イエスとかいう男の誕生日がめでたいかどうかはともかくとして。
クリスマス休暇に仕事をしようなんていう人間の気が知れない。
クリスマスってやつは相手の喜ぶ顔を思い浮かべながら秘密のつまった包みを用意して、親しい者とささやかなごちそうを囲む、そういうものだろう。
引いたばかりの電話の受話器を耳に当てながら、ビリー・カーンは舌打ちをした。
突然かかってきた電話の用件は、まさしく今夜・クリスマスイブの晩に仕事を申しつけるものだった。
ビリーの雇い主であり、この街の「顔役」であるギース・ハワードが今夜出席する予定のパーティーに、護衛役で従えというのだ。
「仕方がないだろう。今夜の護衛予定の奴が、訳あって倒れちまって、あとの連中は皆予定がふさがっているんだ」
ギースの秘書の一人、ホッパーが電話線の向こうからいらついた声を響かせる。
ビリーも言い返す。
「だってあんたら、オレにはまだ無理だっていって、用心棒をさせやしなかったじゃないか」
ビリーがギースの配下となって半年余り。
本来なら、組織の最下層の使い走りとして駆けずり回り、登り詰めても街路一区画のまとめ役がせいぜいのはずだったが、ビリーは自分でもよくわからない立場にいた。
一応ギースの用心棒を勤めるということらしい。
だが、ギースは「まだ早い」と一言残し、秘書達にビリーの身柄をあずけた。
秘書達はサウスタウン在住の日系の棒術家のもとにビリーが修行に通えるよう手配した。そのうえで。
「チンピラをギース様の側に置くわけにはいかない」
と面と向かって言い切って。
ビリーに最低限の一般常識、マナー、エチケットを身につけるよう強要したのだ。
無論それはギースのあずかり知らぬところである。
そもそも最初に顔を合わせたきり、ビリーはギースに会っていない。
この半年、ビリーは棒術の修行に通い、アフター5は指示されたスクールに通う忙しい日々を送っていた。
そこにこの電話である。
「ギース様の護衛は我々でも充分だ」
ホッパーは低い声を出した。
彼が実は銃の使い手であることを、ビリーも聞かされている。
「ただ、上院議員のパーティーに、SPの一人も付けずに出席したなど、ギース様の評判に関わるからな」
「要するに、別にオレはいてもいなくてもいいってことだな」
ビリーの声が憮然としたものになるのも無理からぬことであった。
「…とにかく来い。いいな」
「…イエッサー」
所詮やとわれたといっても吹けば飛ぶような立場のビリーである。どうのこうのと言うことはできなかった。
「では、今すぐタワーに来い」
「パーティーは7時からだろ?」
「…お前をそのまま外に出すわけにいくと思うか?」
ホッパーの声は苛立ちを押さえ込んで、いっそ静かに響いた。
ビリーは受話器を置くと溜め息をついた。
後ろを振り向くと、昼食の片付けをしかけていたリリィが不安そうに見つめている。
「リリィ、悪い。今から出かけなきゃならなくなった」
リリィは大きな目をさらに見開いた。
「…遅くなるの?」
「ああ…何時に帰れるかわからない」
こん畜生。ビリーは胸の中で悪態をつく。
リリィにとっても初めて人並みに迎えることのできるクリスマスだったのだ。
初めてまともな調理器具を揃えて、初めてスーパーのカートの中に好きなものを好きなだけ放り込んで…
「腕を振るうから楽しみにしててね」
と笑顔を浮かべていたのに。
「しょうがないよね、お仕事だもん」
11歳になったばかりの幼い妹の物わかりの良さに、かえってビリーは顔を歪めた。
「明日…一緒にご馳走食おうな」
「うん」
ギース・タワーに着くと、受付前にホッパーが立っていた。
「遅いぞ」
「しょうがないだろう、足がないんだから」
ビリーはスクールに通うのに必要に迫られて買ったスーツを手に提げていたのだが。
「こっちへ来い」
いかにも不機嫌な声で言う。
それから2時間後。
ビリーはげっそりとした顔で、鏡に向かっていた。
寄ってたかって、オモチャにされた気分だ。
より正確にいえば、女の子の着せ替え人形だ。
普段バンダナに押し込んでいるプラチナブロンドの髪は、切り揃えられ、カッチリと撫でつけられている。
クローゼットの中にぎっしり詰まっている中から何回となく試着した末、選ばれたスーツは、生地が淡い光沢を放ち、自前のものと値段の桁がまるで違うだろうことはビリーにもわかる。
襟元に指を突っ込んでタイを弛めたい衝動をなんとか押さえ込んでいるビリーに、ホッパーは声をかけた。
「なんとか見てくれは整ったな。後はせいぜいボロを出さないようにしろ。うるさ方ばかり集まっているからな」
「…うまくやってみせるよ」
