「ウルフ〜〜ッ!!」
炎のカーテンの向こうからウラシマンが叫ぶ。
何度となく闘いを交わした敵…ややお調子者でドジ臭いが、いつも前向きで一所懸命なこの小僧のことを、実を言うと俺は決して嫌いではなかった。
「ゆけえ!ウラシマン!!我らはルードビッヒ様に地獄までお供せねばならぬ。なにしろ大勢の恨みを買っておいでの方だからな!」
猛然と煙と炎が吹き上がり、小僧と我らの間を完全に隔てる。
強化服を通してチリチリと肌が焼けるが、放心したように座り込んでいるミレーヌも、肩を落としひざまづいているスティンガー部隊メンバーも、誰も動こうとしない。
俺は腕の中のルードビッヒ様を見た。
白皙の貴公子と謳われた顔は、今は蒼白い磁器のようだ。
白い衣装の胸にルードビッヒ様自身の鮮血が、この方の愛した真紅の薔薇を咲かせている。
建物が崩れ始めているのだろうか、足下が震える。
死ぬことは恐ろしくはなかった。
いつもこの方のために命を投げ出し続けてきたのだから。
この方が頂点を極めた次の瞬間に、共に炎の中に消える…
一人の小悪党の最期としてはこの上ないものだろう。
「!…ルードビッヒ様…!?」
熱風が吹き付けた直後、ルードビッヒ様の眉がかすかに動いた気がした。
俺は慌ててその胸に耳を付けた。
かすかに、ほんのかすかにだが鼓動が感じられた。
「生きていらっしゃるぞ!」
俺の叫びにホークやベア達が顔を上げた。ミレーヌも虚ろな目をこちらに向ける。
「撤退するぞ!急げ!」
この方が生きているのなら、ここで幕を引く必要はない。
皆機敏に立ち上がった。一人を除いては。
「ミレーヌ!何しているの!」
キャットが振り返った。
「で、でも私、私は…」
ミレーヌはガクガク震えながら首を横に振った。
「馬鹿!」
キャットがミレーヌの頬を平手打ちした。
「謝るなりなんなりは後にしてちょうだい!さあ!」
腕を取り立ち上がらせる。
「行くぞ!」
我らは瓦解が始まったビルの屋上を駆けだした。
俊敏さが命のスティンガー部隊だ。この程度の炎に負けるはずがない。
およそ1時間後、我らはネオトキオの裏町の古ぼけた診療所に押し掛けていた。モグリの老医師と年齢不詳の看護婦が一人いるだけの、小さなところだ。
通常の病院は無論のこと、ネクライムの息がかかっている場所にルードビッヒ様を運び込むわけにはいかなかった。どの幹部もいつかルードビッヒ様を引きずり降ろそうと鵜の目鷹の目で隙を狙っていたのだから。
白髪の老医師は俺が裏道を歩き始めたばかりの頃何度か世話になった。もっとも当時はまだ胡麻塩頭だったが。モグリでも腕は確かだし、何より口が堅かった。俺は昔と同じように呼びかけた。
「世話になるな、親父さん」
「ふん」
親父さんはいかにも頑固そうな眉をうごめかせた。
「いきなり嵩高い奴らが大勢押し掛けよって、まったくえらい迷惑だ。どいつもこいつも見事に焼け焦げおって」
じろりと診察台の上のルードビッヒ様に目を向ける。
「こいつが近頃ネオトキオだけでなく、世界中を騒がせていた若造か」
「頼む、親父さん」
「まったく、生きているのが不思議だ。どう見ても生命力が強そうに思えんがな。出血がそれほど多くなかったのかもしれんな」
ルードビッヒ様の傷を確かめながら言う。
「とにかく、こりゃ縫わにゃならん。奥に運ぶのを手伝え」
親父さんは看護婦になにやら声を掛けながら扉を一つ隔てた部屋に入っていった。俺はルードビッヒ様を抱きかかえると親父さんの後を追った。
粗末な台の上にルードビッヒ様を横たえる。着衣を脱がせるべきだろうかと考えていると親父さんの声が飛んできた。
「何してる、とっとと戻れ」
「…俺にも何か手伝わせてくれ」
