横顔の月



 絶え間なく繰り返される波の音…戦いの連続による心身の疲労を抱えた我々にとって絶好の子守唄となるはずのそれも、私の尖った神経を癒すことはなかった。体にまとわりつく湿気を帯びた熱い空気から逃れるように、私は立ちあがり、眼鏡をかけ、我々にあてがわれた小屋から抜け出した。
 打ち上げられた海藻の匂い…これを潮の香りとでも呼ぶのだろうか…を含んだ湿った風が私の頬と前髪をなぶる。見上げる藍色の空に貼り付いた青白く細い月そのものはそれ程眩しくない。だが、穏やかな小波の一つ一つに三日月が揺らぎ、無数の輝きを天に向かって返している。足元の白い砂さえ月光を受けてほのかに浮かび上がり、出歩くには申し分のない明るさだった。

 嵐の海に消えたと見えたアンジェリークが、三日後アリオスに背負われて我々の前に姿を見せた時、私は膝の力が抜け跪きそうになるほど安堵し、次になぜか怒りにも似た感情が炎のように猛然と沸き起こった。傷つき疲れきったアンジェリークにいたわりの言葉をかけるべきところを、私は説教じみた注意、いや説教そのものをしてしまった。そのことに対する苦い後悔と、先程の訳のわからない激情の熾火の燻りが胸に残り、目をつぶっても眠りに誘われなかった。いや、私は自分の感情をぼんやりとだが把握している。おそらくあれは嫉妬というもの。自分に縁があるなどと夢にも思っていなかった感情…。

 眠れない夜は空を見上げに行く。幼い頃から今に至るまで続く子どもじみた私の癖。それを知る人間はごく限られていて…今ここにはいない。

 ふと人影が目に入り、私は歩みを止める。月光に輝く銀の髪。陽の光の下にあるよりも月光に洗われているほうが似合う。漁に使う網を干すために組まれた横木に肘を持たせかけて立っている後姿には一部の隙もない。男の私でさえ見惚れてしまう細く均整の取れた体。そこに宿るのは、オスカー様やヴィクトール様の持つそれとはまた異なる、しなやかな鋼のような強さ。その強さが嵐の中からアンジェリークの命を救い、窮乏から彼女を守ったのだ。だが私は二人が生還したとき、彼女を休ませるという名目でアリオスの腕の中から引き剥がした。そのこともまた私の胸を苦く満たしている。

 海から吹きつける風が銀の髪を乱し、左手で掻きあげかけてアリオスは振り向く。私の存在に気が付いたようだ。離れて立っているのも不自然なので、私は何気ないふうに歩み寄った。
 「おや、なんだ。モテモテ研究員さんか」
 わざと人を怒らせるような物言いで相手の反応を楽しむ癖のある彼の言動に、いいかげん私も慣れてきていた。丁重に無視するのが私の対処法だ。
 「先程は貴方に対して大変失礼な態度を取ってしまいました。申し訳なく思います。あらためてお礼を言わせてください。アンジェリークの命を助けてくださって、そして彼女を守ってくださってありがとうございました。貴方がいなければ、我々は二度とアンジェリークの姿を見ることはなかったでしょう。感謝いたします」

 数瞬の沈黙の後、アリオスは肩を震わせた。
 「クッ、ククク…ハハハ…ハーッハッハ!…」
 いつもの含み笑いから、ついには耐え切れぬというふうに大声で笑い出した。何がおかしいのだという言葉が喉まで出かかった。が、私のように人の感情に対して疎い人間にも感じ取れるほど、彼の笑い声はどこか虚ろに響き、私は声を出せなかった。
 「ハハ…いや、悪い。あんた、わざわざ礼を言いに来てくれたのか?」
 そういってこちらを見遣る目はいつも通りの皮肉めいた表情。私のそれよりいくぶん濃い緑の瞳。
 「俺はてっきり文句を言われるのかと思ったぜ。あんたたちの大切な天使様を独り占めしたってな」
 一瞬自分の口元が歪むのを感じたが、声は自分を裏切ることなく通常通り出た。
 「悪天候にも関らず船を出して、アンジェリークを危険にさらした貴方の判断ミスについては、非難されて然るべきだと思います。だが、彼女を救い、守り続けることは…おそらく…貴方にしかできかった。感謝しなければいけません」
 どこか愉快げに私の言葉を聞いていたアリオスは横木から離れ、私との間隔を詰めた。

 「なあ、あんた、強くなりたいのか?」
 不意の言葉に私はあらためて彼を見上げる。
 「あんた、力が…欲しいのか?」
 笑いを消してこちらを見据えた彼の言葉はくっきりとした質量感を伴って私の耳に飛び込んできた。

 力…。つい数ヶ月前までの私なら欲しいなどと思いもしなかった。だが今は…。宇宙を揺るがせる異変に直面して、自分が今まで生きてきた世界で積み重ねた知識は何の役にも立たず、己の不甲斐無さにどれほど唇を噛んだか。アンジェリークを失ったかもしれないと思った時、全身の血液が失われたような絶望感の中で私は己の無力さを呪った。そして、今目の前にいる「強き男」に対する鈍い嫉妬心…。
 「ええ…欲しいです」
 実際に考えていたのはほんの数秒だろうか。私は静かに、だがきっぱりと答えた。
 「何の為に欲しいんだ」
 私の答えを受けて、さらに問いを重ねる。普段正面切っての会話を躱す癖のある彼としては珍しいことだ。
 言葉を濁したりごまかしたりする必要性を私は認めなかった。だから答えた。
 「アンジェリークを守るためです」
 アリオスの表情は変わらない。真摯な目で私を見つめている。…いや、どこかその視線の焦点が私よりももっと遠くに結ばれているようにも感じた。
 「そう、誰かを守るための力…って奴か。だが、力を手に入れたとしても、もし守りきることができなかったら、その力はどうなってしまうんだろうな」

 そんなことは考えたくもなかった。もし彼女を失ってしまったら私はおそらく気が違ってしまうだろう。行場の無くなった力など何の意味も持たない。

 湿った風がアリオスのやや長めの前髪を揺らす。低い声が漏れる。
 「…失ったものが大きければ大きいほど、自分の持つ力でどれだけのものを手に入れることが出来るのか確かめてみたい。たとえそれが…」
 彼の緑の瞳に金色の炎が揺らめいたと思ったのは気のせいか。
 私の背を冷たい汗が流れていったのは暑さのためだけではなかった。口の中が渇き切り舌も唇も貼り付いたようになる。
 ふっとアリオスの瞳にいつもの皮肉めいた悪戯っぽい色が浮かんだ。
 「いかんな、どうやら俺もさすがに疲れているらしい。暑苦しいのは我慢して、とっとと横になるとしよう」
 背を向けて数歩進みかけ、振り返る。
 「あんた…意外と面白い人だな」
 片頬を歪め口の端を上げている。笑っているのだ。
 アリオスは再び背を向け、今度はまっすぐ皆の休む小屋の方へ向かった。私はその場に立ち尽くしていた。

 私のように人の心に対して鈍感な人間ではなく、この場にいたのがもっと他の人…例えばオリヴィエ様や…クラヴィス様なら、アリオスの言葉や声音から何かを読み取ることが出来ただろう。私には何も窺い知ることはできなかったが…。その「何か」が我々の将来にとって重要な意味を持つような気がして悔やまれた。だが、相手が私でなければアリオスはあのような顔を見せなかったであろうという気もした。

 私は宙に手を伸ばし、目に見えない「力」を捕まえようとでもするように繰り返し空を掴んだ。愛しい人の名を呼びながら。






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