溜め息混じりにビリーは答えた。
「…そろそろ時間だな」
もう一人のギース付きの秘書、リッパーがギースを自宅まで迎えに行っているはずだ。
エントランスに降りてまもなく、黒い大型車が横付けされた。後部座席にはギースが乗っている。
ホッパーが近寄ると、窓のガラスが下りる。
ホッパーはギースに二言三言話しかけ、ビリーに目配せした。
「本日の護衛を務めさせていただくことになりました。よろしくお願いします」
そう一礼して、ビリーは車に乗り込んだ。
車は馬鹿馬鹿しいほど大きく、ビリーは自分の得物の棒を持ったまま乗り込めたことに内心舌を巻く。
ギースは黒いタキシードを身につけ、横にコートと赤い薔薇の花束を置いていた。ブルーの瞳でビリーをちらと見遣る。
秘書二人に預けたまま、この人は自分のことなど忘れてしまっているかもしれない。
ビリーがそんなことをふと思っていると、
「『馬子にも衣装』だな」
至極淡々とギースは口を開いた。
「マゴ…?」
ビリーは思わず聞き返したが、ギースは何も反応しない。車はすぐに走り出した。
何一つ会話は交わされないまま、車は上院議員邸に到着した。
先に車を降りたビリーは辺りに目を走らせる。
初めての護衛という仕事に背中が痛いほど緊張する。
エントランスの階段を上るギースのすぐ後ろに付いていると
「今日は目立つな」
振り向きもせず、ギースが低く声をかける。
そりゃあ無理だろ。ビリーは思わず胸の中で叫ぶ。こんな棒を抱えていて目立たない訳がない。どう考えたって、人選ミスに違いない。
実際パーティ会場に一歩踏み入れたとたん、ビリーはこちらに向けられたいくつもの視線を感じ、つい足を止めた。場にわき起こる低いどよめきは、街の「重要人物」であるギース・ハワードの登場によるものだろうが、間違いなくいくつかの好奇に満ちた視線がビリーに突き刺さってくる。ちらちらと目を向けながらのひそひそ話、あるいはくすくす笑い。
空気が暑く、重い…。そうビリーは思った。
ギースはホスト役の議員とおぼしき人物に歩み寄り、握手を交わす。そして隣に立つ女主人に薔薇の花束を渡した。夫人は薔薇の花を一本抜き取り、ギースの胸に飾った。ギースは夫人の手を取り口づけする。文句のないジェントルマン振りだった。
交わされ続ける会話と笑い声。グラスの響き。食べ物の匂い。人いきれ。
ビリーは壁際に立ち、漠然と会場に目を向けていた。
いったい何に気を払えばいいのか、彼にはまだわからなかった。そもそもあまりにも人が多すぎる。
ただ、常にギースには目を向けた。
…いや、目が引き寄せられた。
今夜のギースは決して闘気を発することなどなく、穏やかに談笑している。黒のタキシード姿が男の目から見ても見事に決まり、憎らしいほどの紳士振りだ。彼の側には入れ替わり立ち替わり、明らかにお偉方とおぼしき人々がまとわりつく。いちいち相手をするのも大変そうだ、などと、思わずビリーは要らぬ同情をしてしまうのだが…。人垣の中で、ギースは明らかに「目立って」いた。その場にいる誰よりも格が上、といおうか。けして威圧感を放つわけではないのだが、周囲の空気を支配している、といおうか。とにかく思わず目を引き寄せられる何かを、ギースは放っていた。
「お飲物はいかがですか?」
トレイにグラスをいくつも載せた青年が不意にビリーに声をかける。
「…いや、仕事中だから」
ビリーが断ると、青年は心得ているというふうに微笑む。
「こちらは、ソフトドリンクばかりです」
黙ってジンジャーエールのグラスを取りながら、さすがによく了解していやがる、とビリーは思う。
二口ほど飲んだところで、音楽が鳴り始める。
顔をきっぱり白と赤に塗り分けた女性がビリーに近寄ってきた。
「踊りませんこと?」
「いえ、仕事中ですから。それに…」
ビリーは正直に答えた。
「ダンスのステップを知りませんから」
「まあ、それは残念ね」
ちっとも残念でなさそうに、女性は笑いを浮かべた。
「またね。ハンサムな用心棒さん」
女性が立ち去ると、ビリーは息を吐き出し、グラスの中味を一気に飲み干した。それでもあたりの空気にこもった熱気はどうにもならない。
ただ、はじめにくらべれば、それでもいつの間にか、自分に向けられる視線が減ったことにビリーは気付いていた。
何時終わるともしれず続くように思われたパーティも、やっとお開きになった。
後はリッパーがギースをまっすぐ私宅まで送れば終わり。ビリーはここでお役ご免だ。彼の私服は休み明けまでタワーに置いておくより仕様がない。
サウスタウンの冬の夜の寒さはスーツ姿のビリーの身体に染みたが、熱気と人いきれで頭が痛み始めていたビリーにとって、いっそ心地よかった。
