RAPUNZEL





 昼なお暗い、うっそうとした森の中に立つ白い石造りの塔。装飾めいたものは何一つ無く、入り口も階段らしきものも見当たらない。高い塔の上部に刳り抜かれたように開いたただ一つの窓から、ちらちらと人影が覗き、細く優しい歌声が馴染みの無い、だがどこか懐かしい唄を響かせている。
 塔の下には深緑のローブを纏った魔女が腰を屈め立っている。
 こちらを振り向いたその顔は…。



 その話題がでたのは極些細なきっかけ…そう、たしか食べ物の好き嫌いの話からだった。

 毎日の業務からこぼれ落ちる些末な仕事を片付けるため、日の曜日に王立研究院に一人出てくるのが半ば習慣になっていた私のもとを、何時の頃からか女王候補アンジェリークが訪ねてくるようになった。とりたてて緊急性を持つ用件がある訳でもない。彼女の持参する手焼きの菓子でお茶の時間となり、他愛のない会話を交わすのが常だった。低く唸りを上げる機械の間を漂う甘い香り…そんな不釣り合いな情景が何時の間にか私にとって馴染みのあるものとなっていた。
 「私、小さい頃野菜が苦手だったんです。特に青野菜って、ちょっと苦くないですか?食べず嫌いなところもあったんですけど、サラダなんかいつも残していたんです」
  少し恥かしそうに、そしてどこか悪戯っぽい笑顔を浮かべながらアンジェリークは小さな秘密を告白した。
 「でも、童話の『ラプンツェル』を読んだら、チシャがなんだかとてもおいしそうに思えてきて…。食べてみたらやっぱり少し苦かったんですけど、それから割となんでも平気で食べられるようになったんですよ」
 「『ラプンツェル』とはどのような話なのですか?」
 「エルンストさん、ご存じないんですか?」
 「恥ずかしながら」
 「いいえ、そんなことないですよ。男の人ってあまり童話を読まないそうですから」

 彼女が語った物語の概略はこうだった。

 まだ腹の中にいる頃、母親が魔女の庭に植えられたチシャを強く欲したため、それと引き換えに生まれてすぐ魔女に連れ去られた女児はラプンツェル(チシャ)と名付けられる。美しく成長したラプンツェルを、魔女は森の中の入り口も階段も無い塔に閉じ込める。魔女がラプンツェルを訪れる時は、塔の下から呼びかける。
 「ラプンツェル、ラプンツェル
  お前の髪をおろしておくれ」
 するとラプンツェルは長い金色の髪を窓からたらし、魔女はそれをはしごに塔に登る。
 ある時王子が森を訪れ、塔から聞こえるラプンツェルの歌声に惹かれ、魔女が塔を登る一部始終を盗み見、真似をする。やがて、些細なことでラプンツェルのもとに男性が通っていることに気付いた魔女は大いに怒り、ラプンツェルの髪を根元から切り落とし、追放する。王子は魔女の罠にかかり、塔から落ちて失明する。盲目の身で長くさすらっていた王子は、ある荒野で懐かしい声を聞く。ラプンツェルの流した涙が王子の目に光を取り戻し、二人は幸せに暮す。

 「私、このお話を読んで長い金の髪にすごく憧れたんです。自分の髪は全然違う色だから…」
 そう言ってアンジェリークは肩先で切り揃えた栗色の髪を一房つまんでみせた。
 「私もレイチェルのような綺麗な金髪だったらよかったなって、実は今でも少し思ったりするんですよ」
 そんなことはない。アンジェリークの髪は遠目にもクセが無く艶やかで、なによりその柔らかく深い栗色は彼女によく似合っている。
 が、私は
 「いえ、そんな…」
と曖昧に言うだけだった。
 その言葉をどう受けとめたのか、アンジェリークはにっこりと笑った。朗らかな笑顔を栗色の髪が優しく縁取る。ふと彼女は小首を傾げ考え事をする顔つきになった。
 「ただ…ちょっと最近になって思うんですけど、魔女はラプンツェルを追い出した後、寂しくなかったのかしら?」
 「は?」
 私は彼女の発想の飛躍についていけなかった。
 「ええっと、だって、別に魔女はラプンツェルをいじめたりとか、ひどい目に遭わせたりしたわけじゃないでしょう?ただずっと自分の手元に置いておきたくて、誰も近付けたくなかっただけで」
 私はその件に関してはなんら適切な見解を示すことができなかった。代わりに口にしたのはこんなつまらない言葉だった。
 「架空の物語に対してそのように真剣に思いを巡らせるとは、女王候補としてはいささか幼過ぎますね」
 「…そうでしょうか」
 アンジェリークは軽く頬を膨らませた。
 その様子がいかにも幼く見えたので、私は思わず苦笑を浮かべてしまった。だが、童話の登場人物の心理について真剣な瞳で私に問い掛ける彼女のことを、微笑ましく思う自分も確かに存在していたのだ。

