ひとひら



一面の白

そして

一面の赤

消えてゆく ぬくもり

増してゆく 重み

痛みが 胸を刺す

体中を さいなむ

いつまでも いつまでも

ぎりぎりと

「時が癒す」 と 人は言う

けれど

消えない

消えるはずがない

消してはいけない

時は 止まってしまった

あのときから



この京の都を脅かさんと暗躍する動きがあるとして、私を含め、身分も立場も違う人物が秘かに呼び集められたその日。にわかには信じがたい出来事が続けざまに起こった。
「鬼」の挑戦。
龍神の神子の降臨。
京を覆い尽くす穢れ。
そして、その場にいた我々は、皆、己の記憶のいくつかを失った。
いわば「心のかけら」を奪われたのだ、と帝の弟君にあたる永泉様は語った。

少々の記憶を失っても、日々生きる上で困ることはない。
心が欠けていても、任務に就くことはできる。
剣を振るい、戦うことはできる。
新たに我が主と奉る、神子を守り申し上げることも。

ただ…
朝稽古で汗を流すたび、広がる焦燥の。
水鏡に映る己の姿を目にするたび、覚えるおののきの。
理由がわからない。
おそらく、酷く痛みと苦しみを伴うものであったろう、
記憶をぬぐい取られた見返りは、
己の拠り所のない、おぼつかなさ。

どうせ心を奪うものならば、
訳のわからない不安も、
変わらず胸に落ち続ける痛みも何もかも、
すべて持ち去っていけばよかったのに。
ただ剣を握るだけの存在に、私を変えてくれればよかったのに。


神子のお供をして、京のあちこちを巡る日が続く。
すでに何度となく、神子が怨霊と戦い、祓う手伝いをしてきた。
穢れが一時的にでも去った場所の、
穏やかな京の光景を見ることを、神子は好まれた。
異なる世から来られたために、物珍しくて仕様がないらしい。

此度も都の南、墨染へと足を向けた。
「わ…あ。きれいですね…」
丁度桜の盛りで、土地全体が白くけぶっているようだ。
舞い散る桜吹雪の下に、両手を広げ走り寄る神子の後を、私はゆっくり付いていった。

一面の白…。
一面の…。

突然、私の視界は赤く染まった。

一面の赤…。
一面の…
血潮…。

あの時、私の視界を染めた、血…。

痛みが胸を刺す。

私は…。
私は……。
こんなことを忘れていたのか。
…忘れられたのか。

私という男は…。
なんという…。
犬畜生にも…、
いや鬼にさえ劣るだろう…。

「…頼久さん」

自分を呼ぶ声に、私は我に返る。
神子が私の顔を覗き込むようにしている。

「どうしたんですか」

「いいえ、何でもありません…」

この方に、心配をおかけすることなどできない。

「どうやら…心のかけらが戻ってきたようです」

私の言葉に、神子は顔を輝かせた。

「本当ですか。よかったですねっ」

だが、すぐに不安げに曇らせる。

不意に手が伸びてきて、私の顔に触れようとした。
私は思わず後ずさった。

神子は宙に手を伸ばしたまま、戸惑いの色を顔に浮かべていた。

「あ、あの…、頼久さん、あんまり顔色が悪かったから…」

「…申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。

「…もう、帰りましょうか」

左大臣の屋敷までの帰り道、神子も私も一言も口をきかなかった。


次の日、私は神泉苑まで神子のお供をした。
池を渡る風の清々しさに最近疲れ気味の神子の顔もほころび、私も少し安心した。

「あの、頼久さん…」
不意に神子が、細い声で呼びかけた。
「心のかけら…どうですか…」
そっと、訊ねてくる。

「神子殿…」

神子はどこか不安げな面もちでこちらを見上げていた。
私の昨日の態度が、神子にこのような表情をさせているのだ。

「お気遣いいただき、申し訳ありません」

「いえ、そんな…」

「忘れていたことを…思い出しました」

「そうですか」

神子はまだ少し困ったような表情のまま、微笑んだ。

「なんだか、頼久さんが辛そうに見えたから、悲しい想い出なのかな、なんて思ったりしたんですけど…。きっと、私が突っ込んだりしちゃいけないことなんですよね」

「神子殿…」

「それでも、辛くても、頼久さんの一部なんだから、戻ってよかった…なんて、私思っちゃったりして。でも、それこそ、よけいなお世話ですよね」

神子はくしゃりと顔をゆがめる。

「あはっ、私、自分でも何言ってるのか、わからなくなっちゃいました」

私は…。
何と言えばよいかわからなかった。
神子の言葉が有り難くて…。
申し訳なくて…。
顔をうつむける。

「…頼久…さん?」

「…ありがとうございます、神子殿」

ようやく私は口にする。

「神子殿のおっしゃる通り、戻ってきてよかったと思います」

どれほど胸が痛もうと、
これは私が引き受けなければいけない罪。

「そうですか」

神子は、今度は安心したように微笑んだ。

ふっと私は、温かい手が自分の背を支えているような、そんな心持ちになった。

まだ、心のかけらは足りないけれど、取り戻すことを恐れはすまい。
それもまた、私…なのだから。

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