女王候補寮に向かって歩き始めてまもなく、突然庭園の方角から耳に突き刺さるような風を切る音と、わめき声が立て続けに聞こえてきた。
「な、なんでしょう」
「きっとゼフェル様たちですよ。今朝、ワタシたちの後で山ほどロケット弾を買い込んでましたから」
「あああ、なんということでしょう、こんな大騒ぎをして…。ジュリアスの耳にでも入ったら大ごとになりますよ。ちょっと止めに行ってこなくては。彼女たちのことお願いしますよ、エルンスト」
ルヴァ様はあたふたと駆け出した。
私は二人の女王候補とともにその場に取り残された。
「賭けてもいいけど、ゼフェル様ってば絶対人に向けてロケット弾撃ってますよ」 ぽつりとレイチェルが言った。
「仕様が無いですね。庭園での花火は禁止、などということにならなければよいのですが」
私も小さく溜息をついた。
随分位置の高くなった月に照らされ、カラカラとゲタの音を響かせながら我々三人は歩いていた。単調で規則的な足音がふと乱れたように感じたとき、レイチェルが立ち止まった。
「どうしたの、アンジェリーク」
「ううん、なんでも」
「ちょっと、足。見せて」
レイチェルはしゃがんでアンジェリークの足元を確かめる。
「やっぱり…!マメが潰れてるじゃない。アナタの足ってば随分ヤワなのね。…痛いでしょ?」
「ううん…たいしたこと無いわよ」
「ちょっと待ってて、バンソーコ持ってるから」
レイチェルの手当ての間、アンジェリークは口元を引き結んでいた。
「これで少しはマシだと思うけど…。ちょっと、エルンスト!」
突然名を呼ばれる。
「ちょっと、ぼんやりしてないでアンジェリークに腕貸したげてよ」
「え、あの、私が…ですか?」
「他に誰がいるのよ。アンジェリークが歩くの辛そうなんだから、早く」
「いえ、しかし、…その、背丈からするとレイチェルの方がバランスが…」
「何言ってんの。こーいう時は男性が手を差し伸べるのに決まってるじゃないの。ほら、頼むわよ。こけさせたりしたら承知しないからね」
そう言って私の手からバケツをもぎ取り、さっさと20歩ほど先に行ってしまった。
「あ、あの…」
アンジェリークが当惑したような顔で私を見上げる。
「私、大丈夫です。一人で歩けますから」
「いえ…」
私は首を横に振った。
「レイチェルの言う通りです。足に怪我をされている貴女をそのままにして行くことは男性として許されないでしょう。その…今私がためらったのは、突然のことにとまどっただけなのです。どうか、お気になさらずに。私などの腕でよろしければ支えにしてください」
「でも…」
この際、照れている場合ではなかった。
「さあ、レイチェルに叱られます」
私はアンジェリークの横に立った。彼女はそっと私の袖の端をつかんだ。私たちはゆっくりと歩き始めた。レイチェルもそれを確かめたように前に立って進み始める。
はじめは遠慮勝ちに布地を軽く握るだけだったが、やはり足が痛むのだろうか、私の腕に徐々にアンジェリークの重みがかかってきた。肩の辺りに彼女の艶やかな栗色の髪が目に入る。
沈黙がなにやら息苦しく感じられ、何か話しかけようと思うが、こんな時に育成などの話題を出すのも気がひける。が、他に適当な話題も思いつかず、口を開けずにいると、アンジェリークがそっと声をかけてきた。
「あの…重くないですか?」
「いえ、まったく気にならないですよ。足元が危ないのだから、もっとしっかりつかまった方がいい」
「はい」
私の腕にかかる手にわずかに力が加わる。
「足の具合はどうですか」
「えっと、どうも右足の親指の付け根の皮がむけちゃったみたいで。レイチェルが手当てしてくれたから大丈夫なんですけど」
「どうもこのゲタというものは慣れない人間には履きにくいようですね」
「そうですね」
実は私も先ほどから少し足が痛むのだが、それはおくびにも出すわけにはいかない。
再び沈黙が訪れる。庭園から女王候補寮までさほど長くないはずの道のりが、ひどく遠く感じられる。
レイチェルは時折振り向きながら、つかず離れず我々の前を歩いていく。
ふと横を向くとアンジェリークがこちらを見上げていた。私と目が合うとあわてて顔をそむける。
「どうしました?」
「いいえ、あの…」
「アンジェリーク?」
彼女は顔をうつむけたままだ。
「あの…怒らないでくださいね」
突然怒るなと言われても困るが、私は黙って彼女の次の言葉を待った。
「エルンストさんってとても細身な方だと思ってたんですけど、意外と肩幅があるんだなあって、そんなこと考えて…」
最後の方は消え入りそうな声になった。少しうつむいた彼女の顔を見ることはできない。私は何と答えてよいかわからず、沈黙が覆うにまかせた。彼女こそ思っていた以上に華奢だなどと、まさか口にするわけにはいかないだろう。
ようやく女王候補寮の門が見えてきた。
「あー、もう、すっかり遅くなっちゃった」
大きな声を上げながらレイチェルが駆け込んだ。我々も少し遅れて門をくぐり、寮の管理人の名状しがたい視線を受けつつ建物に入った。
アンジェリークの部屋の前で我々の腕はほどかれた。
「どうも、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、気にしないでください。それより早く薬で手当てした方がよいですよ。明日からの試験に差し障りがあるといけませんから」
「はい、そうします」
屋内の灯りの下でようやく私は普段の口調を取り戻しつつあった。
「しかし、せっかくの息抜きのはずだったでしょうに、大変でしたね」
「ええ、でも…」
アンジェリークはふわりと笑った。
「なんだか…いつもと違ったエルンストさんに会えて、よかったです」
「え……?」
いつもと違うのは彼女の方だ。ユカタを着て立っているのは、見知らぬ儚げな少女。
「送っていただいて、本当にありがとうございました」
そういって頭を下げると、彼女は部屋の中に入った。閉ざされた扉をしばし眺めてから、私は振り向いた。
レイチェルが自分の部屋の前に立っていた。
「ど、どうしたのですか、レイチェル」
「ふふ、送り狼にならないように見張ってたの」
「何を馬鹿なことを」
「でもね、月の光を浴びると気が変になるって言うじゃない」
「非科学的な俗信ですね。貴女らしくもない」
「そうね、でも…」
ふいに口をつぐみ、レイチェルはすっと近付いてきた。
「…ルナティックなのは…」
独り言のように呟きながら、私の袖をつかみ背を伸ばした。
唇が軽く私の頬をかすめた。
「今夜は楽しかったよ」
呆然とする私を尻目に、レイチェルは蝶のように身を翻し部屋へと滑り込んだ。
私は自分の頬を押さえ、今夜何遍目かの溜息をついた。
外へ出れば月はすでに中空にかかっている。
これからルヴァ様のお屋敷へ行って、着替えてこなければ。本来ならクリーニングして借りたものをお返しするのだが、扱いがわからないのでお任せすべきだろうか。
明日になれば、私は衿のついた服で総身を覆い、お堅く冷たい研究員として女王候補である彼女たちに接するだろう。
だが、もう少し、もう少しだけ。月の下を歩く間だけ、月がかけた魔法の余韻に浸っているとしよう。
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