 このような他愛のないやりとりを私が事細かに覚えているのは、それが女王試験の終了を強く意識し始めた頃だった所為だろうか。序盤こそもう一人の女王候補レイチェルに大きく水をあけられていたものの、アンジェリークの育成状況は加速度的に向上していた。日ごと増殖し続ける惑星によって新宇宙が満たされるのも時間の問題であった。あと何回このような会話を交わすことができるだろうかと…私は自分でも自覚しないうちに、どんな些細なことも胸に刻んでおこうとしていたのかもしれない。



 昼なお暗い、うっそうとした森の中に立つ白い石造りの塔。装飾めいたものは何一つ無く、入り口も階段らしきものも見当たらない。
 高い塔の上部に刳り抜かれたように開いた、ただ一つの窓からちらちらと覗く人影は…栗色の髪を揺らしていた。
 塔の下には深緑のローブを纏った魔女が腰を屈め立っている。
 こちらを振り向いたその顔は…私のものだった。



 叫び声を上げそうになり、私は目覚めた。
 暗い室内に視線を彷徨わせながら私は荒く息をついた。背がじっとりと冷たい。
 もう何度も…同じ夢を見ている。あの時、あの会話を交わしてから…。
 夢というものは心の奥底に押し込めた思いを容赦なく暴きたてるのだという。
 塔の下に立つ私の顔をした魔女…。
 私は…アンジェリークを誰の手も届かぬ場所へ閉じ込めてしまいたいと…誰にも渡したくないと、胸の奥で望んでいるとでもいうのか。

 私は自分が仮眠をとっていたことを思い出した。
 宇宙の誕生という壮大な劇のグランドフィナーレが目前に迫っていた。新宇宙の最終的な臨界を自動的に宮殿に通報するシステムは早々と出来上がっていたが、王立研究院では一昨日から夜間も職員が交代で待機している。
 私は眼鏡をかけ、時計に目を凝らした。そろそろ交代の時間だ。

 メインルームの照明は低く抑えられていたが、いくつものモニターが発する光が青白く部屋を染めていた。この数ヶ月酷使され続けてきた種々の機械が相も変わらず唸りを上げ、異空間に設置された計器類から絶えず送られてくるデータをひたすら記録、解析し、結果を表示し続けている。
 私は最も大きいモニターの前に座っていた研究員に声を掛け、代わりにその前に陣取った。各種データによって再構成された新宇宙の光景があたかも目の前に存在するかのように映し出されている。二人の少女が持てるすべてを注ぎ込んで育てた宇宙は若々しい力に満ちて輝いている。溢れるエネルギーがモニターから私に降りそそいでくるようだ。
 私はモニターをただじっと見つめていた。その中の光景は私にとって何よりも心躍るもののはずだった。子どもの頃感じた胸の締め付けられるような興奮を、大人になってからも何度も私は宇宙を見つめることで感じていた。だが今、私は唇が酷く乾くような感覚を覚えながら、ただ宇宙の姿に目を向けているだけだった。
 おそらく明日の朝までに全ては終わる。手元のデータから推測すれば、新宇宙の女王となるのは間違いなくアンジェリークだろう。じきに彼女はこの目の前に映し出された遥かな場所へと旅立ってしまうのだ。