「おまえみたいなデクノボウが突っ立っていても邪魔になるだけだ。それよりおまえら、自分の火傷をなんとかしろ。そっちまで手が回らんから自分で薬を付けとけ!」
看護婦が薬棚をガチャガチャと探ると小瓶を取り出し、文字通り俺に放って寄越した。
「後はできるでしょ」
今も昔も変わらぬ恐ろしい仏頂面で言う。
俺は瓶を握り締めながら頭を下げた。
「…頼む」
「……任せろ」
親父さんは振り向かず、低い声で答えた。
たいして広くもない待合室に戻ると、いくつもの視線が一斉に俺に向けられた。
「後は親父さんに任せるしかない。俺達に今できることは、自分たちの態勢を万全に整えておくことだけだ。まずは怪我の手当だ」
言いながら俺はプロテクターを外し始めた。
他の連中ものろのろとだが動き始める。
実際の所、特殊強化服に身を包んでいた我々は、焼け焦げた見た目ほど重い火傷を負っていたわけではなかった。問題はドレス一枚を纏っていただけのミレーヌだ。
キャットが彼女の横に立った。
「さ、ミレーヌ」
ミレーヌはゆっくりと首を横に振った。だがキャットは構わずミレーヌの火傷の手当を始めた。ミレーヌもそれ以上拒むこともなく、されるがままになっていた。
キャットはミレーヌの腕に薬を塗りながら静かに呟いた。
「ミレーヌ…あなた、ルードビッヒ様を愛していたから刺したのね…」
ミレーヌは目を見開いた。
俺も、ホーク、シャーク、ベアも一斉に振り向いた。
だが…。
俺達にも初めからわかっていたのかも知れない。
誰もルードビッヒ様をナイフで刺したミレーヌのことを責めようとはしなかった。
…権力の頂点に立ったルードビッヒ様は何故か辛そうに見えた。ただひたすらあの方の言葉に従い動くのが我らの務めだったが…。俺のようなつまらない男にも感じ取れるほど、すべてが閉塞感に包まれていた。カタストロフィ…破局という名の結末は必然だった。実際にそれを行ったのがミレーヌだったというだけだ。
「私、私は…」
ミレーヌは肩を震わせた。
「私は『総統』フューラーの娘…」
彼女の口から明かされた「衝撃の事実」。だが、俺にとって最早それはあまり意味を持たなかった。
「私はルードビッヒを裏切るためにこの十年生きてきた。ただそれだけのために、この世に存在していたのよ」
ミレーヌは目を閉じた。誰もが黙って彼女の次の言葉を待った。
彼女は少し顔を上げ、目を開き、どこか遠くを見るような瞳をした。
「…そして、ルードビッヒが力と苦しみの頂点に立ったとき、とうとう私の手で終止符を打った…」
「なら…」
キャットがミレーヌの腕をつかみ、静かな、だが力強い声を掛けた。
「今のあなたは…?何者なの?何が望み…?」
「今の…私…?」
見る見るうちにミレーヌの瞳の色が変わる。彼女は陶然とした声を上げた。
「…私はとうとうルードビッヒを裏切った。だから…もう彼を裏切る必要はない…!」
キャットはミレーヌの肩を抱いた。
ミレーヌはキャットの肩に頭を預けた。
俺は一息吐くと、その場に座り込み、目を瞑った。
祈るべき神などとっくの昔に捨てたはずだったが、願わずにはいられなかった。
…ルードビッヒ様、どうか…
どれだけ時間がたったろうか、歪んだ音を響かせてドアが開いた。
俺は即座に立ち上がった。
「やるだけのことはやった。後はあの若造次第だ」
紅く染まった手術服を脱ぎながら親父さんは言った。
「わしらはもう寝るぞ。足りんだろうが、ここのベッドは適当に使え。…まったくえらい迷惑だ」
俺は黙って親父さんに向かって頭を下げた。
「…言っておくが、まだ絶対安静だからな」
ドアが閉まっても、俺はなかなか頭を上げることが出来なかった。