もうずいぶんと遅い時刻になっているだろう。リリィはもう眠ってしまっただろうか。人が潮のように引いていくのを背で感じながら、ビリーはぼんやりと、夜空を見上げていた。サウスタウンという街は決して空気の澄んだところではないが、それでも冬の夜は若干星が見える。
「のぼせたか」
不意の声に振り返ると、コートを着たギースが立っていた。
「…はい」
やや悔しい気持ちを覚えながらも、正直に、ビリーは頷いた。
いつの間にか人も車もすっかりと減って、アイドリング中の黒塗りの大型車がやけに目立っている。
「…どうされたんですか」
このままでは、まだ仕事は終わらない。
「なに、たまには夜風に当たるのもよかろう。あそこは暑かったからな」
そう言いながら、ギースは涼しげに笑う。
ビリーが小さく溜め息をついたのを、ギースは見逃さなかった。
「…なんだ」
「いっいえ、別に」
ビリーは慌てる。
「…ただ、エライ方々のお付き合いも大変だと思って」
ギースは目を細める。
「そうだな、まったく、つまらんことだ」
ふっとギースはエントランスの方を振り返る。入り口の近くの植木には電飾が飾られている。
「特にクリスマスなどというものはくだらんな。一体何がめでたいのか、馬鹿騒ぎする連中ばかりだ。…馬鹿馬鹿しい」
その声が心底冷たく響いて聞こえて…。
ビリーは、ふと、この人は誰かとクリスマスを祝ったことはないのだろう、と思えた。
自分には家に帰れば待っている人間がいるけれど。
この人は…まったくの一人だと…背中を見ながら、意味もなくそう思えた。
ふと、ビリーの耳に鐘の音が届いた。
ギースが振り返る。
「Happy Birthday!」
その瞳にわずかに悪戯めいた光が浮かぶ。
「この年末の気ぜわしい時期に生まれた男への、せめてもの祝いの言葉だ」
ビリーは一瞬呆然とした後、急いで首を巡らせた。4軒ほど離れた建物の壁に張り付いた時計が12時を指しているのを確認する。
…あの言葉はきっとキリストに向けたものだろうけれど…。コネクションに入るときに確かに何やら履歴らしき書類を書かされ、それに目を通しているだろうが、覚えているとは思えない。だが…。
「なんだ、時計を持っていないのか」
ギースの声に我に返る。
「あ、は、はい」
安物のデジタル時計を持ってはいるが、スーツ姿に合わせられるようなものではない。
ギースは突然、自分の左腕にはめていた腕時計を外した。
「これを使え。次からは遅れるな」
差し出された時計は、派手な装飾はないものの、落ち着いた銀色の光を放ち、知識の無いビリーにもとんでもなく値の張る物だとわかる。
ビリーは唇を噛み、そしてギースの顔を見上げた。
「気持ちはありがたいですが…オレは、施しは受けない」
ギースは目を細めた。
「自惚れるな」
低く言い放つ声に、ビリーは目を見張る。
「お前は自分が何もしなくても物を与えられるほど、価値のある人間だとでも思っているのか。いや、そこまで自分を卑しめているのか」
ビリーは声を出すことができなかった。
「上に昇ろうと足掻こうともしない奴らに紙切れ一枚でも与えるほど、お前の属している世界は甘いとでも思ったか、ん?」
ギースの声はさらに低まり、ビリーは突然自分の身体を取り巻く寒さを強く実感した。
ふとギースの表情がもとに戻る。
「これは、今日のお前の仕事への、私からの報酬だ」
「けど、オレは何もしなかった。ただ突っ立っていただけだ」
思わず言葉遣いが崩れてしまう。
「だが…半年前のお前なら、あの場に立つことも出来なかったのではないか。ハワードコネクションのものだからといって、ただのチンピラを側に近寄らせるほど、ああいった連中は器量が大きくはないのだ。これは、お前があの場所に立つことが出来た記念だと思えばいい」
ふいにギースは笑みを浮かべた。
「それとも…こちらのほうがよかったかな」
胸に挿した赤い薔薇の花を抜き取る。
「冬の最中の薔薇だ。不自然な物だが、それだけ手間のかかった貴重なものだろう」
差し出され、ビリーは思わず手を伸ばす。その掌に薔薇と時計が乗せられた。
車のドアが開き、リッパーが降りてくる。
「…ギース様!」
己を呼ぶ声にギースは振り返る。
「では、な」
車の方に向かいかけ、ギースは立ち止まる。
「次はダンスも覚えておけよ」
「…え?」
コートを風にひらめかせながら、ギースは歩み去った。
車が走り去るまで、ビリーは見送った。
風の冷たさに身震いしながら空を見上げると、地上の灯りにも掻き消されることなく、星が瞬いてた。
19歳の最初の夜、ビリーは一人家路を辿り始めた。