 ふっと私は目の前が眩んだようになった。
 今、私の脳裏を横切った考え…
 「アンジェリークを新宇宙に奪われる」などと…
 馬鹿馬鹿しい。
 宇宙という広大無比な存在に対して嫉妬しているというのか、私は。
 
 私は目を瞑った。だがモニターから放たれる眩しい光が閉じられた瞼越しに私の眼球を灼こうとする。
 じっと座っていると、体の内側から何かに食い破られそうだ。
 目を開いた。自分の頬を冷たい汗が一筋流れていくのを感じる。

 私は立ち上がり、モニターの電源を切った。ブン…と軽い音がして目の前の宇宙が消える。モニターはわずかの間青白い光を残していたが、すぐにただの冷たいガラス板となった。
 私はメインルームにある計器類の電源を次々と落としていった。宇宙の変化を職員に知らせるはずのブザーも、宮殿へのホットラインもすべて切った。
 機械は低い唸りを上げ続けている。新宇宙の計測結果は記録し解析される…がそれだけだ。新宇宙の臨界の瞬間を告げることはできない。次の交代の研究員が数時間後に訪れるまでは。

 私は研究院の外に出た。
 ひやりとした空気が私を包む。常に気候の良い聖地には珍しく、どんよりと暗い雲が垂れ込めている。遠く離れた宇宙の変化を息を潜めて待ち望んでいるような、ひっそりとした闇夜だった。

 もっとも重要な業務に対する妨害、そして職務放棄。単に懲戒免職では済まされないだろう。罪に問われることは明白だ。
 だが。
 あれ以上あの場所にいることは出来なかった。
 息をすることさえ…つらかったのだ。

 灯りらしき物もほとんどない黒い夜の中を私はゆっくりと歩いていった。 

 私は女王候補寮の前で足を停めた。建物の裏側に廻り、一度だけ訪れたことのあるアンジェリークの部屋の窓を見上げた。
 当然のことだが全ての灯りは消えている。

 私は何をしようとしているのだろう。
 このような真夜中に女性のもとを訪ねるなど。
 彼女を連れ去ろうとでもいうのか。すでに犯した罪の上に恐ろしい大罪を重ねようとでも…
 わからない。
 わからない…ただ、座してすべてを受け入れることが私には出来なかった。

 彼女を求める私の心が、足をここに向けさせた。
 そのようなことが適う訳はないのに。

 だが。

 私は決して大きくはない声で呼びかけた。

 「ラプンツェル、ラプンツェル。お前の髪をおろしておくれ」

 声は自分でも意外なほど虚しく辺りの空気を震わせ、黒い空に吸い込まれていく。
 …馬鹿馬鹿しいことだ。

 その時暗い窓が開き、人影がのぞいた。
 闇に浮き上がる白い姿。
 夜着姿のアンジェリークが声も上げず、私を見下ろしていた。
 私も黙って彼女を見上げた。
 やがて窓辺から影は消える。
 私はやがて起こるであろういかなる事態も甘んじて受けるべくその場に立っていた。

 再び窓にアンジェリークが姿を見せた。
 カーテンをたぐりよせ、なにやら手元を動かしている。
 まもなく、何か白い物を投げ出した。
 窓から白く一筋垂れ下がったのは、カーテンに結びつけられた、おそらくはシーツ。
 私は手を伸ばし、布のはしごを掴んだ。
 落ちるかもしれない、という考えが一瞬よぎったが、かまわず登り始めた。

 このような行動をとるなど、私らしくない。
 だが、ここでこうしているのが私でないとすれば、ここにいるのは何者なのだろう。

 はしごを上りきり、私は部屋の中に足を踏み入れた。
 アンジェリークは窓のそばを離れ、ベッドの横に立っている。
 闇の中に彼女の白い顔が、首筋がぼんやりと浮かんで見える。
 私は布ばしごを引き上げ、窓を閉めた。
 この期に及んで、そのようなことに冷静に対処する自分が可笑しかった。

