 昼少し前に呼び鈴が鳴った。
 妻と二人で玄関に飛んでいくとほぼ一年ぶりに見る娘の姿がそこにあった。

 「お父さん、お母さん、ただいま!」

 娘は朗らかに帰りを告げると、我々に交互に抱き着き頬にキスをした。
 間違いなくうちの「ちっちゃな可愛い女の子」が帰ってきたのだ。だが、改めて見つめると、私の知らない大人びた雰囲気がその表情に浮かんでいた。

 「心配かけてごめんなさいね」

 妻は激しくかぶりを振り、もう一度娘の体を抱きしめた。泣き出すのではないかと私は気をもんだ。

 娘はそっと妻から体を離した。

 「手紙にも書いたけど、今日は会って欲しい人がいるの。今そこで待ってもらってるけど入ってもらっていいかしら」

 ついに来るべきモノが来た。私は黙って頷いた。
 娘の背後に長身の青年が立っていた。娘とは十ほど歳が離れているだろうか。髪をきれいに後ろになでつけ、細縁の眼鏡をかけた、いかにも折り目の正しそうな若者だった。かなり緊張しているのか、頬を紅潮させ、ぎこちなく口を開いた。

 「初めてお目にかかります。私は王立研究院の主任研究員を勤めさせていただいております、エルンストと申します。本日はお嬢さんのことでお話があって伺いました」

 見た目から容易に想像できる通りの堅苦しい口の利き様だった。私は顔に浮かびかけた苦笑いを隠しながら、立ち話も何だからと二人を家の中に招き入れた。

 客間のテーブルを挟んで私はエルンストと名乗る青年と向かい合った。娘は彼の隣にいかにも心配げに座っていた。
 妻の勧めた紅茶に二口ほど口を付けると、青年は静かに息を吸い込んでから意を決したように切り出した。

 「本日伺ったのは、お嬢さんとのお付き合いを、御両親に認めていただきたいと思ったからです。そして、ゆくゆくはお嬢さんを私の妻に迎えたいと思っていますので、そのお許しもいただければと思います」

 ある程度覚悟していたとはいえ、いきなり結婚の申し込みを切り出され、私も妻も口を開く事ができなかった。沈黙を破ったのはまたも青年の声だった。

 「ご存知と思いますが、お嬢さんが女王の地位を辞退したのは私の所為です。私のような一介の研究員のために、このような事態に至った点に関しては、どのようにお詫びしても足りません。本当に申し訳なく思っています。ですが、私は自分のできる限りの力を尽くして、お嬢さんを幸せにするための努力をすることを誓います」

 私は青年の顔を眺めた。彼の眼鏡に窓から入る陽射しが反射して表情を読み取る事ができなかった。私はおもむろに口を開いた。

 「この子は…親から見てもこれといって取り柄の無い、器量も人並みの普通の娘です。貴方はいったいこの子のどこにそれほど惹かれたのか、聞かせていただけますか」

 青年は初めて口元を緩めた。

 「私はお嬢さんから人を愛する喜びをもらいました。私は、幼い頃からずっと研究院の壁の中に閉じこもり、資料とデータに囲まれて、人と触れ合う術を知らず、人間らしい感性を持たずに過ごしてきました。ですが、お嬢さんに出会って、私は人と語り合う楽しさを、微笑みのぬくもりを、人を待つ心のときめきを知ったのです。私はお嬢さんに心から感謝しています」

 彼の訥々とした語り口は不思議と真実味を帯びていた。だが、私はそこで渋面を彼に対して向けた。

 「エルンスト君…でしたね。今お幾つですか」

 「27歳です」

 「娘とは一回り歳が違うようですが…。女王候補騒ぎなどありましたが、娘は本来まだ学校に通っている年頃です。私たちは試験が終われば、娘をまた聖スモルニィ学園に通わせる積もりでいました。少なくとも卒業するまでは、まだ男性とお付き合いをするには早いと思います」

 「御両親が手放しても良いと思われるまで待ちます」

 青年の言葉に我々は虚を衝かれた。

 「御両親がお嬢さんを、もう独り立ちしても大丈夫と認める時が来るまで、何年でも待ちます。…試験の間、育成が終わる日を祈るようにして待ち続けた日々の長さに比べれば、十年だって長くありません」

 「お申し出は嬉しいのですが、娘はまだ幼いのです…」

 私は一瞬言い澱んだ。

 「大変失礼かもしれませんが、数年経つうちに娘が他の男性に出会って恋をするかもしれません。そうなったら貴方はどうしますか」

 「お父さん!!」

 今まで黙っていた娘が声を上げた。が、青年が片手を上げて娘を制した。

 「その時は、私がそれだけの人間だったという事です。お嬢さんにとって、選ぶだけの価値の無い…。ですが、お嬢さんが女王の座をあきらめた責任は、一生私が負わなければなりません。私の思いつく限り、できる限りのことをして一生涯かけてお詫びするつもりです」

 私は再び青年の顔を見つめた。陽射しの向きが変わったのか、眼鏡の奥の瞳が見えた。灰緑色の瞳は優しい光を湛えていた。

 不意に妻が鳴咽をもらした。

 「この子ったら、子どもだと思ってたのに何時の間にこんないい人見つけて…」

 妻はすぐ顔を上げ、鼻をすすって笑顔を娘に向けた。

 「女として男の人にこれだけ思われるほどの幸せはないわよね?」

 私はひと息吐き出すとソファの背に身を預けた。

 「エルンスト君、娘が卒業する時にもう一度会いましょう。その時、結婚について娘と話し合ってください」

 「お父さん、それじゃ…」

 「私にはもう何も言う事はない、お前達の問題だ」

 「それでは、私たちの仲を許していただけるのですか」

 エルンストはまっすぐな視線を私に投げてきた。私はわざとその視線を外し、独り言のようにつぶやいた。

 「聖スモルニィでは外出許可は帰郷目的じゃなくても取れるんだったかな」

 娘はぷっと吹き出した。

 「娘をよろしくお願いしますね。エルンストさん」

 妻が頭を下げた。

 「本当にありがとうございます」

 エルンストも深々と、それこそ額をテーブルにこすらんばかりに礼をした。

 娘が彼を送りに出て、夫婦二人きりになると妻がため息交じりにつぶやいた。

 「…割合、好青年だったわね」

 「…そうだな」

 「正直いってあの子が聖地でどんな悪い男にたぶらかされたのか、って思っていて、もし変な奴だったら箒で叩き出すつもりだったんですよ」

 「そりゃあ、大変だ」

 「でもまあ、王立研究院の主任さんだったら、よそへの聞こえもいいし、女王ほどじゃなくても、そんなにひどい暮らしをせずにすむでしょう。」

 私は妻の世俗的な意見に心の中で白旗を上げた。
 女と言うものは…いやいや、ここには書くまい。
 世は全て事も無し、だ。







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