 アンジェリークは黙って私の方に顔を向けている。
 睡眠を破るほどに私の声は大きくなかったはずだ。
 闇の中、彼女は目を覚ましていたのだろうか。
 来るべき運命の転換の一瞬を、そっと息を潜めて待っていたのだろうか。

 闇の中、沈黙がのしかかる。
 アンジェリークの無言の視線に耐えきれなくなり、私は口を開いた。
 「貴女は…私を引き上げるべきではなかった」
 我ながらなんという言い草だ。
 「私は、貴女を連れ去ろうとしているのだから。輝かしい場所から連れ去って…。誰の手も届かないところに貴女を閉じ込めて、貴女を独り占めしようとしている醜い魔女なのだから…」

 「いいえ…」
 アンジェリークが初めて口を開いた。
 「いいえ、エルンストさんは王子様です。私を塔から救い出しに来てくださった…」
 あまりにも意外な言葉に、私は黙って彼女を見つめるしかできなかった。
 「女王候補だなんて呼ばれて、多くの人たちに囲まれて…みんな親切にしてくれたけれど…誰も一人の女の子の『私』に近付いてくれなかった…」
 彼女の声は高くも低くもなく、ただ淡々としていた。
 「誰もが私に女王候補としてしか接してくれなかった。エルンストさん、あなたも」
 それは…と声を上げかけて、私は口を閉ざした。彼女の声があまりにも静かだったからだ。
 「女王になってしまったら、もう本当に誰も私のそばに来てくれない。もう誰も…『私』を見てくれる人はいない。高い高い塔の中に閉じこめられてしまう…」
 アンジェリークの語尾が微かに震えた。彼女は目を閉じた。闇が一層深まる。
 「けれど…」
 彼女の目が開かれた。闇の中に輝く蒼い光。
 「あなたは呼びかけてくれた。私は手を差し伸べた。それだけのことです」

 私はただ立ち尽くしていた。
 闇の中に白く浮き上がる肌から目をそらすことができなかった。
 自分の鼓動がどんどんと大きくなっていき、ついにはうるさいほどに耳元で打ち始める。
 「…貴女は…」
 かすれた声が喉から絞り出された。
 「やはり私を受け入れるべきではなかったのだ。夜中に男性が女性の部屋を訪れるという意味を貴女はわかっていない」
 私の意に反して、アンジェリークは怯む様子を見せなかった。変わらず私を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
 「…私、あの時わざと話さなかったんですけど、王子様と再会した時ラプンツェルは男の子と女の子の双子と暮していたんです」
 「それは…」
 私は絶句する。
 「小さい時、私あまりよく解っていませんでした。でも、今は…どういうことか解ります。私、もう…子どもじゃ…ないんですから」
 彼女は初めて私の方に一歩踏み出した。

 私も凍り付いていた足をようやく動かした。

 アンジェリークを間近にし、私は手を伸ばした。彼女の絹糸のような細い、艶やかな髪に指を通し、頬に手の平を滑らせた。なめらかな頬ははっとするほど熱かった。
 彼女は小刻みに震えていた。
 そして、私も。
 「たとえ、罪を問われ追放されても…罰を受け、この目が見えなくなっても…。私は貴女を追い求めるでしょう。貴女が何処にいても、私は辿り着いてみせます」
 私は彼女の肩に手を回し、引き寄せ、抱きしめた。
 波打つ鼓動が私と彼女どちらのものか最早判別つかなかった。
 異なる体温がゆっくりと混じり合いひとつになる。何時の間にか震えは止まっていた。
 私はおずおずと彼女の髪にくちづけた。
 二度、三度。
 彼女は静かに顔を上げた。
 夜目にも蒼く透明な瞳が私を見つめ、ゆっくりと伏せられる。
 その長い睫に私はそっと唇を落とす。そして彼女の唇に。

 やがて私の唇は彼女の首筋を、鎖骨を辿り始める。

 彼女の口から秘やかな声が漏れ始める。

 貴女の歌声をもっと聞かせてほしい。
 たとえ貴女と引き裂かれ、この目に光を失っても…再び巡り会う時のために、その声を耳に刻み込んでおきたい。








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